三章35 鈴音の説教
健吾の寝顔を眺めているうちに、時刻は正午を回ろうとしていた。引き籠りの暮月は普段と比べものにならないほど人の目に晒されて疲れたのだろう。健吾のベッドに入り、静かに寝息を立てていた。
無理もない、と思いながら穹良は暮月の頭をゆっくりと撫でる。頭に角が生え、その姿を晒したくないと引き籠るようになった彼女にとっては、たとえ同族だらけの場所とは言え、人目の多い場所に来るのは相当な負荷がかかる。
暮月の休息がより良いものであればいいなと思いながら頭を撫でるが、ふと頭を撫でることが休息の質の向上に繋がるものなのか不安になり、穹良は手を止めた。誰かに頭を撫でてもらった記憶などほとんどなく、僅かに残る記憶からは撫でられることの良さを見いだせない。もしかしたら邪魔をしているのではないかと思い手を離すと、暮月の寝顔が曇った。何か探すようにもぞもぞと体を動かし、不満げに呻るような寝言を立てる。
慌てて頭に手を戻すと、再び落ち着いた寝息に戻り、穹良を安堵させた。好意を抱く相手から撫でられ、温もりを感じると落ち着くというのは一個体の記憶によるものではなく、本能的に感じるものなのかも知れない。その逆もしかり。だから穹良は記憶に残っていない行為をいとも自然に暮月に出来たのだろう。
そんなことを考えているとき、穹良は親しみを覚える竜力を探知して窓の方を振り返って立ち上がった。風に揺れるカーテンが大きく翻るほどの風が吹き込み、思わず顔を背ける。風が止み、顔を再び窓の方へ向けると、レースカーテンに人影が浮かび上がっていた。特徴的な長い二本の角までくっきりと浮かび上がっている。
「足が見えてるぞ、鈴音」
名前を呼ばれた女性がカーテンをたくし上げ、つり目気味の細い目を更に細めて微笑む。
「思ったより元気そうじゃないか、穹良」
大型海竜カイコウセイリュウの一種の精神体である鈴音が流れるように進み出て穹良の傍らに立ち、健吾の寝顔を覗き込んだ。
「こっちも大丈夫そうだね。うん、今はちゃんと流れてる」
健吾の患部にそっと手を触れ、目を閉じて竜力の流れを確かめる。少し前には滞って淀んでいた健吾の竜力が今は澄み、守護者との間で正常に流れている。この調子なら明日には目覚めるだろう。
「とは言っても、結構危なかったかもね。あいつを行かせて正解だった。死に目に間に合えたかは分からないけど」
「……どういうことだ」
鈴音のいう「あいつ」とは誰を指すのか。ここに来た人物が限られる中、鈴音が差し向かわせたと考えられる人物は一人しかいない。
「あんたが思っている通りだよ。裕孝を寄越したのは私さ。あいつも何かは気付いたみたいだけど、健吾が死にかけてたってことにまでは気付いてなかったから、友人として教えてあげたのさ」
「ということは、私が置かれている状況も分かっていたのか?」
非常に強力な竜力を有する鈴音は、日本海溝にいながら自身の竜力を展開して本土にいる穹良の竜力を介して様子を知ることが出来る。もちろん常時監視している訳ではなく、気になった時にふと立ち寄るような感覚で意識を向けると言った調子だ。だがいまの言い草では、昨日の出来事についてもおおよそ把握していたということになる。
「ああ、分かってたよ」
「ならなんで!」
飄々と答える鈴音に、穹良は思わず声を荒げた。荒げた自分の声を聴いて、そこまで大きな声を出したことに驚いた。
「……ねえね?」
穹良の声で目を覚ました暮月が、薄眼を開けて穹良の方を見る。まどろみの中の暮月は鈴音の存在に気付いておらず、ここで目覚められると面倒だと思った穹良は努めて優しい声で「済まない、何でもない」と返した。慈しんで撫でたり相手にするのが億劫だから寝かしつけたりと、随分自分勝手な対応をするものだと思いつつ、今は鈴音を問いただす方に注力する。
「なんで助けてくれなかった? って聞きたいんだろ?」
穹良を試すように薄ら笑いを浮かべた鈴音が、手近な壁に寄りかかりながら問うた。
「……そうだ。状況が分かっていたのなら、なぜ助けてくれなかった。裕孝が友人なら、なぜもっと早く教えてやらなかった?」
鈴音は頭を振り、出来の悪い生徒に教えを垂れる教師のような口調で口を開いた。
「竜は弱肉強食なんだよ。血を分けた子でも時に切り捨てるというのに、なぜ他人の子のことまで気に掛ける必要がある? それに竜は情で動くことが少ないってのは知ってるだろ? 知性も理性もあるが、人間なんかよりよっぽど動物なのさ」
「ならなぜ私のことを気に掛ける? 私は鈴音の子ではないはずだ」
「余裕から来るきまぐれだよ。まあ、あんたの母親に頼まれたってのもあるけどね」
「私の、お母さん?」
