前触れ3
その日は、苦手な美術の授業があった。
彼は、全ての科目において優秀だったが、美術だけが唯一、不得意な方だった。
昔から、絵を描く事だけが苦手分野で、あまりいい思い出も無い。
そもそも、芸術に全く意味を感じられないのも好きになれない要因でもあった。
つまり彼にとって、芸術は何も役に立たないものであり、時間の無駄。そういう考えでしかなかった。
しかし、杉崎は美術では、ずば抜けて優れていた。普段、クラスで目立つ事の無い杉崎が唯一、輝ける場所であった。
今回もそうだった。デッサンで、自分の好きな物を描く。そういった課題の元、杉崎は美術室の外にある花を描いていた。
その花は、珍しい色をしたユリの花で、外のプランターに植えられていた。
赤黒い色のユリ。見た事も無い上に、不思議な存在感と綺麗さがあった。
それは、まるで杉崎自身のようでもある。
引き戸の冊子に寄りかかり、杉崎はただ一人黙々と描いていた。杉崎だけではない。
クラスの皆も、この時ばかりは必死だった。一年の終わり。これは、二年に進級する為の課題だったからだ。
誰も目を付けない観点に目を向けたという点で、先生も高く評価をしていた。
それなのに、杉崎は完成間近になってその花の絵を黒く塗りつぶした。もはや、キャンパスに花の原型は無く、ただただ黒だけが広がり滲んでいた。
これでは、お世辞にも作品とは言えない。
皆が皆、訳が分からなかった。杉崎は、時々こうゆう奇行をする。
期待が高かっただけに、先生は呆れを通り越し、哀れみの目ですら見ていた。
何故、あんな事をしたのか。
授業が終わった後、単なる興味本位から尋ねてみると杉崎はこう言った。
「僕は、完璧な物が嫌いなんだ。いつも完成する前に壊してしまいたくなる。これも、父親ゆずりの気性かな…。」
そう言って、杉崎は自分の絵を持った。
その右手首に、新しい痣を見つけた。背が伸びて、制服の袖から僅かに出ている。
咄嗟に、言いかけた事を押し込んだ。気休めの思いやりなど、今は必要ない。
その痛みだけが、互いの絆をより一層強くするのだから…。
杉崎の今期の美術の成績は散々だったが、これまでの実績が考慮され落第は免れた。
その後、問題なく二年に進級した。杉崎とはまた、同じクラスになった。
そして、進級して間もなくの頃。偶然、外から美術室の脇を通りかかった。窓越しに美術室にいる先生に、軽く会釈をする。
すると、それに気づいた先生がこちらに向かって歩いて来た。窓を開け、数分の世間話をした。それとなく、会話を終わらせ教室に戻るつもりだったのだが、ふとあのユリの花が目に入った。
そこで、何気なくあの花の名前を聞いてみる事にした。本当に何となく、出来心のようなものだった。
―クロユリー
花の名前はそういう名で、この地域のように寒い場所でしか咲かない花なのだそうだ。
花言葉は、〝呪い〟。杉崎は知っていたのだろうか…。一瞬、そんな事を思った。
だが、すぐに詮索を辞めた。他人の事を深く勘ぐるなんて自分らしくない。杉崎にもあえてこの話はしなかった。それが、お互いにとって適切な距離感だと思っていた。
また、始まった。今日は帰って来るなり酒が無くなったと怒鳴り出した。早速、容疑が自分にかかる。勿論、犯人は昨日の父だ。
家にある酒は、昨日の内に空瓶になっていたはずだった。それでも、父は怒鳴り続ける。
きっと、本心では犯人なんてどうでもいいのだろう。
今、父にとって最も重要なのは、手元に酒が無いという事なのである。
今、灰皿を投げた。
間一髪、的に当たらなかった灰皿は、壁に当たって轟音ごうおんと共に床に落ちた。
床には、そこら中にぶちまけられた灰が散らばっている。これも、後で片付けろと怒鳴られるのだろう。
そして、確実に言える事は…。今日は、いつもより一段と酷いという事だ。
父は、息子の髪を掴んでテーブルに顔を押し付けた。でも、抵抗はしない。
無駄な抵抗は、興奮状態の父を煽るだけだ。
「養われてる分際で、酒も買って来れないのか‼」「お前なんか生きてる価値が無い。」
そう言って、また何度もテーブルに顔を押し付けられる。いつの間にか、話は自分の存在否定にすり替わっている。
三回目を超えた時、口元を液体が伝った。
血の匂いがする。これは鼻血だ。
でも、まだだ…。まだ、泣いて許しを請うには早すぎる。
父は、こちらの限界を知っている。
寸前までいかないと、諦めてくれない。
「お前なんかに…。」
首筋に、冷たいものが流れた。感覚でそれが水だと分かる。
先に泣いたのは、父の方だった。背中越しで顔を見る事は出来ないが、声が震えている。
父はこうして、稀に弱くなる。今日は、珍しくそういう日なのだろう。
以前は、謝って来た事も度々あったが、もうそれも随分昔の話だ。
そして、すぐにぶり返す。束の間の間に、何とか生き延びる方法を、必死で模索しておくべきだった。
「俺が、どれだけ会社でストレス抱えてると思ってんだ‼全部、お前の為だろぉ‼」
また、始まる。背中越しで、煙草の火をつける音がした。
さっき、投げたばかりの灰皿は、まだ床に転がっているままだ。やっぱり、自分が灰皿になるしかない。
習慣的に、次に来る痛みを容易に想像出来てしまう。
髪をかき上げ、額に久々の熱を感じた。その熱が一瞬で激痛に変わる。
これは、父の痛みの分だ。その痛みを一心に受けなければならない。
ふと思った。父は自分にあたる事でストレスを解消している。
では、自分はどうなのだろう…。
今、自分に降りかかっているはずのこの痛みは。苦しみは、憎しみは…。
一体、いつ消えるのだろうか…。
あぁ…あちら側に行きたい…。そこから見下ろす景色は、どんな風なのだろう。
一度でいい。奪われるばかりではなく、奪う側になってみたい…。
自分も、人間なのだと実感したいのだ…。




