三章32 自分との対話
翌朝、穹良は健吾の家に行き、登校するかがみの身支度の手伝いをし、送り出した。一人で歩いて行くかがみのいつもより小さい背中が見えなくなるまで待ってから家に入り、暮月の食事の準備をしながら璃那に学校を休む旨のメッセージを送る。間髪をおかず「風邪ですか? 大丈夫ですか?」と返ってきたが、当たり障りのない返事をしたら分かってくれたようで、すぐに会話は終了した。物分りの良さに感謝しつつ、テレビの電源を入れる。
ニュースでは、走行中の車を銃撃して交差点で事故を起こさせたとして外国籍の男が逮捕された事件については報道されたが、その裏で起きた誘拐事件と、その後の廃墟群における人質救出劇については一切触れられなかった。
今の日本は半竜の存在を目立たせず、社会に溶け込ませることで半竜の不満を封じ込め、彼らの持つ高い技術力と資源を享受している。かがみが恐ろしい目に遭い、健吾が死にかけるような事件に巻き込まれても一切報じられないのは、半竜全体の繁栄と国益のためだ。
全体の利益のために苦難は受け入れる必要があるのかもしれない。かがみや暮月が不自由なく暮らすためには、多少の我慢は必要だと理解しているつもりだ。だが、多少とは、どの程度を指すのか。健吾が片腕を失うほどの怪我も、「多少」に含まれるというのか。かがみや暮月の慕う義兄が傷つき、彼女らが悲しむのが「多少」だというのか。
テレビを消し、暮月の部屋に赴く。彼女の寝顔を眺めればさざ波立つ心が少しは穏やかになる気がした。
「私が純粋な人間だったら、こんなこと考えなくて済んだのか?」
まだ夢の中にいる暮月の頭をゆっくり撫でながら、ふとそんなことを口にしてみる。悩みは尽きないだろうが、きっと武装集団から狙われるという悩みは生じないはずだ。
「……ねえねは、人間になりたいん?」
暮月の声に驚いて、穹良はビクリと手を止める。止めた手を恐る恐るどけると、眠そうでありつつ真剣な暮月の眼差しと目が合った。
「……いや。それに、叶わない望みを抱くのはとうの昔にやめた」
「でも、本音に聞こえたんよ」
そこまで聞き取られていたのかと、バツが悪くなって視線を逸らす。確かに叶わない夢は抱かないが、叶う可能性があるならそれを捨てたくはない。そんな願望まで漏れ出てしまっていたらしい。
半竜である穹良は、人間になることは出来ない。体内を流れる血の半分は竜のものであるし、骨格や内臓の機能も人間のものと酷似していながら異なっている。種族が異なるため、人間になることは不可能だ。だが、健吾が負傷したのを見て、限りなく人間に近い状態になることは可能だということが分かった。もう一人の自分である守護者の存在を否定し続け、力を使わなければいいのだ。
だが、それでは自分たちを狙うものから身を守れない。人間と同じような平穏な生活を手に出来るのは、少なくとも今ではないのだ。だから、今は力を手放すわけにはいかない。
「かも、知れないな。私はこれから健吾のお見舞いに行ってくる。簡単な飯を準備しておいたから、それを食べていてくれ」
立ち上がり、部屋を出ようとする穹良の背中に、暮月の「待って」という声が掛かる。振り返ると、ベッドの上で体を起こし、正座をした暮月が真っ直ぐな瞳を向けてきていた。
「うちも行くん」
彼女の頭から生える二本の小さな角に目をやり、それから瞳を見返す。昨日の緊急の呼び出しに応じただけだと思っていたが、認識違いだったようだ。
「分かった。一緒に行こう」
嬉しそうに頷く暮月の笑顔で心を落ち着けつつ、穹良は一足先に彼女の部屋を後にした。
「ここは、どこだ?」
恐る恐る薄目を開けた健吾は、自分の置かれた異様な空間に驚いた。見渡す限りの漆黒の空間に、一人で立っていたのだ。
いや、もしかしたら寝ているのかも知れない。もしかしたら逆さになっているのかも知れない。上下左右の感覚がなく、平衡感覚が機能しない暗闇で分かっているのは、この場には自分しか存在しないということだけだ。
「俺は確か、穹良を守ろうとして……」
記憶にある最後の光景は、血に濡れた形相の奥で不気味にギラつくデブの狂気に満ちた双眸と、穹良を吹き飛ばさんとする散弾銃の銃口だ。再起したデブの銃撃から穹良を守ろうとして、竜力防壁を展開するのも忘れて生身を差し出した結果、銃撃に倒れたのだ。
ということは、死んだのだろうかと周囲を見回す。天国にしては華やかさの欠片もないし、地獄にしては楽過ぎる。もっとも、この孤独がずっと続くというのであれば、それは地獄に違いないが。
参ったなと思い、頭を掻こうとして掻けないことに気付き、健吾は自分の右手を見た。そして初めて自分の姿を知った。右腕が肩の付け根部分から無くなっており、代わりに黒い靄のようなものが掛かっている。他に異常はないが、全身に着衣はなく、素肌を晒している。どうやらあの世に行くときには、全裸になる必要があるらしい。それにしても。
「真っ暗闇で自分の姿は見えるってのは、どういう了見だ?」
『ツッコむところはそこじゃないだろ』
背後から響いた自分の声に驚いて振り返ると、そこには健吾そっくりの人物が佇んでいた。外観こそは健吾と瓜二つだが、健吾よりもややつり目で悪役のようにも見える。加えて、全裸である。
「……気持ち悪いな」
『自分に向けて酷いことを言うやつだな』
