三章33 友達だということ
普通の生活を送るということがどれだけ難しいことか、先週までと全く異なる心持で登校したかがみは教室に向けて廊下を歩きながら考えていた。
少し前のかがみは周囲との関わりを断つことで心の平静を保ってきた。だが葵と知り合ったことで凍り付いていた心が解け、どこか浮足立っていた。自分が半竜だと分かったうえで友人として接してくれるのが嬉しくて、その心地よさに浮かれていた。そう思わせてくれた相手を危険にさらし、助けに来てくれた健吾は意識不明。浮ついた心を叩き落されるくらいなら、何も感じない方がマシとすら思える。
そんな思考に囚われていると、周囲の音が聞こえなくなっていることに気付いた。音としては聞こえているが、内容が頭に入って来ない。まるでエコーが掛かったように、意味を持たないただの音として耳に入ってきては抜けて行く。この感覚は、葵に正体がバレた時以来だ。
「かがみ!」
かがみの心を搔き乱し、いつの間にか均してくれた人物が呼ぶ声がする。かがみはゆっくりと振り返り、心配そうな顔を向ける葵の瞳を捉えた。
「……葵」
「ちょっと、屋上行こ?」
彼女に対する後ろめたさが湧き上がってくるのを禁じ得ないかがみは返答に戸惑ったが、強引に手を掴まれて連行された。「ちょっと」と抗議の声を上げても無視して引っ張っていく葵に、かがみは黙って連行された。
ホームルーム前に屋上にかがみと葵以外の姿はなく、密談するには格好の場所となっていた。晴れ渡った空には小さな綿雲が浮かび、夜風の残り香と湿気を含んだ風が心地よい。そんな快適な天候と、曇天が広がる自身の胸中とを比較して、かがみは恨めしそうに太陽を睨みつけた。
「昨日は、大変だったね」
どこか呑気なニュアンスを含めながら、葵はぽつりと呟いた。
「でも、かがみが無事で、よかったよ」
返事をしないでいると、葵が言葉を続ける。それでも黙っていると、沈黙が訪れた。
今のかがみには、葵に返せる言葉がなかった。何と返せばいいのか、分からなかった。これまでにもっと人生経験を積んでおけば上手い返答を出来たのかも知れないが、つい先日まで自分の殻に閉じこもっていたかがみには、それは難しくて出来なかった。
だからせめて、沈黙を返した。葵の意見を否定せず、ただ受け入れ、肯定の意思を返す。それ以外に、かがみが示せるものはない。
「昨日、お姉さんに言われたんだ。かがみと友達でいるのをやめてもいいよって。もしかしたら、また私が危ない目に遭うかも知れないからって。私は、かがみと友達でいるのをやめたいとは思わない。かがみは? 私が近くにいない方がいい?」
なぜ葵が自分にこだわるのか、かがみには分からなかった。友達という不安定で不確かな概念のために、自身の身に降りかかるリスクを飲み込むと、なぜ断言できるのか分からなかった。そもそも葵は純血の人間であり、自衛能力は皆無のはずだ。ならリスクを可能な限り遠ざけ、身の安全を保障しようと思わないのだろうか。君子危うきに近寄らずとは、人間の作り出したことわざだったはずだ。
第一、友達とは、やめるやめないで関係性が変わるようなものなのだろうか。長らく友達を持たずに生活してきたかがみには、明確な答えを得にくい議題だ。そもそも、葵と自分は友達だと言っていいのかすらわからない。互いの心の中に基準がある呼称をすり合わせることに、何の意味があろうか。だが、共に過ごしていて不快ではなく、心が安らぐ存在だということは間違いない。だから。
「私に興味を持ったのは、葵でしょ。だから、友達でいたいかどうかは、葵が決めて。あたしにはきっと、その権利はない。でも、もしそう望むなら、二度と葵に怖い思いはさせない。私が全力で守る」
口にしてから、相当恥ずかしい台詞を吐いたことに気付き、かがみはそっぽを向いた。だが葵は嬉しそうに微笑み、「ありがと」と口にした。そのどこか恥ずかしそうな表情に、かがみも体が熱くなるのを感じる。妙な気分だが、悪い気はしなかった。
「……なんで、あたしにそんなにこだわるのさ」
「なんでだろうね? 私にも分かんないけど、かがみもそうじゃない?」
こだわっていないと言おうとしたが、果たしてそうだろうかと自問する。確かに葵と過ごす時間は心穏やかだし、隣に立つのが彩矢や藻玉なら、また違った感情を抱くのだろう。ならば、葵の言う通りなのかも知れない。
「そうかもね」
一陣の風が吹き抜け、風に乗って間延びした予鈴が響き渡る。いずれ彩矢や藻玉にも話さなきゃと思いつつ、かがみはもう一度太陽を軽く睨みつけてから、葵と校舎に戻っていった。
