3-40 生の実感
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神鉄騎士団の増援は四〇〇騎で、それは前衛で、撤退する道筋を護衛する部隊がさらに二〇〇、待機していた。馬も新しく用意されている。
どれだけの準備期間があったかは知らないけれど、万全と言ってよかった。
俺は負傷者を下ろし、ただ北へ駆けた。周囲には疲れた気配を隠しきれない生き残りの傭兵たちがいて、それを囲むように神鉄騎士団の戦士たちがいる。
誰も何も言わなかった。
笑いもせず、泣きもせず、前だけを見ていた。
夜が来て、野営などせず、体を休ませることもしなかった。馬を降り、揃って手綱を引いて歩く。神鉄騎士団の傭兵たちは疲れも見せず、俺たちを守っていた。それだけでも練度と新鮮さがわかるというものだ。
ジュンはどうなったのか、イリューはどうなったのか、すぐには見当がつかなかった。見える範囲にはいない。
俺と一緒にクタクタで歩く傭兵たちも仲間を探しているようではない。
仲間のことを思えば、失ったもの、助けられなかったもののことを、どうしても考えてしまう。
俺は自分の手に残っている、助けられなかった傭兵に触れた感触を、忘れようとして、失敗していた。
忘れようとするほど、思い出す。
考えないしかない。
夜が明け、また馬に乗り、駆けた。
荷車に乗せられていた負傷者の大半は幌馬車に移されていて、それは見たところ三台ある。
他の部隊にも幌馬車はあるだろうが、しかし三台とは、少なすぎた。
何度も夜と昼を繰り返し、休息は何回あったか、覚えていない。日の進みさえ覚えていないのだ。
食料が配られ、水がまわし飲みされる。
怪我の治療をしているものもいたが、あれはいつのことか。
ざわっと周りで声が上がったので、俺は伏せがちだった顔を上げた。
土塁だ、大土塁だ、戻ってきた。
そんな声が聞こえた。
目の前に土塁が見えた。
人間と魔物の戦闘において、現時点でのおそらく境界線とされる地物の一つ。
俺たちは一団になり、土塁に作られた切り通しを抜けた。何重にも設置されている柵のところで、守備部隊の男や女がこちらを見ていた。
歓迎や歓喜はなく、表現を探せば、ボロボロの野良犬を見るような目つきで、彼らは俺たちを見ていた。
その土塁を抜け、さらに北へ。
魔物はほとんどいないそこで、空堀を抜け、塹壕を抜け、土塁を迂回し、また夜が来て、昼が来て、俺はいったい、どこにいるのか、何もわからなくなった。
ルッツェにたどり着いた時、俺たちは完全に気力が底をつき、誰も口をきかなかった。
ただめいめいに座り込んだ。
ここは人間の世界だ。
しかし魔物がいないと、どうして言い切れるのか。
俺は自分の中の印象がめちゃくちゃに壊れているのに気付いたが、手の施しようはなかった。
ただ冷静に、落ち着くしかない。
傭兵たちが次々とルッツェに入り、待ち構えていた療養所のものが怪我人をまとめ始めた。
俺の全身の傷は治っているので、近づいてきた医者には、仲間がいるはずだからそこで診てもらう、あなたは他のものを助けてやってくれ、と伝えた。
医者は粘ろうともせず、次の傭兵の方へ行った。治療すべき相手が多すぎるからだ。誰もが傷を負っていた。医者は仕事には困らないどころか、これから数日は休む暇もないだろう。
俺は自分をここまで乗せてきてくれた馬の世話をして、心を落ち着かせた。
いきなり肩を叩かれ、恐る恐る振り返る。
本能的に、そこに人がいるとは、思えなかった。
亡霊。
あの救えなかった傭兵が、立っているのではないか。
振り返った俺に、相手は仏頂面で「生きているな」と言った。
整いすぎた女神のような美貌と、鍛え上げられた肉体。長身で、俺を少し高い位置から色素の薄い瞳が俺を見下ろしていた。
