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陶器ノ一角獣

モバゲータウンのとあるサークルの小説祭で投降した作品です。小説祭が終わったので掲載いたします。

陶器ノ一角獣


 その少女は銀色の鬣を持っていた。

 それを銀色の風に靡かせ、銀色の雨にうたれ、銀色の光で着飾り、銀色の眼で世の中を見つめていた。

 だが、それよりも目を引くのが、銀色の一角だった。

 少女の鬣を掻き分けるように、銀色の鱗粉を纏うその角は、真っ直ぐ生えている。銀色の雨よりも輝き、銀色の光よりも輝き、少女の銀色の眼よりも輝き、少女に力を与えてくれる。少女に夢を与えてくれる。

 しかし、少女はその角が嫌いだった。

 見たくもない過去が。

 見たくもない未来が。

 見たくもない真実が。

 その角によって、分かってしまう焦燥感。

 少女は恐ろしかった。

 自分こそ災厄を呼ぶ元凶なのではないか。

 少女は恐ろしかった。


 その少年は金色の鬣を持っていた。

 それを金色の風に靡かせ、金色の雨にうたれ、金色の光で着飾り、金色の眼で世の中を見つめていた。

 だが、それよりも目を引くのが、金色の一角だった。

 少年の鬣を掻き分けるように、金色の鱗粉を纏うその角は、真っ直ぐ生えている。金色の雨よりも輝き、金色の光よりも輝き、少年の金色の眼よりも輝き、少年に力を与えてくれる。少年に夢を与えてくれる。

 だから、少年はその角が好きだった。

 知りたくて仕方のない過去が。

 知りたくて仕方のない未来が。

 知りたくて仕方のない真実が。

 その角によって、分かってしまう優越感。

 少年は誇りに思っていた。

 自分こそ災厄を妨げる救い主であると。

 少年は誇りに思っていた。


 そのため、少女は少年を理解出来なかった。

 そのため、少年は少女を理解出来なかった。

 何故、恐ろしく思わないのか。

 何故、誇りに思わないのか。

 自分達の種族の力を。

 何故、同じく受け止めないのか。

 何故、分かりあえないのか。


 


 人間の世界は魔法と則で成り立っていたという。則とは信仰とも呼ばれ、その則に定められし絶対不可侵の領域も多々あった。それは、人間が人間として安全に生きるための一種の防御でもあったし、世界の中で生かされている命としての自覚の象徴でもあった。人間達は祈りを忘れず、感謝を忘れず、詫びも忘れずに、自然から命を捕まえて、屠り、それを糧に生き長らえてきた。また、糧にする者達と共に生き、時には神聖な力を与え、与えられ、共存していた。

 人間は則を忘れずに、己の知識向上心を押さえ込み、則に定められし禁断の地への侵犯を互いに許さず、長きに渡りそれを守っていった。

 それが、信仰がもたらす絶対的盾であった。

 ところで、人間が侵してはならない領域の一つに、翡翠の森と呼ばれる美しい森がある。その森は一角獣一族、すなわちユニコーンやカンピュールを初めとする無垢な存在が幸せの内に一生を過ごす楽園であった。たった一日しか生きられない風の妖精から、千年以上もの時を過ごしこれからも生き続ける樹まで多々存在し、互いの命を支え合って生き続けている。ユニコーン達は、その森に住む獣達に混じり、守られながら生まれ、優雅に過ごし、その夢幻のような一生を送る。

 この森の事は、足を踏み入れた事のない人間達も知っており、よい事をした人間達は来世でユニコーンやカンピュール等の幻獣へと転生し、儚いけれども素晴らしい至福の時を過ごせると言われている。

 人間にとって、この森に住む生き物たちは、前世で良い事をした生き物たちだった。人間とは限らない。目にも見えない虫けらかも知れないし、海に潜む鯨かも知れない。兎も角、生きている間に良い事をした命の向かう先が、この森だと思われていたのだ。その噂はもちろん、この森に住む者達も知っており、密かに誇らしく思っていた。それほどに此処は素晴らしく、居心地のよい場所だったのだ。

 また、森は森で信仰があった。

 それは、この幸せが一角獣一族を始めとする幻獣一味によって成り立っているという信仰だった。その為幻獣達は、木々草花、それらに身を寄せる禽獣達、そして精霊達に大切に守られ、その血を絶やす事無く長きに渡って森の調和を守って来た。

 一角獣一族以外にも幻獣はいたが、一番繁栄していたのが一角獣達だった為、この森は一角獣の森と呼ばれている。だが、一角獣達は決して驕らず、力無い他の幻獣達や果敢無い精霊達の一生を幸せの内に守っていた。

 そう、この森は穢れを知らない。

 外界の穢れを全て浄化しているかのように、漂う空気は澄み切っている。

 特に、この森の心臓部分に当たる鏡の泉から常に放たれる、爽やかで甘い気は、翡翠の森全体を覆い尽くし、森を純粋の内に保っていた。

 その鏡の泉の隅で、白い足を伸ばす少女がいた。

 彼女の名は、シフォン。

 背中まで伸びる銀色の鬣を揺らし、銀色の虹彩を輝かせ、鏡の泉の冷たさを足で感じていた。彼女の額から伸びるのは、角。銀色のユニコーンの角だった。

 ――どうして。

 シフォンは溜め息を吐いた。

 ――どうしてなの?

 分からない。

 幾ら考えても、幾ら考えても、その事は彼女の理解を超えている。森の誰に聞いても、まともな意見が帰ってくるとは思えない。

 シフォンは向ける相手のいない疑問を、ずっと鏡の泉に向けていた。

 ――どうしてなのかしら?

