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先代皇帝の容態も回復し、起き上がれるまでになった頃に、突然やって来た。
グリフィカ宛ての客人だ。
「わたくしに客人?」
「はい。応接室でお待ちいただいております」
「名前は?」
「アンジー・ヴェホルとのことでした」
その名前を聞いた瞬間に、応接室まで淑女ではありえない速度で走り出した。
ヴェホルの名を語った偽者の可能性もあるが、それならば、そっちの方が危険だ。
アンジーという名前は恐怖の象徴でもあった。
「お母様!!」
「あら? 早かったわね。もっと待たされると思ったわ」
グリフィカが母と呼んだ女性は冒険者であることを疑わせることのない服装をしており、優雅にお茶を飲んでいた。
身元がはっきりしないこととヴェホルを名乗ることでイライアスが側に付いていた。
「どうして帝国に来られたのですか?」
「どうして? 貴女が欲しいと言っていた苗木が手に入ったから、家に帰ったらグリフィカが帝国に貸し出されているって聞いたのよ。貴女の兄に苗木を渡せば、きっと枯らしてしまうから持って来たの」
「そうでしたか」
「それはそうと、貴女、いつからそんな貴族みたいな言葉使いなの? 昔はママって呼んでくれてたのに」
「第二王子殿下の婚約者になったころですわ」
「それって何年前?」
グリフィカも十分に自分本位な言動があるが、その根底は冒険者であるアンジーにあるのだとイライアスは確信した。
あのグリフィカが少しだけ疲れたような表情をしたことで、面倒な相手だと分かる。
「たしか五年前くらいだったかと思いますわ」
「そう。そんなことよりもグリフィカに渡す物があるのよ。はい、オウサマとオウヒサマからの手紙よ」
貴族ではないと言っても長年、王家に仕えているヴェホル家は最低限の臣下としての振る舞いは心掛けている。
だが、最初から庶民で貴族社会に縁のないアンジーは王や王妃と直接顔を会わせたことがない。
王たちも薬師は貴族ではないが自分たちよりも上の存在になりうると分かっているから会うが、完全な庶民であるアンジーには何とも思っていない。
アンジーも堅苦しいことは嫌いなため問題が起きていない。
「手紙? ファーディナンド陛下経由ではなく」
「正式な物は後日送るみたいだけど、帝国が拒否してもグリフィカが王国に戻ると言えば引き留めることはできないでしょう。そのためじゃないの?」
「お預かりします」
「さてと、用は済んだから帰るわね」
「えぇ、お母様もお元気そうで安心しましたわ。今度はどちらに?」
「南は飽きたから北に行くわ。何かいるなら取って来るけど?」
「・・・いえ、しばらくは結構ですわ」
このまま王国に戻っても今までのように毒の研究はできない。
集めても自分でできないなら必要はなかった。
城の者に案内をされてアンジーは出国した。
検疫中だった苗木はそのままにされてファーディナンドの判断に委ねられることになった。
「・・・お母上だったのですね」
「はい。ただ一年のうち冒険者として飛び回っているので、会ったのは数えるくらいです」
「薬師でないなら城に通すことができないのですが、問題が起きそうな気がしますね。グリフィカ嬢」
ヴェホルの薬師が正確に何人いるかは他国では分からない。
ヴェホルと名乗った以上は通すしかなかった。
「お母様も分かった上で名乗ったのでしょう。次からは通常の手続きで構いません。本人も冒険者であると公言している以上、待遇に不満を漏らすこともないでしょうから」
「やはり冒険者なのですね」
「えぇ、ただ依頼があれば何でもすると言っていますから、ただの冒険者というにも心苦しいところがあります」
「説明を願えますか?」
「兇刃のアンジーと言えば、名うての暗殺者ですら震え上がるらしいのです」
その二つ名は帝国でも有名だった。
どんなに強固な警備でも掻い潜って標的を暗殺する。
姿を見た者はいないから噂だけが独り歩きをしていた。
それが堂々と冒険者をやっているというところにイライアスは眩暈を覚えた。
「アンジーというのは、本名だったのですね」
「えぇ、正真正銘の本名ですわ」
暗殺者を向けられる者の中には恨みを多方から買っている者がいる。
複数の暗殺者が現場に集結するというのも珍しくはない。
そこで誰が手柄を上げたか明確にするために標的を殺した者は現場に通り名を残すのが暗黙の了解だ。
「グリフィカ嬢が言っていた出入りしていた暗殺者というのは、お母上のことだったのですね」
「半分正解で、半分外れですわ。仕事でアンジーが知り合った暗殺者が出入りしていたのです」
「そうですか。それで、参考までに暗殺者の方のお名前をお聞きしてもよろしいですか?」
「それが、覚えていないのです」
「はい?」
グリフィカは名前を覚えるのが苦手だ。
肩書を持つ人ならそちらを優先する。
なぜなら国が変わっても王の子の順位は第一王子、第二王子だ。
皇帝の子であっても王子が皇子に変わるだけで、「おうじ」と呼んでも差し支えない。
宰相は宰相だし、王妃は王妃だ。
「一度、自己紹介をしていただいたことは覚えているのですが、何分、幼かったもので」
「では、何と呼んでいたのですか?」
「小父さんと呼んでいましたわ」
おじさんと呼ばれる年齢差だったのなら誰も名前を覚えていないなど思わない。
暗殺者だったのなら名前を呼ばれない方が影に潜みやすい。
色々な偶然と思惑が重なった結果だろう。
「・・・・・・手紙の内容はグリフィカ嬢の帰国ですね」
「そのようですわね。『早急に帰国しろ』この一文だけですわ」
王国は良くも悪くも薬師に慣れた国だった。
命令をすることに躊躇いは無かった。
「・・・荷造りをしなければいけませんね」
「それよりも、貴女が希望している棚はどうするのです?」
もっと長期滞在になると思い、持って来た茶葉を収納するための棚を作っていた。




