3-42 一本の矢
◆
俺は食事を戻すのを二回繰り返し、二回ともイリューに殴りつけられ、三度目でやっと耐えることができた。
水を差し出されたが、それは水ではなく、酒だった。
「不死身の化物が、食事を戻すだの酒を嫌うだの、間抜けそのものだ」
ぐっと酒の入った瓶を傾け、イリューがそれを差し出してくる。
「今、飲んだらまた戻しそうだけど……」
「また殴られたいのか、小僧」
観念して、俺は瓶を受け取り、一口だけ飲んだ。やっぱり戻しそうだ。瓶を突き返そうとすると、睨みつけられる。受け取らない、という意思表示だ。俺は瓶を二度、三度と傾け、息を吐いた。
息と一緒に何かが逆流しそうだったけど、大丈夫だった。
俺が黙り込んだからか、イリューも黙って椅子に座り、表を見ていた。
空が晴れているせいもあるのか、療養所に入りきらない負傷者がそこらじゅうで医者たちの治療を受けている。どうやらどこかの傭兵団かルスター王国が医者を手配したらしい。ここまで医者が多いのは見たことがない。
イリューも傷を負っているようだが、普段と少しも変わらない。手首と胸元に包帯が見え隠れするが、やや納得できないことに、それさえもこの美しき亜人の剣士の神々しさを引き立てている。
「地獄は何度も見てきたが、慣れることはない」
急に彼がそう言ったので、視線を反射的に向けていた。
目を細め、強い視線を送りながら、口が開く。
「傭兵とは、地獄を這いずるものなのだな」
珍しく感傷的、あるいは、厭世的なことを言うイリューから、視線が外せなかった。
彼は人間よりもはるかに長い時間を生きる。その中でも、決して風化しない光景、忘れられない光景があるのだろう。
人間よりも長い時間、彼はそれを思い返し、そうでなければ何かに想起させられ、その度に苦しんでいるのか。
下らないことを言った、と呟いて、立ち上がったイリューは椅子の背にかけていた外套を羽織ると、どこかへ去っていった。
しばらくするとジュンが戻ってきた。
「会議はやっぱり不毛ね」
さっきまでイリューが座っていた席に座り、俺の手元を見て「酒を飲むとは珍しいじゃない」と笑みを見せた。どこか空虚さのある、形だけの笑みに見えた。
「コルトとホークは戦死したわ。間違いない。魔物の群れに飲み込まれた。生還する可能性はありえない。そもそも救助隊が踏みこめる場所でもない」
こちらに手が向けられ、どうやら酒の瓶を求めているようなので手渡した。
まだ瓶に半分は残っていたはずだが、ジュンはそれを一息に飲み干し、卓の上に乱暴に空き瓶を置いた。
どちらも何も言わない時間が過ぎ、あの子が隊長になる、と急にジュンが言った。
「あの子って、誰ですか?」
「あなたの幼馴染よ。コルト隊は壊滅して、次にユナ隊が創設される」
そうか、ユナのことを、忘れていた。
どこかで絶望視している俺がいて、忘れようとしていたのだろう。
だって、幼馴染が死んだことや、どんな風に死んだのかを聞かされたところで、痛み、苦しみしかない。
俺がどれだけ悩んでも、魔物をどれだけ倒しても、死んだものは蘇らないのだ。
ならいっそ、忘れた方がマシだった。
しかし、ユナは生きているのだ。
良かった、と思わず声が漏れ、ジュンに鼻で笑われた。しかし俺も彼女もそれ以上の言葉はない。
どれだけそこにいたか、会いに行きなさい、とジュンが言って席を立った。
「まだ戦いは終わっていないわ。次に備えておくといい。今は羽を伸ばして、力を溜めなさい」
俺が頷くのを見ずに、ジュンはイリューが向かったのとは別の方向へ向かっていった。
食堂の給仕の男が近づいてきて、断ってから空き皿を回収し卓の上を片付け始めたので、俺も椅子から立ち上がった。給仕は申し訳なさそうに笑っていた。
俺はどんな顔を見せただろう。
神鉄騎士団は今回、コルトたちの孤立に即応して隊を派遣し、今、それがルッツェに多く滞在している。なので、旗を見ていけば、神鉄騎士団の幕舎はすぐにわかった。
さすがに八大傭兵団の一つの神鉄騎士団だけあって、炊き出しを行い、医療を行う幕舎が三つ、並んでいた。恐る恐る周囲を見ながら進むと、炊き出しの列にユナが並んでいるのが見えた。背中に槍を背負い、しかし誰とも話さず、一人きりのようだ。
歩み寄って「ユナ」と声をかけると、彼女はこちらを見て、目を丸くし、そして力なさげに顔を伏せた。
「コルトさんとホークさんのこと、聞いたよ」
ユナの横に並ぶと、後ろに並んでいた傭兵が嫌そうな顔をした。割り込みと思われたのだろう。すぐに話は終わります、と言おうとしたが、ユナの方が列を外れ、「立ち話も落ち着かないでしょ」と小声で言った。
そのまま二人で、幕舎やその他の物資を運んできたらしい荷車の並ぶ場所へ行き、そのうちの一つに腰掛けた。
「これから、どうするつもり?」
ぼそりとユナが言う。
これからのことは、何も考えていなかった。
「わからないな。その、平凡な言葉だけど、疲れたよ」
「帰る?」
レオンソード騎士領に帰るか、ということか。
「正直、それすらも考えられないよ。ユナは帰りたいの?」
こちらから質問してもユナはうまく言葉を見つけられないようだった。俺は待った。今ならどれだけでも待てるだろう。
あの戦場での、一瞬一瞬の判断が全てを決めるような、そんなことはここにはない。
自分のことを考えるという、前に進むには必要なものが今は保証されていた。
「帰らない」
ユナがそう言って、少し顔を上げた。頬に無数に浅手があり、手にも擦り傷がこれでもかと残っていた。
しかしそんなものは、ユナの瞳の中の強い光を、少しも損なわないのだ。
「私は戦うしかない。そのためにここへ来て、もう戻ることはできないの。わかるでしょ?」
わかるよ、と答えながら、本当にわかっているか、俺は俺に問いかけていた。
俺は戦い続けることができるのか。
コルトやホーク、多くの傭兵たちが全てを投げ出して、最後の瞬間まで戦い続けたように、戦えるのか。
ユナならそれができるかもしれない。
どうしてかそんな気がして、拭えないままになる。
俺が死なない、死ににくいから幼馴染の最期を想像できないのではないだろう。
ユナはもう、解き放たれた一本の矢のように見えた。
何があってももう、彼女は突き進むしかない。
俺と違って。
迷って、足が止まっている俺とは違って。
二人並んで、荷車の上に座り、ただ時間だけが流れた。
今しかない。この時しか俺とユナが静かに過ごせる時間はない。そう思いながら、俺はユナを真っ直ぐに見ることもできず、斜め上に視線を向け、空を見ていた。
ユナはどこを見ていただろう。
「私はまだ戦う。それしか、できないから。そうしなくちゃ、いけないから」
ユナの言葉に俺は言葉を何も添えずに、ただ頷いた。
周囲は静まり返っていて、秋の風が静かに吹いていた。
涼しささえもあるその風は、心地よさとは真逆に、どこか死を感じさせた。
まるであの、暗く、湿った、戦場に吹く風のように錯覚された。
行きましょう、とユナの声が風をささやかに乱す。
俺はやっぱり何も言えずに頷いて、荷車を降りた。
この時のことを、俺は何度も何度も思い出すことになった。
(第三部 了)