 銀色の目をやや細め、シフォンは思いを巡らす。

 灯るように光る自分の角を感じ、シフォンは肩を落とした。

 角が見せてくれるのは、過去。或いは、未来。

 昨夜に続き、今宵も言い争う事になるのだろうか。

 そう思うと、辟易する。

 シフォンは自分が一角獣に生まれた事が気に入らなかった。どうせならば、精霊か他の幻獣にでもなりたかった。カンピュールも駄目だ。角があっては意味がない。兎も角シフォンは、この角が嫌いだった。

 角が見せてくれるのは、未来、過去、真実の三つ。

 シフォンはこれが怖くて仕方なかった。知ると言うのは愚かな事だ。知った所で何にも出来やしないのに、この残酷な角は、望んでもいないその三つを教えてくれる。シフォンのパンクしそうな頭に、吹きこんでくれる。

 シフォンは嫌だった。

 知った所で何になるのだ。

 誠に無駄な力だ。

 しかし、多くの一角獣はそうは思わないのだ。ユニコーンの父も母も、カンピュールの親友も、皆この角に誇りを持っている。そして、誰よりも自分達一角獣の角を愛してやまないのが、同じユニコーンである少年のシルクだった。彼の陶酔ぶりはシフォンも中々理解出来ずに苦しんだ。もちろん、今も理解出来てはいない。

 ――どうしてなの?

 シフォンは考えに、考えて、考えたが、なかなかシルクを理解する事は出来なかった。

 その行き先が、昨夜の喧嘩だった。

 シフォンはシルクが理解してくれない事に傷ついた。どうして、彼は理解してくれないのだろう。この気持ちは、同じ一角獣の者は誰も抱かないのだろうか。シフォンは寂しくなった。誰でもいい。この気持ちを理解してくれる者はいないのだろうか。

 一角獣じゃない者は如何なのだろう。

 しかし、シフォンは考えなおした。

 大抵のカーバンクルは額の宝石に誇りを持っているし、ペガサスは羽根を自慢する。フェニックスは燃える自分の体を自慢するし、ニンフやエルフ達はその美しさを自慢する。

 ――では、厳つい方々はどうだろう。

 シフォンは考えたが、やはり首を振った。

 キマイラは鬣やその力を自慢するし、コカトリスはバジリスクよりも石化能力の高い事を主張し、誇っている。ケルベロスは吐く炎の熱さを弟のオルトロスと張り合っているし、フェンリルは精霊をも引き裂く鋭い爪を誇りに思っている。

 誰を思っても、自慢と誇りばっかりだ。

 シフォンは頭が痛くなった。

「如何してなのかしら……」

「何がだい?」

 いきなり問いかけられ、シフォンは怯んだ。

 シルクだ。声だけで分かった。昨夜苛立たしげにシフォンが一角獣としての自尊心の無い事を指摘していたシルクの声。

 恐る恐る振り返ると、眩いほどの金色が目に入り込んできた。肩ほどで整えられた金色の鬣を風にそよがせ、金色の虹彩を輝かせてシフォンを見つめている少年。その額にあるのは、シフォンが辟易している一角。シルクが誇りを持っている一角。黄金の一角。

「シルク、居たのね」

 シフォンが素っ気無く言うと、シルクはやや顔を顰めつつ、歩み寄って来た。

「何、まだ怒ってるのかい?」

 透き通る清涼の風の様な声で、シルクは訊ねてきた。隣に座り込み、シルクも鏡の水に足を浸す。昨夜はユニコーン一族所か、近くに住む獣たちまでに喧嘩した事が広まってしまった程、激しく言い争ってしまった。シフォンもシルクも言い争う内に引くに引けなくなってしまい、互いの感情をぶつけ合ってしまったのだ。

 今思い返せば、後悔だらけの夜だった。

 だが、だからと言って、謝るという素直さをシフォンは生憎宿していなかった。

「別に。そんな事はない」

 シフォンはくぐもった声で答えた。

 シルクは金色の目でそんなシフォンを見つめ、首を傾げた。

「じゃあ、何が『如何して』なの?」

「話してもつまらない事。気にしないで」

 シフォンはそう濁すと、立ち上がった。シルクには悪いけれども、今は一緒に居たくない。ここは黙って走り去って、一人になれる場所を探した方がいいだろう。そう思い、シフォンはユニコーンの姿で地を駆けた。いきなり立ち去った事を、シルクはどう思っただろうか。傷付けてしまっただろうか。

 そんな小さな不安と共に、シフォンは深緑に包まれる森の奥へと進んだ。

「シフォン……」

 シルクが背後から一声呼んだような気がしたが、シフォンは振り返らなかった。怒ってなんかいない。だが、今だけは、シルクと一緒に居たくない。昨夜の所為なのかは分からないが、今は一緒に居るのが苦痛だった。

 シフォンは森の奥へと吸い込まれるように、シルクから逃げた。

 ――駄目ね。私。

 少しだけ後悔しつつ、足は止めない。

 シフォンはシルクの事が嫌いなわけではない。何処か惹かれる少年だと思うし、シルクもまたシフォンの事を気に入っている様子らしかった。だが、一角に対する決定的な意識の差だけが、二人の間に壁を作っていたのだ。特にシフォンは、度々垣間見えるシルクの一角獣としての誇りを感じてしまう事が苦手だった。それを感じる度に、苦しくてしかながないのだ。

 大丈夫な日もある。

 シルクが恋しい日もある。

 だが今は、今だけは、一人にして欲しい。一人になれなくても、シルクとだけは居たくない。一緒に居ても、またシルクを苛立たせるだけだ。シルクだって、シフォンと居たくない瞬間があるだろう。

 ――御免ね、シルク。

 シフォンは密かに思いながら、薄暗い森の奥へと足を進めた。

 いつか、シルクが自分と同じ心になる事を祈って。


 深緑の世界の奥へ、去ってしく銀色の光。

 シルクはその残光を見つめた。

 名前を呼んでも振り返らなかったシフォン。

 昨夜は言い過ぎただろうか。謝りたいのだが、シフォンは聞いてくれなさそうだ。

 今はもう見えなくなった銀色の光を目の奥に宿しながら、シルクは金色の目を軽く閉じ、鏡の泉の冷たさを感じていた。冷たさは、何時か、心の奥にまで到達するかのように、体に沁み込んでくる。今の状態には誂え向きの冷たさだ。

