前触れ1
―そこで初めて、彼はそれが〝人〟だったという事を思い出した。―
その男には衝動があった。
それは、彼が幼い頃からのものだった。
それが、普通ではない事は分かっていた。
不規則で突発的に始まり、一度始まると歯止めは効かない。
だが時々、無性にその行為に駆られた。
抑える方法はただ一つ。
それを実行する事のみだった。
彼が五歳の時。
彼に、真剣に怒ってきた少女がいた。同じ幼稚園内の女の子だった。
その子は、怒りながらも「どうしてそんな事をしているのか。」と質問をした。
彼は返答に困った。
理由などはない。ただ、そうしたかったからそうしていたのだ。
だが、今考えてみればそれが衝動の始まりだったのかもしれない。
小学校に上がると、もっと大きなものに目がいくようになった。しばらくすると、クラスで飼っていたハムスターが、消えた。
放課後、担任の先生が神妙な顔もちでクラスの皆を校舎裏に集めた。そこには、ずぶ濡れで冷たくなったハムスターがいた。
先生は、変わり果てたハムスターを両手に抱えて命の授業を始めた。
昨晩、檻から一人でに抜け出したハムスターが、誤って廊下の通気口から転落し、下に置いてあったドラム缶の中に落ちたのだ。
ドラム缶の中には大量の水が溜まっていた。一昨日から降っている雨が原因だろう。
そして、ハムスターが檻から脱走したのは紛れも無く、昨日の日直が檻の鍵を閉め忘れていたからである。
先生はそう推測した。
死の経緯を聞き、クラスメイトの殆どが悲しみ泣いていた。ただ一人、彼を除いては…。
集団の中に紛れ、ゼリーのようになったハムスターを眺めた。
彼にとってはもう、ただの物体でしかなかった。魂の無くなった塊には、何の感情も沸かない。
だから、ただ冷静に眺めていた。
クラスメイトの中の何人かは、悲しむ様子の無い彼を見て陰で咎める者もいた。
何故なら、昨日の日直は彼だったからだ。
中学生になると、彼は別の問題を起こした。
卒業まであと、半年。という所だった。
教室のベランダから同級生を突き落とそうとしたのだ。
突き落とされそうになったのは、クラスで一番お調子者の少年・平野だった。
二人は、普段から仲が悪かったという訳では無かった。むしろ、正反対の二人は関わる事すら無かった。
きっかけは些細な事だった。
掃除の時間、彼は突然話しかけられた。ベランダで、黒板消しのチョークの粉を払い落としている時だった。
「なぁ。お前ってさ、友達とか出来た事無いだろ?」
平野は教室とベランダの境に立っていた。腕を組み、銀色のサッシに寄りかかっている。
からかいと、好奇の目。それはまるで異物に対する興味のようだった。
だが、彼はそれに答えなかった。
その通りだったが、それが何だと言うのだ。大勢仲間がいようが、一人でいようが彼には孤独と同じに見えた。誰しも、分かりえないのであれば必要ではない。
当然のように無視をした彼に、平野はムッとした顔をした。普段から、平野は思っている事が顔に出やすかった。
きっと、自分の立場の方が上とでも思っているのだろう。
「だから放課後、いつもあんな所に行ってるんだろ?」
黒板消しを叩いていた両手が止まった。風に舞うチョークの白い粉が、風向きが変わり自分の服にもかかる。
平野は確信を持っていた。教室との境で踏みとどまっていた足を、こちらに踏み込んだのは自信があるからだろう。
彼には最近、密かな楽しみがあった。
それは、放課後誰もいなくなった理科室に行く事だった。彼にとって、理科室は特別な場所だった。彼を魅了するものが沢山揃っていたからである。
その一つに胎児のホルマリン漬けがあった。
授業でも扱われる事のない為、本物かどうかも分からない。それでも、見分けが付かない程に実物のようであった。
保管されていた標本は、他にも多数あった。
猫の頭蓋骨や、しっぽ。カエルの解剖や、豚の腸をホルマリン漬けにした物もあった。
だが、彼が強烈に惹かれた物は胎児の物だけだった。
薄く浮き出たピンク色の血管。まだ、肌とも言えない透明な肌からは、それがくっきりと見えていた。
どのような経緯があってそうなったのか…。どうして瓶の中に入っているのか、とかはどうでも良い事だった。
ただ、何の躊躇も無く綺麗だと思った。
初めて理科室に入った日から、いつかそれを間近で眺めてみたいと密かに願っていた。
保管されているガラスケースの中から出してはいけない事は知っている。けれども、もっと近くで見たいという欲求は収まらず、間もなく実行した。
容器ごとそっと取り出し、机の上に置いて眺める。美しいそれを眺めるのに、飽きる事は無かった。
誰もいない理科室は、他のどの教室よりも静かで居心地がいい。
勿論、理科室に入る時は細心の注意を払っていた。人気のいない事を確認し、部屋の電気はつけなかった。夕日の明かりが無くなれば家に帰る。その間、誰かに会った事は無い。
だが、甘かったのだ。
平野がサッカー部である事を考えると、ある程度予想はつく。
平野は、放課後に遅くまで部活で残っている事が多かった。そして、理科室のある第二校舎側には、一階にサッカー部の部室がある。
その為、何らかの形で偶然目撃してしまったのだろう。
その異常な習性と、偏った趣味を…。
その上で彼を馬鹿にし、蔑んでいる。平野は得意げな顔さえ見せた。本当に、嘘が付けない人間である。
腹立たしいが、彼が最も腹を立てた事はそれとは全く別の理由だった。
