三章36 心を軽くする魔法
午後一時半を回ったころ、健吾の病室を学校帰りのかがみが訪れていた。テスト期間中は部活動が停止されるが、テスト最終日の今日から再開される。だがかがみは部活に参加していないため、さっさと下校してお見舞いに来たという寸法だ。病室に入室したかがみを、昼食後の満腹感と疲労感で夢の世界に引きずり込まれそうになりながらなんとか耐える暮月が出迎える。
「お、かがみんお帰りなん」
「あれ、暮月一人? 穹良は?」
「んー、電話かかってきて、出るために席外してるん」
「なるほど」
ならそのうち戻ってくるだろうと、かがみは穹良が座ていたであろう椅子に腰かける。脱力して首を左右に傾けると、小気味よい音を立てた。
「テストでお疲れなんな」
「まあね。赤点は無いだろうけど」
答えながら、くあっ、と欠伸をする。半竜といえど、普段の生活リズムから逸脱した時間感覚には慣れず、体が休息を求めている。かがみに釣られるように暮月も欠伸をし、眠気が病室を支配した。
「あんたこそ、普段引き籠ってるんだから、体とか、周りの視線とか、辛いんじゃないの? 帰って休んだら?」
「うちはにいにと一緒に寝たから平気なんよ。それに、うちがいない間ににいにに何かあったら、絶対後悔するん」
絶対に後悔する、という言葉が不思議とかがみの耳に残る。医者は健吾の容態を安定していると言っていたが、半竜は絶対数が少ないために医学的知見が不足している。腕が再生する保証はなく、このまま目覚めないこともあり得ない訳ではない。だから暮月の思いもよく理解できるのだが、かがみは暮月が思うような最悪の事態は起こらないと確信していた。妹たちに甘々なシスコンの健吾が、自分たちを置いて逝くはずがないという確信があった。
「それもそうかも知れないけど、健吾が起きた時にあたしたちがヘロヘロになってたらきっと心配するよ」
「それもそうなんな」
何を思うかは違っても、誰を想うかは同じ。二人が想う人物の寝顔を見てから、顔を合わせ、どちらからともなく微笑がこぼれる。
二人の会話が途切れたタイミングで戸が開き、穹良が戻ってきた。自分が座っていた椅子を占拠しているかがみを目に留め、「おかえり」と投げかけると、かがみから「ただいま」が帰って来た。
「電話、誰からだったん? かあかなん?」
穹良の連絡先を知っている人物が少ないであろうことは暮月も知っている。健吾の父親が見舞いに来たが母親である幸子がまだ来ていないため、彼女から連絡を受けたのかと思ったが、答えは否だった。
「璃那……、同級生からだ。私と健吾が休んだから、何かあったのではと心配してくれた」
璃那の落ち着いた声が耳に残って離れず、穹良は手にしたスマホを優しく握りしめる。全くの他人である人にも心配してもらえるということの嬉しさを噛みしめ、同時に心苦しさを覚える。
「何て答えたの?」
「体調を崩しただけだと言ってしまったが、下手な嘘を吐いたものだ。いずれ話さなければならないというのに」
声のトーンを落とす穹良に、健吾のベッドから這い出した暮月が歩み寄りそっと手に触れる。
「ねえねは、優しいんな」
「そうか……?」
自分が優しいのか残酷なのか、穹良には分からなかった。
翌日。穹良は下校した璃那を天智駅に呼び出していた。高校がある上竜宮の方に住んでいる璃那にとっては帰宅する方向と真逆の方向に来てもらうことになったが、何か事情があると察した彼女は快く来てくれた。
「お待たせしました」
改札から出てきた璃那が手を振る。
「わざわざ済まない」
璃那を出迎えた穹良は人目を避けるために彼女を駅舎の端、タクシーロータリーの奥にあるベンチまで誘導した。もちろん、途中の自販機で飲み物を買うことも忘れない。
璃那がベンチに座り、飲み物を受け取ったところで、彼女から話を切り出してきた。
「やっぱり、何かあったんですね?」
「まあ、な」
穹良も璃那の隣に腰かけ、暮れなずむ空を見上げる。駅構内に滑りこんできた列車が上げるブレーキ音が背後で響き、くぐもった自動音声が聞こえた。
わざわざ来てもらった以上、余計な時間は掛けるべきではない。だがいざ彼女を前に話そうとすると、心が重く、口を開くのが躊躇われた。昨日吐いたばかりの嘘を抱え込むことの無意味さを悟り、さっさと打ち明けようと心に決めたが、上手く言葉が出て来ない。
「大変なことが、あったんですか?」
璃那の優しい声が耳を打つ。同時に、穹良の縮み上がった心が解けていくような感触があった。彼女自身の優しさや労うような態度に触れたからだが、彼女が竜の巫女だからでもある。感情が荒ぶると同時に湧き上がる竜力を抑え、落ち着かせる能力を彼女は持っているのだ。
「日曜日の夜のことだ」
一息ついてから、事の顛末を話し始める。一度言葉を紡ぐと、最後まで語るのに対した時間は掛からなかった。璃那が余計な口を挟まず、静かに聞き手に徹してくれたのも大きな要因だろう。最後まで話し終えた時、穹良の胸中には重荷から解き放たれた解放感と、安堵が広がっていた。
「ということは、西島さんは今も……」
「眠ったままだ。腕も片方しかない」
「そんなことが、あったんですね」
「あの電話で言い出せなくて嘘を吐いたが、話すしかないと思った。今の私には、この話を出来るのはお前しかいない」
「それは嬉しいですが、何とも……」
途方もない話だと、璃那は重い溜息を吐く。自分が何を思っているのか分からなくなり、ただただ群青色の空を見上げた。間もなく迫ってくる夜が、とてつもなく冷たいものに思えてくる。
「……でも、誰も死ななくてよかったです。何があったのか、知れてよかったです。知らない間に、なんて悲しいですから」
璃那の視線を感じて顔をそちらに向けると、労うような優しい視線が見つめてきていた。穹良を安心させるために投げかけられた、優しい目だ。
彼女が竜の巫女だからなのか。それとも彼女だからなのか。自分を奉られるのが気持ち悪くて対等な立場になろうと、半ば強引に話し相手に命じた。命じた時点で立場の差が生じていたのにも関わらず、彼女は意外と無礼で、まるで叱りつけるような口調で接してくることもある。そんな彼女だからこそ、話していて楽しいと思えたのかも知れない。今日も、話したことで心が軽くなったのかも知れない。言葉数は少なくとも、穹良の心を受け止めるという姿勢が、言葉の端端に現れていた。
「なら、教えてよかった」
璃那が腰を浮かし、体が密着するような距離まで近づいて来る。そして穹良の手を優しく握った。
「私には穹良の苦しみを完全に理解することは出来ません。きっと、その出来事だけで心を痛めている訳ではないのでしょう。でも、聞き役くらいならいくらでもなります。だから、抱え込まないで下さいね」
「なぜわざわざそんなことを言う。私が抱え込むように見えるのか」
「見えるから言ってるんですよ。きっと穹良は思いを伝えるのが下手ですから」
悪戯っぽく微笑む璃那に、穹良は半眼を向ける。
「言ってくれる」
「反論なら、吐かなくていい嘘を吐かないようになってから聞きますので」
やはりこの女は小生意気だ。一度力の差というものを自覚させた方がいいかも知れない。そんな事を想いながら、穹良も璃那の手を優しく握り返した。