 シルクは目を開けた。

 昨夜は確かに互いに引くに引けなくなるまで喧嘩が酷くなってしまった。シルクも頑固ならば、シフォンも頑固なのだ。その上、素直でない。普段は、心優しい少女だと思うのだが、一度ぶつかり合ってしまえば、自分の意思をよっぽどの事がない限りは曲げない。此処はこちらが我慢して、酷くなる前に言い返す事を止めればよかっただろうか。

 だが、シルクは首を振る。

 そんな大人な対応を、口喧嘩中の自分が出来る筈もない。シルクもまた、頑固で素直でない少年なのだ。如何頑張っても、あの時は言い返してしまっていただろう。実際のところ、酷くなった後の口喧嘩を終わらせたのも、シフォンの方だった。僅差でシフォンの方が大人らしい。

 昨夜は気まずいながらも取り敢えずは謝ったのだが、やはりきちんと謝った方がいいだろう。あれだけでシフォンが許してくれているはずはない。しかし、きっとシフォンは顔も見たくない程、シルクの事を嫌がっている。謝りたくても、顔を見せるだけで逆効果かもしれない。

「時間に任せるしかないか」

 シルクは呟いた。

 シフォンとすれ違ってしまうのは、いつも一角の話。

 如何してシフォンはこの角をこれ程目の敵にしているのだろう。何でも分かって、何でも思い出せる素晴らしい角なのに。輝かしい過去を。素晴らしい未来を見る事が叶う素晴らしい角なのに。如何してシフォンはこれが嫌いなのだろう。

 シルクには分からなかった。

 しかし、シルクは信じていた。シフォンはきっと、シルクと同じ考えを持つようになるだろう。


「若いユニコーンのつがいが喧嘩しているよ」

「何でも自分達の角に関する事だそうじゃないか」

「何だい。贅沢で嫌らしい喧嘩だねえ」

 美しい森の中で、小鳥達の間で噂話は広まっていた。所構わず囀る小鳥達の声は、森じゅうに響き渡り、無論、シフォンにも届いていた。毎日毎日新たな情報を仕入れる小鳥達の声。その声にて、シフォンはシルクの状況を読み取っていた。

 あれから顔を合わせていないのだ。

「御似合いだと思っていたのにねえ」

 その噂は小鳥達から森中の獣達や精霊達にも広まっていった。

 シフォンは木陰に身を潜め、密かに赤面した。

 この平和な森の中で娯楽を上げてみるとすれば、恋愛とゴシップぐらいのものだろう。ここの獣達は食べ合いの事を忘れている事が多い。たまに思い出して、喰う者と喰われる者の争いが起きるが、日常的でないのだ。

 これはおかしい事だと渡り鳥や余所者は言っていたのだが、その所為でこのような噂が広まっているのならば、忌々しくさえも思ってしまう。

 シフォンはこっそりと声のした方向を振り返った。身を潜める樹から少し離れた日当たりのいい場所で、何匹かの森の獣や精霊達がたむろしていた。

「何でも、銀色の牝馬のほうが愛想を尽かしたとかでね」

 そう語るのは小鳥達と噂を楽しんでいる兎だった。

「これ幸いとカンピュールの若い雌が、取り残された金色の牡馬に近寄っているとか」

 シフォンは耳を疑った。

 ――カンピュールの雌が? シルクに?

 胸元がきゅっと引き締まる。

 とても息苦しくなってきた。

「へえ。そりゃ、随分と身の程知らずな娘だねえ?」

 そう言ったのは、若い牡鹿だった。その角からして、まだ一歳になったばかりだろう。

 その牡鹿に兎は「それがね」と軽く耳を振り払い、声を潜めて言った。

「そのカンピュールの雌って、随分と美しい娘らしくてね。あの娘だったら、取り残されたそのユニコーンにも釣り合うんじゃないかっていう話」

 シフォンは耳を塞いだ。

 そのカンピュールはいったい誰なのだろう。

 知っている顔だろうか。

 若しかして、親しい者ではなかろうか。

 シフォンは胸元をぎゅっと掴み、体の震えを押さえ込んだ。

 この気持ちは何だろう。

 とても悲しくなる。

 顔も名前も知らない、そのカンピュールの娘が憎らしかった。

「ばか」

 シフォンは呟いた。自分にしか聞えない声で。誰に向けているのかは、シフォン自身も分からなかった。自分なのか。シルクなのか。

「ばか。ばか……」

 シフォンは呟きながら、そっと立ち上がり、歩きだした。

 噂話をしている獣達は気付いていない。気付いたとしても、気付かなかったとしても、シフォンにはどうでもいい事だった。

 兎に角、ここから逃げ出したい。

「ばか」

 ――私のばか。

 ちょっと距離を置こうと彼を冷たくあしらったのは自分の方なのに。彼を傷つけたのは自分の方なのに。シフォンは、勝手に避けて、勝手に落ち込んでいる自分に嫌悪を感じた。

 シルクは怒っているだろうか。

 今更、会いに行っても、煩わしい顔をされてしまうかもしれない。

 謝っても、きちんと聞いて貰えないかもしれない。

 ――何を今更。

 シフォンは新緑と冷たい土を踏みながら、歩き続けた。

 噂は本当だろうか。本当かも知れない。あり得ない事ではない。カンピュール一族にも、沢山美人はいる。気立てもいいし、シフォンなどとは比べ物にならないほど出来た娘達も沢山いる。本当かも知れない。

 だが、その真偽を角で確かめることだけは、したくなかった。

 ――我が侭だったの?