なにせ、平野が知ってしまった事で、彼はもう理科室には行けないのだ。
他人に楽しみを奪われる。それは、彼にとって屈辱にも値した。
だが、事を荒立てたくは無かった。出来れば終息にこれを終わらせたい。
彼は、集団の中で目立つ事を嫌った。
あくまで、ひっそりとした生き方を好んだ。
大勢の人間に知れ渡れば、異質は際立つ。
それだけは、避けたかった。用心深い性格の彼が恐れたのは、それだけだった。
しかし、哀れなのは平野の方である。平野はまだ知らないのだ。それが、どんなに危険な事かを…。だから、こんなにも簡単に間合いに入って来てしまう。
幸い、ここの教室は別階の教室だった。クラスの誰一人、ここにはいない。
平野が隣に立ったのを見計らい、その隙に前から首を掴んだ。その首を、ゆっくりと手すりの向こうへと下げる。
不用意に、こちらに体を向けた瞬間を見逃さなかったのである。
「がっ‼」
警戒心のない平野の上半身は、重力によって軽く下がっていく。さっきまで、教室とベランダの境にいた体は、今、手すりとベランダの境にいる。
離せば、この体は真っ逆さまに落ちていくだろう…。
「お前っ‼何して…。」
手すりに掴まってはいるが、その表情には徐々に恐怖が見え始めた。
しばらくすると、平野は自ら懇願してきた。
誰にも言わないから、助けてくれ…。
そう言ってきたのだ。
今、平野は安易に踏み込もうとした事を、大いに後悔している事だろう。
別に本気で落とすつもりは無い。ただ、これ以上の干渉を辞めて欲しかった。
平野の手は、震え始めている。顔は強張り、瞳の水滴は零れ落ちそうだ。
かろうじて境で留まる体を、また少し傾け念を押した。
本当だろうな…?低い声で、追い詰め十分に答えを聞いてから引き上げた。
無事にベランダに降りた平野は、無言でこちらを睨んでいた。首元に触れる手は、未だ震えたままである。
敵意を向けてはいるが、その目には〝死〟が映っていた。
現に平野はまだ、立ち上がれずにいる。
その目と対峙した時、何とも言えない高揚を覚えた。それは、彼にとっても初めての経験だった。
やるべき事は終わった。後は、いち早くここを去るだけである。
フラフラしながら、平野が立ち上がろうとしたその時…。
「そこで何してる…‼」
通りがかった大人が止めに来た。体育教師の小野田という男性教諭だった。
間一髪、間に合わなかった。男性教諭には決定的な所を見られ、平野は首元を抑えながら大げさに助けを求めた。
もう少し早く、ここを去るべきだったのかもしれない…。
放課後、彼は一人で職員室に行った。
先程の、小野田という男性教諭に呼ばれたのだ。小野田先生は、日頃から熱血な体育の先生で有名な人だった。
担任こそ持ってなかったが、生徒からの人気も高く面倒見のいい先生だった。常に前向きな性格で、どんな困難も努力で越えられないものは無いという考え方を持っていた。
そこが苦手だった。その一方的な考え方は脅威ですらある。
彼にとって先生はそういう認識で、出来れば遠ざけたい存在でもあった。
案の定、そんな先生が今回の事を見逃すはずも無かった。
救いがあるとするならば、首を掴んでいた所は見られていない…。という事だけだった。
「平野と、何があった…?」
「え…?」
先に聴収を受けていたのは平野の方だった。
それなのにも関わらず、先生は最初にそう聞いた。
直感的に、平野は何も言わなかった。そんな甘い考えがよぎった。
―アイツは普通じゃない。―
先生が、ボソッと言った。平野は震えながらそれだけを繰り返していたらしい。
次に視線がこちらを刺した。試されているのだと分かる。
下手な事は言えないし、かと言ってそれなりの返答をしないと余計に疑われる…。
「何の事か分かるか…?」
先生の問いかけに、彼は無表情で「さぁ。」とだけ答えた。
「本当に…?」
腑に落ちない。口数の少ない先生の目が語っていた。だが、彼は動じなかった。
「ただの喧嘩です。平野君に酷い事を言われて…。」
「何て言われたんだ?」
「がり勉は、友達いないんだろって。」
チラリと先生を見た。嘘にしては、これではまだ足りなかったかもしれない。
「ほぉ…そうか…。」
先生は、無理やり納得した。納得したと言っても、完全にではない。まだ、言動次第では崩れる、そういう可能性はあった。
しかし、言った通り彼の表向きは温厚で成績優秀な生徒で通っていた。それに比べ、平野はクラスの中心的存在ではあったが、同時に授業を妨害する問題児でもあった。
その上で、先生は他人との付き合い方について長い話をした。人生に置いてひがみや、嫌味はつきものだ、とか。
もっと我慢強くならなくては駄目だ、とか。そういうありきたりな事ばかりだった。
饒舌に話す口ぶりに、過去、大勢の生徒に話してきたのだと予想がつく。
一通り話が終わったのを見計らい、答えを言った。求められているものは分かっていた。
「今回は、僕もやり過ぎました。反省してます…。」
先生はそれ以上、追求しなかった。所詮、子供の喧嘩だとタカを括ったからである。
何にしろ、彼は安堵した。
なにせ、本当の彼が暴かれる事は無かったのだから…。
こうして卒業までの間、彼は平穏に過ごす事が出来た。平野とも、あの後クラスが変わり関わる事は無くなった。
けれども、小野田先生は彼への監視を辞めなかった。
彼は、理科室に通わなくなった。
その度、彼は衝動を抑えながら苦痛な日々を過ごしていた。
だが、この事は後に、彼の中で新たな衝動を生む事になる…。




