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英才教育  作者: 市川滝
2/5

前触れ2



登校中、電線に数羽のカラスが止まっているのが見えた。ふと、あの黒い物体が一斉に消えたらどうなるのだろうと考えた。


彼は高校生になっていた。


今、見ている景色は、地元の通学路からは少し離れた場所にある。彼は、地元の高校には進学しなかった。彼は、彼の事を誰も知らない場所に行きたかった。


―普通じゃない。―


それは彼自身が、一番理解していた。しかしその正体は分からなかった。


社会からの逸脱した欠落。彼を理解してくれる人間はいない。


全うには生きられない。だが、それは今に始まった事では無かった。


彼の両親は、彼が三歳の頃に離婚した。彼は一度、母親に引き取られた。


しかし、その母親にも新しい家族が出来た事により、彼は親戚中をたらい回しにされた。


その後、最終的に引き取られたのが彼の実の父親だったのである。しかし…。


彼の父親は、暴力の中にしか安らぎを見いだせない人だった。


彼は、いつも人としては扱われなかった。


〝灰皿〟それが、彼の名前だった。


そう呼ばれ、父の元へ行く。そこに抗う事は許されなかった。


彼は父に、名前を呼ばれた事は無い。


見えない位置にあてがわれた火傷は、ひっそりとそこに消えず残った。


真冬に、裸で外に放り出される。床に捨てられたご飯を食べさせられる。


それはまるで物の様であり、動物の様でもあった。


酒を飲むと、暴力は更に酷くなりその度死を見た。罵倒の言葉は、彼が人間であるという事を忘れさせた。


そうして生きていく内、日常のズレを思い知った。その圧倒的な差を前に、いつまでも動けないでいる自分が惨めだった。


早く家を出て行きたいと思ったが、何も持たぬ子供一人の無力さが分からない程、子供にもなれなかった。


何度も想像した。父を殺す瞬間だ。妄想と現実との区別に迷い、我に返る。


決まってそれを繰り返す。物心ついた時にはそういう事が多々あった。


大学に行ったら家を出る。高校受験が終わった段階で、誰にも言わずにそう決めた。


いつか、本当に人殺しになってしまう前に、離れるべきだと思ったからだ。


二年と、八か月…。まだ、そんなにある。


それまでに間に合うのだろうか…。


入学式の日、卒業までの道のりを数えながら不安がよぎった。


それから、計画を立てた。


中学の時のような失敗をしない為である。


彼の入った高校は、地元でも有名な進学校だった。彼は、そこの特進クラスにいた。


この学校で、最も優秀な生徒が入れるクラスである。


その中で初めて友達を作った。勿論、自然に出来たのでは無く意図的に作ったのだ。


クラスでは、皆それぞれの派閥を作りそれぞれに居場所があった。


だから、誰でもいいという訳では無かった。


派手な奴や、うるさい奴は駄目だ。出しゃばる奴も好きじゃない。成績はそこそこで、地味で大人しいくらいが丁度いい。


杉崎進(スギサキ シン)。目を付けた男子の名前である。


杉崎も、いつも一人でいた。奥手で臆病な性格からか、言いたい事も言えず何を考えているのかも分からない。


常にその場の空気のように、いるのかいないのかも分からないような奴だった。それどころか、誰かとまともに会話をしている所でさえ見た事が無かった。


成績は、中の上という感じで突飛な特技も無く、これといった趣味も無い。


それが、支配するには都合が良いと思った。


声を掛けたのは、入学してから一か月が経った頃。


きっかけは、〝痣〟だった。


杉崎は、体育の授業の前後になると決まってどこかに行っていた。別に、サボろうとしていたのでは無い。


授業が始まればいつの間にかそこにいたし、終われば忽然と消えていた。


つまり教室では無く、別の場所で着替えを済ませていたのだ。行先は、一階の男子トイレだった。