 シフォンはただ歩き続け、自身に訊ねた。

 ――彼に甘え過ぎていた?

 そして、考えが行きついた時、シフォンは泉に着いた。

 あの、鏡の泉に。


「牝馬の方が牡馬を振ったらしい」

「まあ、よくある事じゃない」

「何でも、考えがすれ違っていたらしいね」

 森のあちこちで噂が広まっている。どれもこれも所構わず喋りまくるお喋り小鳥達の所為だ。彼らは話すだけでは飽き足らず、春には恋に使う筈の歌に乗せて、噂話を広めていく。恋の歌の練習に、噂を広めるのだ。

 ――苛々するな。

 シルクはしかめっ面で木陰に座り込んだ。

 すぐ傍には獣や精霊達が集まり、噂話をしている。

 人間でもくればいいのに。

 シルクは思った。

 そうすれば、噂の的は自分達から人間へと瞬く間に変わってしまうのに。

「牝馬の方は狙っている雄が沢山いるらしいよ」

「そりゃ、そうだろうね」

 話している中には、幻獣も混じっている。狐や山猫等と共に、カーバンクルとコカトリスがいた。皆、石化したくない為、コカトリスの目を見ないように気をつけながら喋っている。コカトリスもコカトリスで気をつけているようだ。

 シルクも気を付けながら、様子を窺った。

「なんでも、もう別の種族の雄と仲睦まじいそうじゃないか」

 狐がふさふさの尾を揺らしながら言った。

「聞いた話だと、ペガサスの若い牡馬らしい。見栄えもいいし、十分釣り合っているって話だ」

 シルクは耳を澄ました。

 ――ペガサスの雄が? シフォンに?

 どうも聞き捨てならない話だ。

「仲睦まじいのかい? 牝馬の方は、そのペガサスの事もあまり好きじゃないような事を漏らしていたらしいけれども?」

 山猫が訊ねると、木の枝に止まっていた小鳥が言った。

「そのペガサスってのが、曲者なんだとさ。奴に狙われた雌はたちまち逃げ場をなくすとか無くさないとか?」

 小鳥は軽く羽根を整えて、付け加えた。

「まあ、そのうち、ユニコーンの雌の方も、そのペガサスとくっつくんじゃないの?」

 シルクは茫然とその話を聞いた。

 今の話は何なのだろう。

 本当なのか、嘘なのか。

 獣達の他愛無い噂話なのか。そうでないのか。

 ――そうだ。

 シルクは片手を額の角に当てた。

 角に聞くのが一番だ。知りたい過去。知りたい未来。知りたい真実を教えてくれるこの角に聞くのが一番だ。

 今の話は本当なのか。否か。

 角が淡く熱を発する。

 シルクは目を閉じて、その熱を感じた。

 本当か。嘘か。

 角からイメージが湧いてくる。何のイメージだろうか。

 シルクはイメージの中で目を開けた。深い森が見える。ここ翡翠の森で間違いない。何処ら辺だろう。シルクは見渡した。湖が見える。否、泉。

 ――鏡の泉だ。

 シルクは、はっと息を飲んだ。

 泉に足をつける少女の姿。

 銀色の流れる鬣。

「シフォン……」

 声をかけた瞬間、イメージが途絶えた。

 シルクは前を見つめ、上がりかけた手へと目を移した。今は、木陰の中に居る。森の噂を耳にしていたあの場所。

 シルクは、はっと額の角から手を離した。

 角は真実を見せてくれた。

 過去でも未来でもない。確かに、過去にも未来にもありそうな風景ではあったけれども、そうでないと当たり前に理解できる。

 ――行こう。

 シルクは立ち上がった。

 シフォンのいる場所。

 あの鏡の泉へ。


 シフォンは鏡の泉で、金色を見つめた。

 シルクは鏡の泉で、銀色を見つめた。

 互いの虹彩が混じり合い、互いの気持ちを複雑な色で絡める。

「シフォン」

「シルク」

 どちらともなく互いの名を呼び合った。何日ぶりかに触れるその温もり。静寂のうちに訪れた、理由のはっきりとしない戦いが打ち砕かれた。

シフォンとシルクは鏡の泉に足を浸す。微かに身に沁みる冷たさに、シフォンは身体の芯の震えを感じた。

 ――そうか。

 シフォンは思った。シルクは思った。

 ――間違っていた。

 互いの色を感じながら、互いの光と影を感じながら、シフォンとシルクは思っていた。

 自分が変わらなければ、何も変わらない。

 自分は自分。相手は相手。

 受け止めるか、拒むかは、自分次第。

「シフォン、ごめんね」

 シルクが言った。

 シフォンよりも先に。シフォンは銀色の目を細めた。シルクに悪い所なんてないのに。悪いのは、自分だ。シフォンは胸に軽く手を当てた。そのままのシルクを拒んだのがいけなかった。シルクはシルク。シフォンはシフォン。

 別物なのだ。

「シルク、ごめんね」

 シフォンは言った。

 先手を打たれて少し悔しかったけれども、何故か嬉しさも込み上げてくる。噂通りでないシフォンに。噂通りでないシルクに。嬉しさが重なる。

 その日、二人が何日か振りに会話したのは、それだけだった。

 それだけで、満足だった。




 それまで、世界には魔法と信仰に満ち溢れていた。それらが人外の世界を守る力となり、要となり、世界の調和を満たし続けていたのだ。精霊等を筆頭とする存在は、それらの上に成り立ち、それらの上に安住していた。ユニコーン一族等の幻獣達もまた、例外ではない。翡翠の森に住む多くの住人は、魔法と信仰の上に存在していたのだ。

