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傭兵は命を散らす  作者: 和泉茉樹
第一部 彼の別れと再会
11/213

1-11 帰る場所を失う日

     ◆


 その日は、少しだけ冷たい風が吹いていた。

 俺は旅装が整えられているけど、銭に余裕がないので、全体的に質素だった。

 しかし長い旅に向かう心算はできているし、気力も充実している。

「これはお父さんの遺品よ」

 そう言って家を出たところで、見送りに立つ母が差し出したのは、短剣だった。

 飾りも何もない短剣で、どことなく、使われたことはないような気がした。

「お守りと思って、持っていなさい」

「わかった」

 受け取って、俺はその短剣を腰に差した。

 俺と母が過ごした家は、すぐに売りに出されるという。つい昨日の昼まで、母と一緒に家の中を片付けた。昨夜は最低限のもので過ごしたので、逆に気が楽だった。

 もし何か、盛大に俺を送り出すために豪華な料理などがあったりしたら、緊張しただろう。

 今までの日常の延長として、俺の旅が始まるというのがありがたい。

「あなたに」

 母の瞳は、どこか澄み渡っていた。

「何も残せないのを残念に思うけど、許してね」

「別にいいよ、五十万イェンもあるんだから」

 銭の話がしたいわけでもないだろうと思ったけど、思わずそう言っていた。

 銭を残すことなんて、きっと大人たちからすれば大したことじゃないんだろう。

 それよりも、手助けすること、励ますこと、帰ってこられる場所を用意すること、そんなことの方が銭より意味を持つと、そういう価値観らしい。

 俺はもうこれからは、帰る場所を失う。

 母と会うことはもう、ないかもしれない。

 現実感がどうしても伴わなかった。

 ここへ戻ってくれば家はそのままにあって、母もいて、笑って迎えてくれるという想像は、本当に想像に過ぎなくて、現実にはならないのに。

 つい昨夜、布団しかないような家の中で過ごしたのに、まだ何も変わっていないような気がしているのは、いっそ滑稽だった。

「さ、行きなさい。元気でね」

 母がそっと手を伸ばす、俺の手を包み込むように握った。

 震えてもいない。冷えてもいない。

 柔らかくて、暖かい手だった。

「お母さんも、達者で」

 母は何も言わずに頷いた。

 手が離れる。

 俺は母と家に背を向けて、歩き出した。

 母は俺の路銀を用意しただけではなく、豪農に銭を支払って俺を小作農ではない人間してくれた。

 俺は誰の所有物でもなく、一人の自由な人間になったのだ。

 俺を閉じ込めていた鳥籠は、もうなくなった。

 頼りない小鳥だとしても、俺は空に解き放たれたのだ。

 田畑の間の道を少し歩いて振り返る。

 家はかろうじて見えた。その前に立っている母も。

 俺は大きく手を振ったけれど、母は手を振ることはなかった。ただ立っているだけだ。

 田畑では早朝から作業をしている小作人が大勢いる。俺のことを不機嫌そうに見るものもいれば、旅立ちを祝ってくれるものもいる。

 先を急ぐから、とあまり話もせず、俺は峠道へ進んでいく。切り開かれた山肌の棚田の間を上がり、そして周囲は木立になり、見る見る木の密度が増えた。建材として売る木を切り倒して加工する仕事も、小作人に与えられているものの一つだったことを考えながら、俺は先へ急いだ。

 山を越える。斜面を下り、また傾斜を登る。

 体力作りは成功していたようで、日が暮れかかるよりも前に、予定の集落に着いた。

 宿などという洒落たものはない。顔を知っているものも一人もいない。

 適当に家の戸を叩き、泊めて欲しいことを頼むが、すげなく断られた。

「食べ物は売っていただけませんか」

 そう食い下がると、米の粉を売ってもらえた。

 井戸を借りる許可も得て、少量の水を米粉に入れ、練り、小さな鍋に沸かした湯でそれを煮た。湯には調味料を落としておいた。塩気がないと、人は生きていけない。

 料理とも言えないが、腹には入るものが出来上がった。

 それをすすっていると、村人がふらっとやってきて、「どこへ行くのかね」と訊ねてきた。年齢は四十ほどだろう。服装は俺もよく知る小作人にありがちな質素で、着古されたものだ。

「西へ行きます」

「西か。ハガ族は何か、商売でもするのかね」

 どうやら俺は遊牧民族と何らかの渡りをつけるために旅をしている、とその男には見えたらしい。

「まあ、そんなところです」

「何を売る?」

 適当な嘘を口走ったばかりに、こうして答えに詰まる質問が出てくるのだから、俺もまだ未熟である。

「羊を仕入れたいのです」

 また嘘で答えるしかないが男はすぐには引き下がらなかった。

「ここらで羊を飼うのか? どこにそんな土地がある? そもそもどこに羊がいる?」

 どう答えればいいだろう。

 俺が答えられずにいるところで、人を呼ぶ声がして、そちらを見るとやはり見知らぬ男が手を振っている。俺を質問攻めにしていた男がさっと手を挙げ、「悪かったな」とそっけなく言うと、そのまま彼は仲間の方へ歩いて行った。

 とにかく今日は、野宿だ。

 俺は集落の外れにある木立の適当な木の根元に丸まった。用意していた薄手の毛布で体を包んでみた。野宿の経験はそれほどない。

 それが起こったのは深夜だった。

 人の気配に目を覚ましたが、その時にはすぐに数えられない数の人が俺を取り囲んでいた。

 声を上げる間もなかった。

 飛びかかられた次には殴りつけられていた。

 呻きながら、身体は自然と反撃していた。しかしいかんせん数が違いすぎる。

 一人を殴り倒したが、その時には三人が俺を組み伏せていた。

 荷物が漁られるのが月明かりの中でも見えた。

 俺は声を上げて暴れたが、頭を地面に叩きつけられ、くらくらした。感覚が、意識が曖昧になる。

 それでも暴れると、もう一発。

 意識が戻った時、既に男たちは消えていた。

 地面に散らばるように残されているのは、ささやかな着替えとさっき夕食を作った鍋、地図、それくらいだった。

 まだ激しく痛む頭に手をやりながら、荷物をもう一度、確認する。

 短剣は捨てられるようにすぐそばに落ちていた。

 銭はもちろん、なくなっている。

 荷物をまとめた後、短剣を手にとって真剣に考えた。

 仕返しをするべきだろうか。

 盗賊ではなく、すぐそばの集落にいる男たちなのだ。

 短剣一本で、斬り込んで、きっと一人か二人は仕留められるだろう。

 その後、俺は、首をはねられる。

 確実に。

 母はそんなことは望んじゃいない。

 しかしもう、帰ることもできない。

 俺には帰る場所はないのだから。

 元の集落へ戻っても母はいない。

 先へ進むしかない。

 銭がなくても、荷物がなくても、進むしかなかった。

 まだ時刻は深夜だった。

 俺は短剣を腰に差し、小さくなった荷物を背負って、歩き出した。

 西へ。

 とにかく、西へ。

 何が待っていても、待っていなくても、西へ行くんだ。



(続く)

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