1-13 持ち物
◆
馬にはレオンソード騎士領ではそれほど乗ったことはなかった。
そもそも小作人だから、馬に乗る身分ではない。それでも乗ったのは、農耕用の年老いた馬で、はっきり言って駆け回ることなどない。
ウン族で俺を鍛えたのは、騎馬隊の男たちだった。
シロは詳しく話さなかったが、ハガ族に無数にある部族の中で、いくつかの集団があり、それらの集団の中から選りすぐりの若者が騎馬隊として組織される。
この騎馬隊は部族の垣根を越えて、部族の移動する範囲内を駆け回り、護衛する。
全体では何騎になるかは知らないけれど、ウン族にはその騎馬隊のものが二十騎ほど同行していたようだった。荷車を押したり曳いたりするものが知っても仕方ないことだし、誰も教えてくれなかったのだ。
とにかく、その騎馬隊のうちの二人が俺に馬術を突貫で教え始めた。
鞍の乗せ方から始まり、馬同士の駆け合いまでに五日がかかった。その間に馬の世話についても叩き込まれる。騎馬隊のものは自分よりも馬を大事に扱う。ほとんど分身のような扱いだ。
六日目から、鞘に納めたままの剣を手に馬上での戦いの訓練になった。
俺にも剣が与えられたが、はっきり言って形は剣というだけだ。刃はほとんど切れない。
調練の後、俺は剣を研ぐように言われ、その剣の形をしたものをどうにか切れるようになるまで、一日に三時間は研いだ。周囲は真っ暗で、月明かりしかないのでうまくできているか、不安だった。
調練は俺が突き落とされても、止まることはない。日中はとにかく、ひたすら剣で打ち合い、もしくは駆け合う。落馬も危険なら、馬が至近距離にいるので蹄にかけられる危険もある。
しかし続行だ。
馬の限界を知れ、と何度も言われた。
馬はいつまでも走っているようで、限界を超えるとばったりと息絶える。だから馬の体力を把握して、これ以上は不可能だ、というところで足を止めさせる。そして回復を待つ。水と草だけではなく、塩をわずかに舐めさせる。その塩は常に身につけている。
十日目が終わった時、二人は「戻るぞ」と馬を疾駆させ始めた。
俺も自分の馬を走らせた。十日の間に呼吸が合うようになり、俺がぐっと身を沈ませると、馬は全速で駆け始めた。
風を切っていく。真冬の寒さがより一層、強くなる。
ただどこか、暖かくもあるのだ。馬の体温だろうか。
日が暮れる頃、三騎揃ってウン族の集団へ戻った。三人ともに馬の世話をしたが、そこへシロがふらっとやってきた。
俺から遠いところで三人が話し始める。俺は馬の体を拭って、わざと聞かないようにした。
「リツ、こっちへ来い」
シロの声がしたので、俺は駆け足で三人の元へ向かった。
「悪くないと二人は言っている。つまり、合格だ」
「そうですか」
思わずそう応じていたけれど、次の瞬間には俺を鍛えた一人が素早く脚を繰り出し、俺の脚を払っている。
倒れながら受身を取って、すぐに起き上がろうとするが、その体を支える手をまた足で払われ、今度こど無様に地を這うしかない。
「口の利き方に気をつけろ」
起き上がろうとするが、肩を踏みつけられる。
跳ね除けようとしたけれど、そうしなかったのは「待て」とシロが低い声で言ったからだ。
俺は顔だけを上げて、シロを見上げた。
シロは真面目な顔で、こちらを見ている。
すでに日は暮れかかり、光の陰になっているが、シロの表情は真剣だとその気配ははっきりと語っていた。
「こいつは、俺が拾った。ただの浮浪者かと思ったが、そうでもないらしい」
「まあ、十日であれだけやるのは、珍しいですがね」
騎馬隊の男の一人の言葉が舌打ちをして、俺を踏みつけていた方も足を外した。シロの持ち物に勝手はできないということか。
やっと俺は立ち上がることができた。
「リツ、騎馬隊でやっていくつもりはあるか。ウン族の一員になるか、ということだが」
すぐに答えなかったのは、躊躇ったのではなく、言葉遣いに気をつけるべき、というだけのことだった。
「御恩は忘れませんが、俺は、行かなくてはいけない場所があります」
「どこだ?」
「深き谷のそばに、人を訪ねるのです」
騎馬隊の二人が視線を交わす。何を言っているんだ? という感じの空気が露骨に二人から流れてくる。
しかしシロだけは少しも雰囲気を変えなかった。
「深き谷まではここから、そうだな、馬では二十日もかからないが、そこより先はもう馬を連れて行くことはできない。岩場を這い上がるようなものだからな」
「深き谷に行ったことがあるのですか?」
「その入り口まではな。あまり面白い場所でもない」
シロなりのジョークなのかもしれないけれど、誰も笑わなかった。
沈黙の後、何か必要なものはあるか、とシロが言ったけれど、どういう意味か、咄嗟には計り兼ねた。俺がウン族の一員になるために必要なもの、という意味なのかと考えたが、その誘いを受けるつもりはなかった。
なかったけれど、誘いを突っぱねたらどうなるかは、あまり考えたくなかった。
また荷車にくっついて、奴隷のような生活をするのだろうか。
俺が何も言わないからだろう、シロが大きく舌打ちをした。
「深き谷へ行くのに、何が必要か、と訊いているのだ」
そう言われて、やっと言葉の意味がわかった。
シロは俺を送り出してくれる、というのだ。
「着物と、食料と……」
そこまで言ったところで、シロの手が伸びて俺の襟首を掴むと、力づくで体が吊り上げられた。
「そういう当たり前の話じゃない。何か特別に必要か、ということだ。誰が着物も食料もなしに冬の山にお前を送り出すものか」
優しさ、というものがこういう形をとるのを、俺は初めて知った思いだった。
俺はいくつか、頼み事をした。
馬と剣、そして地図だ。
地図はもう俺の手元から消えていた。銭に変えてしまったのだ。それくらい、シロに拾われる前の俺は困窮していた。
シロは翌日には地図を見せてくれた。母が用意してくれていた地図とは精度は違うけれど、おおよその位置関係はわかった。
「これはお前にくれてやる。持っていけ」
畳まれた地図が押し付けられ、俺は礼を言って頭を下げた。
その二日後に俺は見送られることもなく、ウン族の元を離れることになった。
シロは最後までぶっきらぼうで「面倒だから早く失せろ」というのが、別れの言葉になった。
俺は最低限の食料と水、そして馬一頭を頼りに西へ走った。
既に雪に覆われている峰々が迫ってきた。風が吹き付け、凍えるほどだった。着物を重ね着して、手綱を握る手にも布を巻きつけた。
季節は本当の冬になった。
馬の息も、俺の息も、等しく白く染まった。
(続く)