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傭兵は命を散らす  作者: 和泉茉樹
第三部 彼と彼女の再会と別れ
125/213

3-38 脱出

      ◆



 陣地へ戻った時には、夜は完全に明けていた。

 後にした時はあれだけ煙が上がっていたのに、今は一筋もそれがない。

 不吉だったが、動いている人は見えた。魔物を土塁から突き落としているようだが、ほんの一部だけしか視認できなかった。

 ここにいるのは脱出時の第一陣が主戦力で、第二陣は半分以上が北へ向かっており、もはや引き返せなかった。

 第四陣の精霊教会の戦力には、第一陣の指揮官たちの合議の末、物資集積基地の守備が命じられていた。

 ここで神官戦士団が利己的な行動、もしくは怯懦にかられて逃げ出せば、俺たちは物資の補給の目は失われて完全に魔物の中で孤立する。

 それでも生き残っているものを救出する、というのが全体の意思だった。

 夜明け前にとって返し、気づくと日が昇っていた。

 柵の隙間に押し寄せている魔物の群れに突っ込み、傭兵隊五十騎が陣地に突入する。そのまますぐに防御態勢を整えた。残りの八十騎は陣地に群がる魔物をできるだけ減らし、防御が建て直されたところで、陣地に入った。

 俺はジュン、イリューとともに最後尾にいて、しかし大した働きはできなかった。ジュンもイリューも、俺の十倍は魔物を倒したのではないか。

 陣地の中には負傷者が大勢おり、すでに治療が始まっていた。

 ジュンが馬を降りて、駆け寄った先には座り込んだホークがいた。全身が汚れていて、具足も部分的になくなっている。腕と足に傷を負っているようだ。頬にも大きなすり傷があった。

「見物している暇はないぞ、小僧」

 イリューが俺の腕を強力な握力で締め上げ、土塁の方へ引っ張っていく。

 そうだ、俺たちは戦いに来たんだ。

 土塁に上がると、魔物の群れは突入時よりも増えていた。さすがに魔物の領域の深い地点なだけはある。

 土塁をわずかに降り、イリューが刀を振り回すと、一振りで数体の魔物が頽れ、斜面を転げ落ちていく。土塁は二重だが、内側だけが確保されていて、その確保も難しかったようだ。

 取り残されていた傭兵たちは、声をあげるでもなく、ただ粛々と、陣地の奥へ引き上げていく。気力が尽き果てる寸前に、俺たちが救いに来たのだ。彼らは今、歓声もあげられず、笑顔も見せられず、ぐったりとしていた。

 俺とイリューに亜人の隊が続き、彼らの圧倒的な剣術が部分的に魔物を大きく押し返した。しかし魔物にも知恵はあるようで、俺たちへの圧力が増した。

 引きつけるだけ引きつけ、後退し、膠着状態を作る。正確には、押し合いの状態だ。双方に負傷者が出るが、俺たちの側には予備戦力はない。押し合いをしている余裕すらないのは自明だった。

 鉦が打たれ始め、それは長く、複雑な音の連なりになった。

 態勢を整え、北側から全速離脱。最低限の物資のみ携行し、休止はない。

 俺が愕然としたのは、そこまで読み取った後の音を理解した時だ。

 一人でも多く生きて帰るために最大限の努力を払う。

 鉦が繰り返される。聞き間違いではない。

 最後の指令は、最も緊急の事態での指令だった。

 仲間を守るのではなく、仲間を見捨てでも生きて帰れ、という趣旨だ。

 かつて、その鉦の音の意味するところを解釈して俺に教えてくれた傭兵がいたのを思い出した。

 しかし彼はもう死んでいる。

 あれは冗談だったのか。今の今まで、純粋な冗談だと思っていた自分がいた。

 しかしこうして、戦場の極致に至ってしまえば、本当のことだったのだ。

 俺たちは今、生死の狭間に立っている。

 鉦が鳴り続ける。

 南、東西の守備部隊が撤収を始める。俺はイリューたちと西側で最後まで踏ん張り、柵の切れ目を塞ぎ、陣の内側へ走った。柵が押し倒されたり、食い破られれば魔物がなだれ込んでくる。それは他の方面も同じだ。