イリューだった。
「ジュンが呼んでいる。来い」
俺は頷いて、もう一度、イリューを見た。
これはイリューの亡霊で、ジュンが呼んでいる、というのは、あの世から俺を呼んでいる、などということがあるだろうか。
急げと急かされて、俺は馬のそばを離れた。馬は何か、引き止めるように俺に視線を向けていた。
ルッツェの中は混雑していて、凄まじい喧騒だった。
誰もが仲間の安否を確かめ、喜び、悲しみ、怒り、笑っていた。ここでどれだけの涙が流されたのか、想像できないほど、大勢がそれぞれの理由で涙していた。
イリューが連れて行った先は、食堂で、混雑していて今は外にまでテーブルが出され、大勢が食事の最中だった。
ジュンもそんな卓の一つにいた。
俺たちに気づくと、なんでもないようにさっと手を上げて合図したので、俺たちは彼女に気づけた。
「無事で何より」
ジュンの一言目はそれで、次に「酷かったね」と言ったきり、続きはなかった。
イリューがあまりにも平然としているから忘れそうになるが、ここにいる傭兵で、あの戦場から戻ったものは平静でいるのも難しいほど、破滅のすぐそばにいたのだ。密着したと言ってもいい。
「ホークさんを、助けられませんでした」
俺がそう言うと、仕方ないよ、とジュンはどこか寂しげに言った。
「どうも、神鉄騎士団ではコルトを探しているけど、見つからないらしい。まぁ、まだあの陣地に置き去りにされたのが誰なのかは、詳細にはわかっていない」
そうですか、としか言えなかった。
何故か、コルトはホークを守ろうとしたのではないか、と俺は思っていた。
実際にそれを見なくても、ありそうなことだ。
三人ともが黙り、俺はその沈黙の中で、じわじわと安堵がやってきて、心がほぐれ、張り詰めていたものが緩むのがわかった。
涙がこぼれた。
泣くな、とイリューが唸るように言って、泣けばいいじゃない、とジュンは言う。二人が睨み合いを始め、俺はちょっと笑ってしまった。
戻ってきた。
そして俺は、まだ生きている。
涙は後から後へと流れてきた。止まることはない。
生きていることを、今ほど実感したことはなかった。
ジュンが俺の頭をぐっと抱き寄せてくれた。イリューの顔は涙で滲んで見えるが、より一層、不愉快そうになったようだ。
しばらくそうしてから、ジュンは俺を解放し、わざとらしい咳払いをした。
「とりあえずは、人類を守り隊はどうにか切り抜けた。ただこの戦場はちょっと、きな臭い。かなり不穏と言ってもいい」
「精霊教会のことですね」
その通り、とジュンが応じて、イリューの方を見る。イリューが神官戦士を一人切ったことを責めている、とジュンが見せかけているのを、彼は仏頂面でいて面倒臭がって回避しているのだった。
そういう意味では、目を丸くしてみせる、とか、適当な冗談で返せないほど、この亜人もまた疲労し、余裕がないのかもしれない。
「ルスター王国から引き上げるかもしれない。元々から、根無し草みたいな傭兵隊だし、特別の契約もない。どう思う?」
「異論はないな」
すぐにイリューが答えたので、今度こそ、あなたのせいでしょう、とジュンが睨みつけた。イリューも睨み返している。この二人はチグハグなのか、それともかみ合っているのか、わからなくなる時がある。
「リツの意見は?」
睨み合いを中断して、ジュンがこちらに視線を向ける。俺は目元を袖でぬぐって、頷いた。
「いいと思います」
なら、その方向でね。
ジュンはそう言ってから、すぐに席を立った。
「二人とも、しっかりと休んでおきなさい。またね」
ジュンが離れていくのを見送る俺とイリューは、視線をぶつけ、すぐに外した。
ジュンの背中に、悲しみの色があるのを、俺もイリューも見てしまったからだ。
(続く)




