4-41 罪人
◆
駆け続けた。
北へ。ルッツェへ。
最後の地へ。
守備隊と出くわしても突っ切った。私はドロドロに汚れ、みすぼらしく、きっと鬼のような形相をしていただろう。
やがて守備隊に追いつかれ、私の馬は足を折り、そうして男たちに確保された。
「ここはどこ?」
両側から抱え上げられた私の問いかけに、守備隊の兵士が「ルッツェのすぐそばだ」とそれだけでも恫喝といっていい口調で答えた。
思わず笑みが浮かんだ。
すぐそばまで来ているのだ。
兵士が不思議そうに私を見て、しかし素早く手を縛り上げると、馬に抱え上げた。
そう、この守備隊は兵士だった。ルスター王国の紋章が具足に縫い取られている。たぶん、騎馬隊の一部だろう。馬の乗り方に練度を感じるし、私を追い込んだ手法も見事と言うしかない。
日が暮れる前に、私はルッツェにたどり着いていた。正確には、連行されたのだけど。
ルッツェの外に作られた野営地に入り、私は体を洗うように言われ、次に服が用意された。
それで十分だ。
私は全身を念入りに洗い、何度も何度も冷水を浴びてから、丁寧に水を拭ってから着物を変えた。
私が女だったからだろう、そばで見張っているものはおらず、離れた場所で兵士が数人、遠巻きにしていた。だから容易に野営地を脱出できた。体を綺麗にしている間に日が暮れ、篝火が焚かれていても夜の闇は十分すぎるほど私を隠した。
ルッツェの街は厳重に守られていて、夜間の出入りは緊急時以外はできない。
しかし守られていると言っても、たかが壁だ。
こっそりと警戒している歩哨をやり過ごし、空堀に静かに降り、逆茂木の間をどうにか抜ければ、そこには防壁がある。木で作られているが、頑丈なのは私にもわかっている。
呼吸を整え、イレイズを発動した。
かすかな音とともに、壁に穴が空いた。人が一人通るには十分である。
そろそろ私が消えたことで騒ぎになるだろう。
それでもルッツェの内側に入れた。入ってみると意外に喧騒がある。さすがに最前線ではないし、普通の街のようなものなのだと、やっと理解が追いついた。
呑気なものだ。
何も知らないのだ。あの地獄の空気も、ここにいれば知ることもなく、覚えている必要もない。
通りを小走りで抜け、精霊教会の支部に向かった。建物が見える。警備のものが二人、門のところに立っている。
ここに来るまで、どうにか隠し持ち続けていた腕章を腕につけた。
そうして堂々と私は正面から精霊教会の建物に向かった。警備のものがこちらを見るが、私は少し慌てている演技をして、「すみません、通してください」と声をかけた。それで通されるわけもないが、前置きは必要だ。
止められたところで「ソニラ助祭について、報告しなくてはいけません」と言いながら押し通ろうとすると、二人は混乱したようだった。
「ルティア司祭に直接報告しなくては。時間がありません、通してください」
警備の二人が視線を交わし、それで私は通された。二人はそのままその場に残った。
なんだ? 何かがおかしい。
しかし今、それを考えている余裕はない。
建物の玄関を勢いよく開け、吹き抜けをちらっと見上げて誰もいないのを確認し、階段を駆け上がる。人の気配はする。夜でも仕事はあるのだ。外からも明かりでそれはわかっていた。
緊張はしない。私は冷静だ。
以前、通された部屋の前まで来て、ドアをノックする。
返事があった。
ルティアの声。
容赦することはない。
私は扉をイレイズのファクトで消し飛ばし、中に飛び込んだ。
飛び込み、見回す。
いない。
誰もいない。
混乱しながらもう一度、部屋を確認した。
誰もいない。
隠れてもいない。
返事があったはずだ。
なんだ? これは、罠か……?
何かが私の腕を掴み、次には捻りあげられている。
床を蹴りつけ、拘束を脱しようとするが、更に腕を捻られる。
床に肩から叩きつけられ、やっと相手を視認できる位置に頭がきた。
視線を送り、混乱はより深まる。
私を組み伏せている相手は、いない。
私の腕を極めて、背中にのしかかっている感触と重さはある。
姿がない。
透明化、インビジブルのファクトか!
私はがむしゃらにイレイズを解き放った。
壁や天井に穴が開き、構造物が撒き散らされる。椅子が吹っ飛び、デスクは二つになり、明かりが消える。大量の書類が舞い上がり、引き裂かれる。
拘束が解けた。立ち上がり、周囲を確認。
天井の大穴から月明かりが差し込んでいる。
薄暗い室内に、やはり私以外に人はいない。
「乗り込んでくると思っていたよ」
声がした。声の主は見えないが、声の位置はわかる。
そして足音がし、床に散らばる壁や天井だったものが、かすかに動くのがわかった。
さっと体を逃がそうとしたが、拳のようなものが私の頬を捉え、姿勢が乱れたところに胸の中心を打たれ、こめかみを尖ったものが撃ち抜いた。その蹴りで一瞬、意識が途絶える。
私は気付くと膝をつき、無意識に立ち上がろうとして、しかしゆらゆらと揺らめいていた。
足に力が入らない。腕も上がらない。呼吸が不完全で、息を吸うたびに激痛が走る。
「その程度の使い手とは、情けないな、ユナ隊長」
声はルティアのもの。
しかし、どこにいる?
前触れもなく手首を掴まれ、引きずられる。足を払われ、頭から床に落ちる。
手首を掴んでいる手に私は触れた。
血飛沫が散り、私は頭と肩から床に落ち、転がり、体に染み込んだ動作で立ち上がろうとして、失敗した。
視界が滲み、歪み続ける。平衡感覚がおかしい。
目の前では、何もない空間から血が滴っている。いや、その血の流れは消え、虚空からポツポツと床に血が落ちている、まるで空気が血を流しているような光景が現れた。
ふざけたことを、と言ったのは誰だったか。
私はこの一瞬に全てを駆けた。
壁一面を消し飛ばす、渾身のイレイズ。
轟音とともに壁が消し飛び、天井が崩れ始める。
その中をすり抜けて、それがきた。
目の前。
見えない。防御しようとした。
額の真ん中を何かが打った。尖っているのは肘か。
あまりの衝撃に体が頭に引きずられるように跳ね、後頭部が床にぶつかる。
全身の感覚があやふやになり、痛みも痺れも感じない代わりに、まるで自分が浮遊しているような感覚があった。
建物の一部が崩落する音の中で、私は襟首を掴まれ、引きずり上げられた。
「罪人にふさわしい場所を用意するよ、ユナ」
罪人。
姿を見せない本当の罪人は、今、どんな顔をしているのか。
目の前にいるはずの男に手を伸ばそうとするが、手は緩慢にしか動かない。
体が振り回された、と思った時には側頭部が壁にめり込み、今度こそ私は昏倒した。
(続く)