穹良は自分の母親の姿を知らない。母親の存在自体を気に掛けたことがなかったので今まで知りたいと思ったことは無かったが、自分が霊竜ではなく半竜であるのなら両親がいるはずだ。その片方のことを知っているというのなら、どんな人物なのか知りたい。だがそれは今じゃない。
「そう。彼女から見守るように頼まれてるからね」
「本当に見守ることしかしないというつもりか」
「まさか。死にそうになったら助けられるようにしてたさ」
「なら昨日助けに来てくれても良かったじゃないか。昨日だけじゃない。十年前だって、私は一人で……」
「助けてって、言ったかい?」
言われて、穹良は衝撃を受けたかのように固まった。十年前、兵力として扱われていた時には、助けを求めて泣き叫んだ時もあった。苦痛から逃れようと、泣きじゃくったこともあった。でも助は来なかった。優しく手を差し伸べてくれる人もいなかった。同じ時期に拉致されてきた他の子どもの中には、助けを乞いた結果殺された者もいた。だから助けを求めるのをやめた。そうすることで死の恐怖から少しでも身を遠ざけることしか出来なかった。
「……言った。呼んだ。何度も。でも来てくれなかった」
泣きそうな顔をする穹良の目を鈴音は真っ直ぐ見返す。穹良の母親から穹良を託されたのは、丁度、児童養護施設の襲撃事件が起こったころだ。五歳になったばかりの、半竜としての特性を発現するかどうかも怪しい年ごろの穹良の行方を追うのは、普段は海中にいる鈴音には困難であった。
「そうか。それは、悪かった。所有者とはいえ、竜力が微弱で探しきれていなかったのは、謝ろう。苦痛から解放してやれなかったのは済まないと思っている。だが穹良、十年前の記憶に囚われて可能性を捨てたのは、あんただよ」
「呼んだら、今回は来たというのか?」
「正直に言えば、分からない。私だって、リアルタイムに状況を眺めていた訳じゃない。それにあんたの竜力からは死の恐怖を感じなかった」
「……期待して、裏切られるのは御免だ。だったら最初から期待しない方がずっといい」
「その結果が、これじゃないのか?」
鈴音の視線が、眠る健吾の横顔を指す。穹良も健吾の寝顔に視線を落とした。そして目を覚ましていた暮月と目が合った。気まずさから黙って目を逸らしたが、暮月は何も言わなかった。
「確かに人間はすぐに裏切るかも知れない。寿命が短い分、目先の利益に飛びつきやすい。だから人間を信用するのは、難しいかもしれない。私もこんな性格だ。言うだけ無駄だと思う気持ちも分かる。あんたのことだから、健吾に助けを求めることもせず、一人で行こうとしたんじゃないか? でもあんたを守ろうとしたこいつは人間でも私でもない。とっさの行動に打算なんてないと思うけど? 私のことが信じられないなら信じなくてもいいけど、二度もあんたを救おうとしたこいつのことは少しは信じてみてもいいんじゃないのかい?」
沈黙で返答する穹良のもとへ歩みより、頭に手を置く。温もりが伝わり、穹良の心を温める。これが撫でられる効果かと実感した。
「助けを呼びな。周りを頼りな。あんたは半分は人間なんだから。過去を悔いているなら、可能性を捨てちゃだめだよ」
「……すぐには、無理だ」
かすれた穹良の声には、諦めに似たものが混じって聞こえた。無理もない。きっと彼女には、他人を信用して報われたためしが無いのだ。状況的に彼女の望み通りの結果となっていたとしても、それを自覚しなければ記憶の上書きはされない。加えて記憶の蓄積が重要で、ある程度まで蓄積される前に裏切られれば逆に更に深いトラウマとなることもある。
それでも、人を信じる気持ちを持ってほしいと鈴音が願った。彼女が半竜であり、人間社会で家族との失われた時間を取り戻すと決めたのなら、人付き合いは避けて通れない。
「ゆっくりで大丈夫さ。時間はたくさんあるんだから」
小さく、しかし確かに穹良が頷いたのを確認して、鈴音は別れを告げた。これ以上この場に留まっていれば他の人の目に留まりかねない。実体を解いて竜力になれば穹良と会話を続けることも出来るが、彼女にはクールダウンする時間が必要だ。
鈴音が去った病室で、穹良が静かに椅子に座る。
「ねえね?」
心配そうな声を出す暮月に黙って手を差し出し、彼女の体を引き寄せる。そのまま誘導すると、暮月は少し戸惑いながらも穹良の膝の上に座った。彼女のお腹に両腕を回し、穹良は暮月をしっかりと抱き締める。そして彼女の背中に目元を押し当てた。
「ねえね、どうしたん?」
「少しだけでいい、こうさせてくれ」
暮月が頷いたのが、振動を通じて分かった。わがままを許してくれることに感謝しながら、そして彼女の服を涙で濡らすことを謝りながら、穹良はしばらく暮月を抱き締めた。