 決死の脱出というよりない。

 陣の中では負傷者がまだ荷車に乗せられている最中だった。しかも荷車は即席のもので、とても頑丈そうに見えない。その上、人が曳くのではなく、馬に曳かせるのだ。

 意見を言うような余裕はなかった。

 ジュンも戻ってきて、会話らしい会話もなく、俺たちは最低限の食料と水を受け取り、予備の剣も受け取り、馬に乗った。

 すでに先頭の隊は離脱を始めている。荷車を守るようにしているが、速度は相当なものだ。

 コルトの姿が見えなかったのが気になったが、ジュンは何も言わない。イリューはいつも通りの無表情と口少なな様子だった。

 荷車の一つにホークが乗せられていた。ちょうど俺たちの先を行く。

 南、東でも撤収が完了し、馬に傭兵たちが飛び乗り、余裕のあるものがもう一人乗せている光景も見えた。もはや冥土に半分入り込んでいるとはいえ、俺たちは仲間を見捨てなかった。

 俺も片足を引きずっている若い傭兵を引っ張り上げて、自分の後ろに乗せた。ジュンも一人を乗せ、イリューは二人を余計に乗せていた。イリューの体格からすれば、馬の負担は相当だろうが、イリュー自身は全く気にしていないようだ。

 行くよ、といったのはジュンだったか。

 馬群が陣地の北側から飛び出す。陣にはその時には魔物が溢れて、すでに意味を喪失していた。

 周囲には馬が並走するが、どれくらいの数がいるのか。

 救出のために三〇〇騎ほどが集められたはずだったが、こうして見てみると、一〇〇騎を大きく割り込んでいる。先に出た隊のことを考えれば、犠牲の数は冷や汗どころか悪寒がするほどだった。

 荷車が馬の勢いと不整地のせいで激しく揺れている。途中で横転した荷車が幾つかあった。負傷者が歩けるものは歩き、動けないものはそのまま最後を迎えていた。

 余裕のあるものが引っ張り上げることもあるが、もはや手がつけられない。

 先を行く荷車に魔物が突撃し、防御する傭兵が手に持った剣や槍でそれを押し返し、馬は果敢にも魔物を轢いていく。馬もこの状況を理解しているかのようだった。

 誰もが必死だ。

 生きたいとか、死にたくないとか、そんな言葉では表せないほどの、純粋な生への渇望。

 この一瞬に全てを賭ける、盲信に近い意志。

 仲間を守ることと、仲間に守られること、仲間を見捨てることと、仲間に見捨てられること。全てが混然一体となり、理屈は消え去り、野性と本能だけが全てを支配する。

 前方でついに魔物が一体、荷車に衝突した。

 ぐらっと傾き、片方の車輪が宙に浮くが、持ち直す。

 そこへもう一体、さらに一体がぶつかり、今度こそ荷車は横転し、乗っていた負傷者が宙に舞い、落ちる。

 誰かが誰かの名を呼んだ。

 俺は駆け続ける。

 一人が立ち上がる。

 反射的に手を伸ばしていた。

 彼も手を伸ばす。

 見たことがあるような顔。見たことがないような顔。

 誰だったのか。

 手と手が当たる。

 当たっただけ。

 握りしめることはできない。

 取って返すこともできない。振り返ることは、できない。

 俺の片手には彼の手の、言葉では表現できない不思議な感触が残った。

 生きているものの感触、だったのかもしれない。

 誰かが叫んでいる。

 手綱を握り直し、俺は駆けた。

 背後にいる傭兵が泣いているのが不意に理解された。

「泣くな! 泣くんじゃない!」

 俺は叫んでいた。

 きっと、後ろの傭兵にそう声をかけるという演技ができると、考えずに直感したのだろう。

 叫びは、俺自身への叫びだった。

 俺もいつの間にか泣いていた。

 剣を握るはずの手は、手綱を握りしめ、離そうとしない。

 戦いを恐れるようにまっすぐに前だけを見ていた。

 誰もが駆けていた。どこまでも続く、この薄暗い荒野の真ん中を、敵地の奥深くの死と隣り合わせの世界を、駆け続けるしかないのだ。

 誰かが叫ぶ。

 それは俺だったかもしれない。




(続く)

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