健吾の病室に来ていた穹良と暮月は、見舞いに来た陸上自衛隊新琵琶駐屯地司令、佐藤影美一佐の対応をしていた。
「君が噂の暮月ちゃんか。はじめまして」
裕孝に負けず劣らずの巨躯を誇る初老の男性に怯えた暮月が、握手を求めて差し出された佐藤一佐の右手から逃げるように穹良の背中に隠れる。小柄な少女に露骨に避けられて、佐藤は救いを求めるような目を穹良に向けるが、無残にも無視された。
「年齢差一五〇歳のおっさんに握手求められても、困るだけに決まってるだろ」
「外観だけなら五〇歳のおっさんだぞ?」
「何の解決にもなってない」
くだらないやり取りを交わす二人を交互に見て、暮月は不思議そうな顔をする。そして穹良の服の裾を引っ張り、意識をこちらに向けさせた。
「知り合いなん?」
「まあな。色々世話になってる人だ。健吾の母親の知り合いでもある」
「そうなんな。失礼をお詫びするん」
佐藤に向けてペコリと頭を下げる暮月に、佐藤は目を細めてから、声のトーンを落とした。
「すまなかったな、お義兄さんを守り切れなくて」
頭を下げる大男の頭頂部を眺めながら、暮月はわずかな沈黙ののちに口を開いた。
「謝罪なら、にいにから受け取るん。にいにが早く元気になるよう、よろしくお願いするん」
「もちろんだ。彼が早く回復できるよう、全力を尽くさせていただくよ」
佐藤の言葉に、暮月は「よろしい」とでも言うかのように頷く。佐藤は、十倍近く年の離れた少女の頭をポンポンと撫でてから、穹良に顔を向けた。
「さて安曇野さん、例の連中の話だ。結論から言うと、国内に潜伏していたメンバーは全て確保した。とりあえず、今回の件は一区切りついたとみていいだろう」
佐藤の話によれば、四月に警察と自衛隊の包囲網から逃れたサントソ、ルディ、ディオの三人は、山間部や高層建築物の屋上、湖畔の廃墟群などの人目に付かない場所を転々としていたという。本部であるスラバヤ連合に連絡を取り、戦力を集めて穹良の家族を襲い、人質することで穹良の力を手にしようとしたが、失敗したという訳だ。一方の追加戦力として密入国した三人の構成員は、四月に確保されてしまった構成員の救出のために来日したが救出対象は獄中で既に死亡しており、弔い合戦の名目で協力させられたと言っていたという。だが、先に確保された構成員は存命であり、三人はサントソに騙されていたのだ。
「よく吐きましたね」
「計画が失敗して、ヤケになったってところだろうな。憔悴していて、やけに素直だった。話したところで自衛隊である俺たちは本拠地に攻め込めないから、仲間を売ったことにはならないと踏んだのかもな」
「油断させて裏をかく作戦かも知れません。裏が取れるまで安心できないのでは? 健吾もこんな状態ですし」
「それはもちろんだが、二度も失敗したんだ。今回追加された戦力がたったの三人だったことや、武装が携行火器だったことを考えると、所有者クラスの半竜に仕掛けることは容易じゃない。しかも警戒レベルは上がった状態なんだ。自爆テロする気で来なきゃ、まず無理だ」
四月の一件以降、竜宮市内は私服の自衛官が巡回するようになっている。守護者の力を奪取することが目的であれば隠密行動する必要があるが、それは困難になった。となれば、少しは安心していいのかも知れない。
「ま、尋問は続ける。新しい情報が分かったら、伝えるよ」
佐藤はひらひらと手を振り、仕事に戻っていった。
「ねえね、もう狙われなくて済むん?」
「少なくとも、今は、な」
釈然としない表情を浮かべながら、穹良は健吾のベッドの端に座る。脅威が去って安心できるのかと思いきや、暗澹たる気持ちに支配されて眉間に皴を寄せた。
守護者を狙うなら所有者の命は保証しなければならず、かつ所有者に警戒心を抱かないように行動しなければならない。しかし、所有者の命を狙うのであれば話は別だ。国内に少数しか存在しない零式歩行戦機を一機でも排除すれば、自衛隊の戦力は大幅に低下する。国防力の低下や自衛隊内の混乱を目的とするなら、所有者を狙撃でもして暗殺すればいい。居住地や行動範囲が割れているなら、それくらいのことは比較的容易に出来るはずだ。
隣に座った暮月の体温を感じながら、穹良は溜息を吐く。一体この日本の中に、今すぐにでも殺されるかも知れないと思いながら生活している人が何人いるのだろうか。なんでこんなことを考えなければならないのかと考えていると、病室のドアが開いて小柄な人影が入ってきた。
「暗殺なら、心配しなくていいと思うよ」
銀髪翠眼の機械少女が、穹良の目の前ではっきりとそう告げた。