 それなのに。

 この惨状は何だろう。

 翡翠の森の者達は、嘗てない恐怖を覚えた。

 誰が想像した事だろう。鋭利な爪も、鋭利な牙も持ち合わせない無力な者が、このような事を思いつき、考え、実行してしまうなんて。

 魔法と信仰が消え始めた。

 それも、人間の間だけで。

 彼らは自分達のみを救う神を、自分達のみの為に祈り祭る。其処には、魔法も嘗ての信仰もない。人間の中で、世界を満たしていた力は人間だけの物と定義され始め、それまでの信仰や魔法は、時代錯誤の未開発なものとして片付けられるようになったのだ。

 それだけならば良かった。

 しかし、それだけではないのだ。

 人間が魔法と信仰を要らない物と捨ててしまったのだ。

 その火は直ぐに燃え広がってしまう。

 まず人間は知る事を罪でないと知った途端、それまで人間に禁じられてきた事柄への干渉を考え始めた。人間以外の者の為の世界など否定し、全てに関わろうと活動し始めたのだ。その動きは急速に広まり、各地で開発が行われた。魔法も信仰も捨てた彼らは、遠慮が無かった。珍しい獣は撃ち捕らえ、珍しい草木は摘み取り、邪魔な木々は焼き払う。

 数多の生き物たちが、人間の連れてきた火の精の犠牲になった。彼らは人間と心を通わす事無く、人間と協力し、沢山の聖地を焼き尽くしていく。全ての物を灰と化してしまうその火。落雷でも乾燥でもなく意図的に点けられる火に、獣達も精霊達も度肝を抜かれた。

 ある水の精霊は、人間の連れてきた火の精霊を説得にかかった。しかし、話を聞くそぶりも見せず、火の精霊は、水の精霊を蒸発させてしまったという。それ以降、水の精霊達は、単独で火の精霊の元へと行くのを恐れ、ある者は獣達を湖へと誘導し、ある者は空に住む大きな仲間へと助けを求めに行くことで、人間と共に来た火の精霊の横暴を止めようとした。だが、空より大きな仲間を連れて水の精霊が帰ってくる頃には、聖地は痛ましい程に焼き尽くされた後なのだ。

 そんな事が、各地で起こっている。

 物騒な噂が、渡り鳥より翡翠の森にまで広がっていた。

 他の聖地とは更に一線置いての特別視をされていたこの森。

 まさか、この森までそんな暴動に巻き込まれるなんてあるはずがない。

 噂を聞いたばかりの時、誰もが思った。

 だが、異変は平等に、此処、翡翠の森にもやって来た。

 それは、狩猟という形で。


「昨日はあの雌狐がやられたよ」

「可哀想に、彼女はやっと母親との子育てに慣れてきたばっかりだったというのに」

「彼女の子ども達は母親が引き取っているらしいね」

「全く、酷い世の中だ」

 離れた場所で、小鳥達が暢気に世間話をしている。明日は我が身かもしれない状況の中、何処か他人事のように会話されているそれを耳にし、シフォンは震えた。銀色の角が見せてくるのは無。何もかも無くなってしまうのだろうか。それとも、もっと怖い事が起きるのだろうか。

「それより、フェニックスが変な事を言っていたの、知ってる?」

 小鳥達の傍に居た野ネズミが小声で言った。

 別の野ネズミが首を傾げ「近々また生まれ変わるんだろう?」と訊ねると、その野ネズミは頷いて「そうなんだけどね」と、眉を潜めた。

「なんでも、『今年は妙に身体の焔が疼くね。もしかしたら、自分で火を点けなくても生まれ変われるのかもしれない』と言ってたんだって」

「どういう事だい?」

 ――火の精霊だ。

 シフォンの角が、あっという間に教えてくれた。

 人間は此処へまで彼らを連れてくるつもりらしい。昔から此処に住んでいる火の精霊を追い払い、自分達の力を心行くまで解き放ち続けるつもりだろうか。

 シフォンは身震いした。

 大変な事が起こってしまう。

「大変だ!」

 大声が響いた。

 話していた小鳥やネズミ達が空を見上げた。シフォンもすぐに見上げると、其処には数羽の鴉がいた。大声で喚きながら、空を飛びまわっている。

「大変だ! 大変だ!」

「何が大変なのさ!」

 野ネズミの一匹が言うと、鴉の一羽がすぐに舞いおりた。

「大変だぞ! 人間と犬が沢山連れだってやってくる!」

 恐ろしい知らせだった。

「シルク! シフォン! 何処に居る!」

 ユニコーンの父の声がした。

 シフォンは慌ててその声の元へと駆けた。

 獣達も各々の隠れ家へと逃げていく。

 奇妙な緊張感の間を、シフォンは走った。

「父さん!」

 父は泉に居た。他にもユニコーンの仲間や、カンピュールの群れが集まっている。其処には、数人のニンフも居た。彼らと彼らの纏う風の精霊達が、ユニコーンやカンピュールの長達に、何かを告げている。

「シフォン!」

 父と母、兄弟姉妹がシフォンに気付いた。

「シルクは?」

 同時だった。父母とシフォンの問いが、同時にぶつかった。シフォンは目を丸くして、家族達を見つめる。

「来ていないの?」

 シフォンの問いに、父母は首を振る。シフォンは戦慄を覚えた。

 シルクがいない。

 若しかしたら、この騒ぎに気付いていないのかも知れない。

 シフォンは慌てて身を翻した。

「駄目! シフォン!」

 母に止められ、シフォンは銀色の目を深めた。

 ――シルク!