心外だ、というような顔をするもう一人の健吾からは、濃密な竜力を感じる。もしかしてこいつが、と察した時、健吾の思考を読んだようにもう一人の健吾がニヤリと口元を歪めた。
『察しの悪さに呆れるところだったぞ』
言うなり、もう一人の健吾の姿は黒い靄となって解け、漆黒の空間の至る所から流れてきた幾条もの竜力の流れが集まり、健吾の目の前に零式歩行戦機<トラク>の頭部が構成される。
そうして初めて、健吾はこの光景を見るのが初めてないことを思い出した。最初に見たのは小学生の時、いじめに遭ったかがみを守りたいと強く願った時だ。気付いたときには真っ暗な空間に放り込まれ、目の前に巨大な凹凸の無い顔が現れた。その時は「力が欲しいか」的なことを尋ねられたが、唐突で意味不明な出来事に困惑し、恐怖したために自分から逃げた。あの時が、健吾の守護者が誕生した瞬間だったのだ。当時は恐怖心に思考を支配されていたので、その時住んでいた東京郊外で守護者が顕現してしまい、陸上自衛隊によって回収されたことは記憶に残っていなかったのだ。
そしてこれが二度目だ。長らく忘れ去っていた、否、忘れようとしても忘れきれなかったもう一人の自分である守護者<トラク>と、こうして向き合っている。
『お前に死なれては困るから、一時的に体を治してやったが、もしまた俺を忘れるようなら、失った右腕は永遠に俺がもらい受ける』
「いや、忘れない。俺はお前がいなきゃ、守りたいものを守れないってことが、よく分かった。もう、無視できない。もし俺がお前の力を使うことで穹良や皆に迷惑を掛けるようなら考え直すかも知れないが、今は、お前が必要だ」
『随分都合のいい話だ。必要なら使って、要らなきゃ捨てる。俺は道具じゃないんだぞ?』
巨大な<トラク>の頭部が、健吾に迫る。強固な装甲に覆われた、細い隙間から覗くメインカメラのカバーに健吾の姿が映った。姿形は違っても、目の前にいるのは自分だ。格納庫で対面した時には実感を伴わなかったが、この空間で対峙した時にははっきりとそう思える。力と本能の塊として切り離されただけの自分なのだ、と。
「分かってる。お前は道具じゃない。でも、誰だってそうだろ。自分をすべて出さず、どこか隠して人と付き合う。そうしなきゃ、誰かとぶつかるばかりだ。そうしたくないと思える相手に出会えたから、自分の一部分を封印してもいいと思えるんだ。俺の場合、その部分がお前だった、ってだけだ」
『俺たちは半竜だ。半分は竜。己の力を誇示し、他者を遠ざけることで無用な争いを避け、長い時を生きる。力があるなら示せばいい。お前にはそれが出来る。矮小なものに気遣う必要が、どこにある?』
「確かに、半分は竜だ。でも、半分は人間だ。俺たちがこの姿になったのは、人と一緒に暮らすためなんだろ? なら、俺は人と一緒に暮らしたい。人の友達だっているし、長いこと人間のつもりで生きてきたし。それに、人として暮らしてなかったら、あいつとも再会してなかったかも知れない。だから、俺はとりあえずしばらく人として生きるよ」
『寿命の短い人間は生き急ぐ。目先の利益に目を眩ませ、友と信じるお前を裏切るかも知れない。半竜だと、社会に売るかも知れない。それでもいいのか』
確かに、と健吾は中学時代を思い出す。健吾に思いを寄せていた雪灘は、人間としての健吾に好意を抱いていたのであって、半竜としての健吾に対して、ではなかった。だが健吾が半竜であることを知った今でも友達として接してくれてる。璃那も、竜の巫女であるとは言え、交流を持つ必要性はないのに、穹良と笑い合い、自分とも他愛ない会話を交わす。そんな彼女たちが裏切るとしても、健吾は許せる自信があった。
そもそも、自分の心を守るために、周囲の人たちを心底信用している訳ではない。裏切られたとしても傷つかないように、斜に構えている自分がいる。他者に期待しないというマインドが小学校時代に出来上がってしまったために、残念ながら裏切りに対する耐性は獲得済みだ。
「いい。その時はその時で考える。裏切られたとしても、俺は人として生きたいんだ」
しばしの沈黙が訪れ、やがて<トラク>がスッと引き下がる。
『その覚悟、本物みたいだな。なに、俺が何を言おうと、主導権はお前にあるんだ。俺は従うだけだ。だが、お前の腕はすぐには返せない。数年間放って置かれた弊害は、どうにか出来るものじゃない』
「弊害って何があるんだ。返してはくれるんだろ?」
『もうじき返す。形は、な』
空間に溶けるように影が薄れ始めた<トラク>が、意味深な言葉を返す。健吾は引っかかる疑問を、<トラク>が消えてしまう前に解消しようと焦りをにじませながら言葉を吐きだす。
「形はってどういうことだ。再生能力は地竜の取柄なんだろ?」
『言ったろ。空白期間が長すぎたんだ。おしゃべりは終わりだ。起き上がれないお前が襲われたときに守れるように、俺の身体を修復しないとな』
「いやだったら俺の身体を先に治せよ!」
健吾渾身の、切実なツッコミが炸裂する寸前に<トラク>は竜力の粒子となって消え去っていた。健吾の声は虚空に消え、同時に意識も空間に沈んで消えた。
朝日を浴びる病室のドアが開き、穹良と暮月が見舞いに訪れる。健吾の意識はまだ戻っておらず、腕の再生もまだ為されていなかった。