そのあまりの徹底ぶりに、それをはやし立てる奴らもいた。だが、杉崎はその事を知ってか知らずか、気にしなかった。


いつも、自分には〝関係ない〟という顔をしていた。杉崎の時折見せる冷やかな一面。


それは、まるで自らこの世界に一線を引いているようでもあった。


最初は気にも留めていなかった。だが、ある時、突然にそれは訪れた。


その日、杉崎は珍しく教室で着替えていた。


体育の授業後にいち早く教室に戻った時、偶然居合わせたのである。


居合わせたと言っても、背中越しにだ。杉崎には、未だ後ろにいる自分の存在は気づかれてはいない。


そして、その時見てしまったのだ。杉崎の背中の痣を…。


杉崎の背中には、無数の痣があった。男子にしては華奢な体。その貧相な背中を生々しい赤色が刻んでいた。


それらは腰のあたりまで広がって、ズボンの手前で見えなくなった。


もしかしたら、ズボンの下にも同じような跡があるのかもしれない。


生徒間のいざこざや、いじめ…。


考えられる理由は幾つもあったが、何故かそのどれも違う気がした。


彼には、見覚えがあったからだ。恐らくそれは、自分にしか分からないだろう…。


そう思うと、声を掛けずにはいられなくなった。


「ラグビー部の部室を使うといい…。」


ボソッと後ろで呟いた。杉崎はすぐに振り返った。驚いた顔が秘密を知った今、凍り付いた表情にも見える。


着たばかりのワイシャツの裾を、強く掴みながら杉崎は震える声で言った。


「何が…?」


杉崎は目をそらした。ほんの一瞬、微々たる変化だった。他の人が見たら、分からなかったかもしれない。


それでも、彼にはそれが動揺によるものだと分かっていた。


「あそこなら、誰にも見えない。」


「あぁ…。」


杉崎は小さく頷いた。察しのいい杉崎は、それだけで理解した。


ラグビー部は去年、廃部になった。人員不足と、経費削減の為らしい。


元々、活動的では無かったらしいが、弱小部の存続などこの学校で気にする者はいない。


体育館の裏手には、部室だけが残った。


今現在では、鍵も掛けられる事無く、そのままの状態で放置されている。


そこを使えば、誰にも出入りを見られる事は無いだろう。


「どうして、そんな事を僕に…?」


杉崎が聞いた。きっと、意味が分からないのだろう。当然だ。


杉崎とは親しい仲でもない。そんな相手からの親切なんて警戒されても仕方ない。


杉崎にゆっくり近づいた。目の前まで来た所で前髪をかき上げる。


「え…?」


杉崎がまた驚いた顔をした。だが、今度こそ凍り付いた顔、と言っていいだろう。


おでこに付いた火傷の跡。杉崎とは違って、自分には〝見えない〟所に印があった。


その前では、自分の人生を物語るのに言葉はもう要らなかった。


「俺も、同じだから…。」


「あ…うん…。」


目のやり場に困るという感じで、杉崎は目を伏せた。その様子を見て、前髪をおろす。


「杉崎も、親にやられたんだろ?」


「うん…まぁ…。」


二人はこの日を境に急速に近づいていった。


秘密を共有し合う。それだけなのに、昔からの親友のように二人は打ち解け合った。


何もかも思い通りにいった。いや、それ以上だ。杉崎とは生い立ちや、価値観の全てが互いに少しずつ似ていた。


同じ父から受けている、幼少期からの虐待。


中学時代、周りに馴染めなかった事。他とは違う考え方。


父親を、殺す瞬間を想像してしまう事…。


共に行動するようになって、そういう話を沢山した。自分から話をする方ではない杉崎には、言わずとも分かる事が多かった。


それでも、杉崎といる間は無理に普通を装う必要は無い。


そう言った心地の良い空間があった。


クラスの連中にも、変化があった。


杉崎が一緒にいる相手を見つけた事によって冷やかす奴がいなくなったのだ。


毎日がささやかに、大きく変わっていった。


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