「母さん。行かせてください!」

「仲間達!」

 その時、ユニコーンの長が声を上げた。ほぼ同時にカンピュールの長も話をし始める。シフォンも父母も、長に耳を傾けた。

「すぐに火の手が上がるかもしれない。ニンフ達が時間を稼ぐが、それも持たないだろう。これよりカンピュール達と共に、もっと安全な場所へと移る」

 ユニコーンの長が、ユニコーンだけの言葉で喋った。カンピュール達は、カンピュール達だけの言葉で話しているが、恐らく同じような内容を話しているのだろう。

 安全な場所とは何処だろう。

 分かりやすい所なのだろうか。

 否、そんなわけがない。

 狩人に見つからない場所が、そんな所なわけがない。

「これより移動する」

 ユニコーンの長が号令を出した。

「シルク!」

 シフォンはもう一度、その場を見渡した。やはり、シルクはいない。一体如何したのだろう。何処に居るのだろう。騒動で混乱してはいないか。

「お願い!」

 シフォンは母に縋った。

「行かせて、母さん!」

 切羽詰まった声に、母も、父も、見合わせる。だが、やがて、母はシフォンの肩に手を置き、銀色の鬣を軽く梳いた。

「まずは安全な場所を知ってからにしなさい」

 冷静な声で、母は言った。

「その後、角に訊ねながら行くのよ。いいわね? 絶対に帰ってきなさい」

 母の言葉に、シフォンはしっかりと頷いた。


 シルクは迷っていた。

 鳥達がとても不吉な事を言っている。角に訊ねてみると、それは真実だったらしく、鳥の言ったままの光景が見えた。

 仲間は何処へ行ったのだろう。

 角に訊ねようとしたが、混乱の為か、上手く見えない。森全体が、緊張しているらしい。

 ――シフォン……。

 何処に居るのだろう。

 上手く仲間達と出会えただろうか。

 共に安全な場所に居てくれたらいいのだが。

 シルクは樹の雨露に身を潜めていた。

 段々と、恐怖が際立ってきている。

 鉄と火の精と犬の匂い。その所々に人間の匂いが入り混じっている独特な匂い。狩りが行われ始めたのはつい最近だが、シルクは既にその匂いを覚えていた。

 今、その匂いが近付いてくる。

 ――やり過ごすしかない。

 いざとなれば、闘う事も必要だろう。

 この角の誇りにかけて、シルクは覚悟を決めた。

「――……シルク」

 その時、声がした。

 シルクは、はっと金色の目を輝かせた。

 シフォンの声に聞こえた。

 否、まさか、如何なのだろう。聞き間違いかもしれない。シフォンを想う余りに角が聞かせた幻聴の可能性だってある。

「――シルク……シルク」

 やはり聞こえる。

 現実の声か、否か。

 シルクは雨露から外を覗いた。

 外は、見えないのが不思議な程に、緊張の糸が張りつめられている。覗くだけで咳き込みそうなほど殺伐とした空気に、シルクは顔を歪めた。この中をシフォンが彷徨っているとは考えたくない。

「シルク、何処に居るの?」

 だが、やはり聞こえた。

 シルクを捜している声。

「シフォン?」

 シルクが答えると、急に角が熱くなった。

 シフォンが自分を捜している。それも、大嫌いな角の力を頼りに。シルクは思わず雨露から這い出た。重たい空気と冷気とが、一気にシルクに圧し掛かる。

「シルク!」

 しかし、シフォンの声が、それを跳ね退けてくれる。シルクは声の方向へと近寄った。角が熱い。何か、糸でも繋がっているかのような違和感もある。段々と、何かと引き寄せられている感覚。

「シルク!」

 シフォンの姿が見えた。

 木と木の間。

 木と木の向こう側。

 少し走れば、すぐにでも触れ合える其処。

「シフォン、こっち!」

 シルクの声に、シフォンは気付いた。すぐにシルクの元へと駆け寄ってくる。

「シルク!」

 シフォンは走りながら、言った。

「皆は安全な場所よ!」

 急に彼女はユニコーンの言葉を使いだした。きっと、人間や、犬等に聞かれても構わないようにしているのだろう。

「すぐに案内するわ!」

 シルクは頷き、だが、手招いた。

 今、此処をうろうろするのは危険な事の様に思えたのだ。

「シフォン、其処に雨露がある!」

 シルクもユニコーンの言葉を使った。

「危険が去るまでは……」

「駄目よ! すぐに行きましょう! 此処はもっと危険なの!」

 シフォンが立ち止って叫んだ直後、銃声が響いた。すぐ近くだった。その音に、付近にて息を潜めていた禽獣達が一気に逃げて行った。

 シフォンの言うとおりだった。

 早く逃げなくては。

「シフォン! こっちへ……」

 シルクは声をかけた。

 だが、シフォンはすぐには動かなかった。ゆっくりと前へと踏み出し、そのまま、崩れ落ちる。荒く呼吸をし、体を震わせながらシルクを見上げた。

 撃たれた。

 すぐ近くに人間がいる。

 シルクの呼吸が止まりそうになった。

「シフォン――」

 シフォンは生きている。

 だが、肩を撃ち抜かれたらしい。

「シフォン、待ってろ――」

「駄目、シルク、逃げて」

 呼吸と共に、シフォンは言った。

 肩から血を流しながら、必死に身を起こすシフォン。

「お願い、逃げて、お願い……」

 銃声がまた上がった。

 シルクのすぐ横の木の皮が、大きく捲れた。

 気づかれている。

 ――一体、何処に……。

 シルクは身を屈ませ、シフォンへと近づいた。

「シフォン、喋らないで。直ぐに行くから!」

「駄目、逃げて……」

 シルクは屈みながら、シフォンへと向かった。走ればすぐの距離だ。だが、屈んだ状態では少し遠く感じる。ほんの少しの違いだが、今に於いてはとても大きな違いだった。

 シルクは焦った。

 犬の匂いがする。

 シフォンを捕まえる為に、近づいてきている。

 或いは、シルクを追いたてる為に。

「シルク、駄目……」

 シフォンが身を震わせながら言った時、シフォンの背後の藪の中から大きな一頭の犬が飛び出してきた。一頭だけだろうか。シルクは緊張した。若しかしたら、他にもいるかもしれない。だが、犬は一頭だけであっという間にシフォンに近寄ると、シフォンを無理やり掴み上げた。

「いや……」

「止めろ!」

 シルクが思わず立ち上がると、犬は金色の一瞥を軽くシルクへと向け、目を細めた。

「おや、其処に居たのか? 主人が何処へ消えたのか捜していたぞ」

 犬は雌だった。

 太く、しっかりとした女の声が、真っ直ぐシルクへと向けられる。

「その娘に手を出すな!」

「言えた立場か? この娘は主人が仕留めた。主人の物だ。命が惜しくば去れ。さもないと、お前も撃たれるぞ」

「シルク……」

 シフォンの銀色の目が、悲しく光る。犬はそのシフォンの口を塞いで抱え込むと、シルクを無視して来た道を戻り始めた。

「お願い!」

 シルクは言った。

「その娘を返して!」

 犬は一旦立ち止まり、シルクをゆっくりと振り返った。その目は、先ほどよりも荒々しく、刺々しかった。

「自分で取り返せ。強い者が得る。これが野性だ」

 返す気はない。

 真正面から叩きつけられた。

 シルクは身を震わせた。体の底から、奇妙な力が湧いてくる。やがて、唸らずにはいられないほど、その力は大きくなっていく。

 シルクは走りだした。

 その大きな雌犬に向かって。

 金色の鎌鼬のように。

「シフォンを……返せぇぇえッ!」

 狼にでもなったかのような、その唸り。

 だが、その角が、犬の体を貫こうとした途端、犬はシフォンを抱えたまま、身を屈めた。素早く身を翻し、その腕でシルクの腹を大きく突く。

 シフォンが口を塞がれたまま、くぐもった悲鳴を上げた。

 シルクは地面に倒れ伏した。

 湧き上がった力が、一気に跳ね飛ばされてしまった。

「シフォン……」

 犬が見下ろしている。シフォンを抱えたまま。シフォンの銀色の目が、茫然とシルクを見つめていた。

「シフォン……」

 伸ばす手は、届かない。

 犬が踵を返した。

 颯爽と立ち去っていく。

 シフォンを抱えて。

 見えなくなった。

「待って……待って……」

 見逃したつもりなのだろうか。情けをかけたつもりなのだろうか。

 人間はシルクの元には来なかった。犬は伝えなかったらしい。

 シフォンだけを攫って、帰った。森の緊張が解れていく。十の並の獣よりも、一のユニコーンを得たことで、満足したらしい。

 ――シフォン……。

 シフォンは止めを刺されなかった。生きたまま、連れ去られていった。彼らはシフォンを如何するつもりなのだろうか。

「シフォン……」

 シルクは立ち上がった。

 体中が痛かった。

 だが、行かなくては。

 シフォンを助けなくては。

 シルクは進み出した。

 よろけつつも、金の角に頼りながら。




 銀色の雨が降りだした。まるで、シフォンの角の輝きの様な雨。道中を濡らしていくその雨。シルクはその雨を目に宿しながら、走った。金の角に頼りながら。シフォンの銀色の残香を確かめながら。

 時折、シルクは顔を顰めた。

 金色の角。シフォンの居場所を伝えてくる金色の角。ただ真実を、ただ過去を、そして、ただ未来らしきものを伝えるだけのそれ。解決策を得られないそれ。

 シルクは恨んだ。

 初めて恨んだ。役立たずのそれを。知らなくていい未来を伝えてくるそれを。否、未来じゃない。未来ではない。

 シルクは何度も自身に言い聞かせた。

 陰気な石壁の部屋で、鎖を繋がれる銀の鬣のユニコーン。その銀色の目に映る、薬と刃。違う。真実ではない。シルクの不安な心をお節介にも映像化しているだけの事だ。お節介で傍迷惑な角の力なのだ。

 シルクは顔を雨で濡らした。

 銀色の雨で濡らした。

 角を恨みながら。

 人間を恨みながら。

 シフォンの匂いを追って。

 走り続けた。森を抜けて、野原を走る。と思えば、再び森に入り、木々の間を駆け抜ける。シルク自身、もう何処を走っているのか分からない。此処が一角獣一族の縄張りだったかも、その他の怪物の縄張りだったかも、思い出せない。

 シルクの頭はシフォンでいっぱいだった。

 シフォンの匂いでいっぱいだった。

 ――お願い。

 シルクは恨み、そして願った。

 ――お願い、それだけは……。

 願い続けて走った。

 風になって。あの雌犬に立ち向かった時の様に。

 そして角に願う。

 もう止めて欲しい。シフォンの居場所は分かった。匂いが教えてくれる。だから、幻を見せるのは止めて欲しい。根拠もない映像を見せるのは止めて欲しい。シフォンは助けだすのだ。絶対に、絶対に、助けだすのだ。だから――。

 ――止まって、僕の角……。

 シルクの顔を、雨が濡らしていく。

 金色の鬣が水を滴らせている。

 雨はいつの間にか、霧のようになっていた。ひんやりとした空気が、ただシルクの体を濡らしているだけ。

 シルクは立ち止まった。

 シフォンの匂い。人間の匂い。火の精霊の匂い。鉛の匂い。犬の匂い。沢山の匂いが混じり合っている。そして、その場所には、人工物があった。人間が作ったという建物。大きく、おどろおどろしい建物。沢山の木々を使って作られた、大きな館。

 シルクはじっとその館を見つめた。

 ――ここなの?

 角は答えない。

 ただ、映像を植え付けるだけ。

 ――ここなんだね?

 角は答えない。

 だが、シルクは館へと向かった。

 金色の鬣を翻して。金色の角を光らせて。金色の目を燃やして。

 館へとにじり寄っていく。


 鉄格子の欠けた窓硝子があった。尤も、鉄格子も硝子というものも、シルクには馴染みがなかったけれども、入れそうなのはここだと言う事はよく分かった。ならば、如何すべきか。体当たりでぶち破るしかないだろう。

「シフォン……」

 極小さな声で、シルクは呼びかけた。

「待っていて」

 湿り切った大地を踏みしめて、窓硝子へと大きく体当たりをする。そしてそのまま、シルクは館の中へと転がり込んだ。マットの敷かれる廊下の途中。シルクには、ただ長い空間が存在しているようにしか見えない。この何処かにシフォンがいる。

 ふと、足音が起こり始めた。

 今の騒音が館内に響き渡ったのだ。

 シルクは走った。

 ただ、シフォンの匂いを求めて。

 扉を突き破りながら。甲冑や壺を落としながら。絵画も蝋燭も椅子も木箱もシルクの体に当たる物は、全て薙ぎ払われていく。その度に、新たな騒音が館内に響き、人間達の足音を一層慌ただしくさせるのだが、シルクは気に留めなかった。

 頭の中には、シフォンしかいない。

 愛しいあの少女しかいない。

 周りで何が起きようと、シルクには関係ない事だ。

 だが、やがて、暴れまわるうちに、足音しか確認できなかった人間達の姿と鉢合わせするようにもなった。嫌でも避けながら進まなくてはならない。シルクは人間の間と間をすり抜け、素早く館内を行き来する。

 何処に居るのだろう。

 匂いを追っているはずなのに、何処にも見当たらない。

「ユニコーンだ!」

 人間の叫んでいる声が聞こえた。

「雄のユニコーンが入ってきた!」

 混乱が館中に広がっていく。その混乱の間を縫って、シルクはシフォンを探した。シフォンの匂いを追って、その匂いの強い場所を探して。

 なのに、見つからない。

 何故だろう。

 ――何処かに居るのに……。

 角は教えてくれない。

 ただ光景しか教えてくれない。

 ――シフォンは何処だ。

 シルクは角に命令した。

 ――教えろ!

 その時。館全体を揺るがす振動が起こった。轟音が鳴り響いたかも知れない。鼓膜を傷つけんばかりの轟音。ただその音は、あまりに大きかったらしく、シルクの耳ではきちんと確認できなかったらしい。

 シルクが感じたのは、熱さ。

 肩を熱さが駆け抜けていく。

 奇しくも、シフォンが傷を負った場所を同じ場所。

 とても熱く。とても痛い。

 反対側の手で、肩を押さえ、シルクはやっと気付いた。

 ――撃たれた……。

「これ以上、勝手はさせない」

 落雷の様な人間の声だった。此処の主だろうか。シルクの目には、その顔がよく見えない。それどころか、周りの景色すらもあやふやだった。

 シフォンの匂いだけが、シルクを動かしている。

 ――そうだ、シフォンだ。

 シルクは足を踏みしめた。

 その様子に人間は眉を顰めたが、シルクには分からなかった。

 頭の中には、シフォンだけがいる。

「シフォン!」

 シルクは嘶いた。ユニコーンの姿で、少年の姿で。走りだす。館を駆け抜ける風の様に。撃った人間など見えない。その他の人間も見えない。道は一つだけ。シフォンまで続いている道のみが見える。

 ――そっちだ。

 シルクは走った。

 ただ一本の道を。


 扉を開けたかどうかすらシルクは覚えていない。だが、唐突にその部屋は現れた。何度も何度も角が見せた光景。確かに、この部屋だった。

 やはり、角は間違っていなかった。

 シルクは唇を噛んだ。

 角で見たままの刃。角で見たままの薬壺。

 シフォンの匂いが充満している密閉された部屋。その中央に倒れている人形。人形なのか。人形なのだろうか。

 ――違う……。

 人形じゃなかった。

 銀色の鬣が乱れたまま床に広がる。見開かれているのは、銀色の目。青白い腕はぴくりともせず、その瞼も動かない。息をしているのか、鼓動があるのか、幾ら見つめても分からないその人形。人形ではない。

 シルクはその横に、膝を着いた。

「シフォン?」

 動かない。

 シルクは額に手を置いてみた。

 冷たい。だが、瑞々しい。

 銀色の鬣を手で梳くと、仄かに輝きを放った。

「シフォン?」

 シルクは問いかけた。

 やっと会えた。やっと見付けた。なのに、動かない。如何してだろう。

 死んでいるのではない。でも、生きているのでもない。

 如何してだろう。

 その肌は、まるで作り物の様に。その目は、まるで作り物の様に。輝いている。陶器の様に輝いている。

 シルクはシフォンを見下ろしたまま、じっと身体の芯を凍らせた。

 シフォンの心は何処にあるのだろう。

 生きているのに、深く眠っているのだろうか。

 見開かれたままの銀色の目を見つめ、シルクは呟いた。

「僕たちは……」

 触るシフォンの体は、冷たくて、暖かかった。

「僕たちは、きっと作り物だったんだ……」

 シルクもそのまま、動くのを止めた。

 シフォンのように。

 シフォンに近づけるように。

 もう一度、共に笑い、過ごせるように。

 金と銀のユニコーンの影が、炎の様に揺らめいた。




 此処にあるのは無だろうか。

 否、そうとは思えない。

 今、自分達が陶器だと分かった今。

 それなのに心を持っているのだと分かった今。

 私の銀の目の奥には、僕の金の目の奥には、美しく広い緑の世界が広がっている。

 其処は生まれ故郷となんら変わらない。

 それなのに、それ以上に安心できて、それ以上に幸福が満ちていた。

 だから、私も、僕も、互いに笑い、寄り添っているだけで良い。

 此処にあるのは無だろうか。

 否、違う。

 無の上に、何かがある。

 銀の心と金の心が混ざり合う、翡翠の森の世界。

 現実には無い、その世界。

 私も、僕も、其処に居る。

 石の壁に囲まれてなど、居ない。

 今までも。

 これからも。

 永遠に。永遠に。

 時間を超えて。

 永遠に。




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