三章30 昔話
医師が去った病室を、重苦しい静寂が支配する。心電図のモニターが発する規則的な音も静寂の中に飲み込まれ、無に帰す。三人はしばらくの間言葉を発さなかったが、やがて健吾の左手を握っていた暮月が立ち上がった。ベッドの反対側に回り込み、彼に掛かっているシーツをおもむろに上げる。
あるはずのものが無いということへの衝撃が、暮月の視界から侵入して脳内に広がる。思考を侵食する衝撃の伝播を少しでも抑え込もうとシーツを下ろしたが、それは無駄な足掻きであった。胸元まで大きく抉れた上半身を包む包帯の血のにじみが、目に焼き付いて離れない。かがみを助けに家を出た時と大きく変わってしまった無残な姿に、しかし暮月は思いのほか冷静であった。
「にいにの腕、本当に無くなっちゃったんな……」
「でもちゃんと生きてる。すごいね、あたしたちのお義兄ちゃん。まだあたしたちの面倒見なくちゃいけないもんね」
暮月の隣に寄り添い、かがみは健吾の髪を撫でる。普段は恥ずかしくて出来ないことが、いとも簡単に出来た。もしかしたら、これが最後かもと不安に思っているのかも知れない。当然だ。普通の人間なら、とっくに死んでいるのだから。
「お義兄ちゃん……」
唇が青い健吾の頬にそっと手を当て、温かさを確かめる。この温かさが薄れてしまわないように、かがみは四枚の羽を展開した。透明感と光沢のある青い四枚の、トンボの翅にも似た形状の羽が羽化するように伸び、蛍が飛び立つように緑色の粒子を放出する。
かがみに合わせて、穹良も赤い羽を展開。さらに赤い羽を上書きするように、白鳥のそれに似た巨大な羽を四枚展開する。羽毛の隙間からかがみのものの非にならない量の竜力を放出させ、さらに竜力で構成された羽根を舞わせる。病室は見た者を落ち着かせる淡い緑色の光に包まれ、幻想的ともとれる光景に暮月は小さく感嘆符を漏らした。
「……ねえ、穹良。さっきの話、あたし半分も分かんなかった。ずっと一緒に暮らしてきたのに、あたしは健吾のことも、もしかしたら自分のこともよく知らない。でも、穹良はあたしたちよりは知ってるんでしょ。教えてよ、あたしたちのこと」
かがみに視線を向けられた穹良は一度目を伏せて、それから天井を見上げた。何と言葉を発そうか思案し、ぼそりと呟く。
「知らないことが多いということは、それだけ健吾の思惑通りだった、ということなんだろうな」
「どういうことよ」
「情報を与えないことで、人間と同じだと思い込ませる。ある種の洗脳だ。褒められたやり方ではないが、二人を守るために取った手段だろう。かがみ、お前も心当たりがあるんじゃないか。口をつぐみ、余計な情報が漏れないようにする。健吾は同じことをしたんだ」
言われてかがみは、普段の学校での自分の姿を思い出す。つい最近友達と呼べるような間柄の人と出会えたものの、それまでは自分に興味を持たれるのを避けるため、人間関係を避け、一人で過ごしてきた。万が一、自分が半竜であることを口にしてしまうリスクと比べれば、一人でいる寂しさなど我慢できた。
健吾も、自分がきっかけとなってかがみがいじめられた過去を悔い続け、以降友人を作っていなかった。情報を閉ざすことで、正体を露呈するリスクを下げたのだ。自分たちを守るためだと頭で理解できても、健吾に信じてもらえていなかったのでは、という疑念が胸中にくすぶる。
「あたしたちにくらい、教えてくれても良かったじゃん」
恨み言を口にしてみても、健吾の目は覚めない。かがみは健吾の胸の上に手を置き、心臓の鼓動を感じ取る。馬鹿な義兄だと、微かな笑みがこぼれた。
「そうしないのが、こいつなりの優しさなんだろう」
穹良も健吾の顔を眺めてから、窓の外に目を向ける。雨はもう止んだらしい。
「少し、昔話をしよう。この場にいる全員が巻き込まれたあの事件の後の話だ」
穹良の言葉に、かがみと暮月が静かに息を呑む。大津児童養護施設襲撃事件。十年前に国外の武装集団が児童養護施設を襲撃し、職員を射殺。施設に入っていた児童十数人が誘拐された事件だ。被害者の多くが現在も行方不明であるが、事件の実行犯が国外の武装集団に所属する半竜だったことや、施設の性格上、真相は闇に葬られた事件だ。穹良はその事件の被害者である。
「そもそもあの施設は、ただの児童養護施設じゃなかった。半竜の子どもを人間の子どもと共同生活させた時、お互いにどんな影響が生じるのかを観察するための実験施設としての側面も持っていた。竜族の研究をしていた健吾の母親も絡んでいたと聞いている。健吾がいたのも、こいつ自身も観察対象だったからだ。そしてあの施設が襲撃されたのは、身元不明の半竜の子どもを国外で兵器にするためだ。街中で誘拐するより当たりを引く可能性がずっと高いからな」
「兵器にって、どういうこと?」
「どうして外国の人が、国内から攫うん?」
かがみと暮月の真っ当な疑問が、穹良に向けられる。穹良は二人の目をそれぞれ見てから、口を再び開いた。
「守護者のことは知ってるだろ」
「さっきお医者さんと話してたんな」
「この体に収まりきらない竜力を溜めるもう一つの器、でしょ」
そうだ、と頷く。
「守護者は体のサイズを限定された半竜が力を発揮するために生み出した知恵だ。そして守護者は、人間に心理的な影響を与えるために、人型をしてる。適度に恐怖心を与えることは、無用な争いを防ぐからだ。だが、それでも戦いを挑んでくる時もある。実際、人間は擬似竜力を手にして歩行戦機を作ったり空中艦を作ったりして中級程度の竜なら狩れるようになった。だから守護者は歩行戦機に似た姿をしている。擬態効果と、人間のために戦うことを目的としているらしい。私と健吾の守護者も、自衛隊所属機ということになっている」
穹良の話を聞いていて、かがみは前に健吾の母幸子から聞いた話を思い出した。その昔の人間は竜の縄張りを居住範囲としていたと。縄張りの主に供物を捧げる代わりに、他の竜の脅威から守てもらっていたのだ。半竜も、人間の役に立つことで立場を守っている。上級種の竜ほどでなくとも十分強大な力を持つ守護者もまた、有用性を示す必要があるのだ。そうしなくては、半分は人間である半端者の半竜など、数で圧倒的に勝る人間に踏みつぶされてしまう。
「にいにも守護者持ってたんな。知らなかったん」
「私も、いつ健吾が守護者を持ったのかは知らない。私が持ったのは、あの事件に巻き込まれた時だ。誘拐された恐怖心が生存本能を刺激して、守護者が生まれた。あいつらの目的は、半竜の子供たちを極限状態に陥れて守護者を生み出し、所有者を恐怖で支配して兵器として運用することだった。そして竜脈にすっぽり覆われた日本の半竜は能力が高く、所有者になる確率が高かった。あの施設が狙われた理由は、そんなところだろう。あとから聞いた話だが、私は東南アジアに連れて行かれたらしい。あいつらの思惑通り所有者となり、言いなりになって戦わされた。何人殺したか、もう覚えていない。怖かった。嫌だった。でも私の、仲間から天使と、敵からは真紅の堕天使と呼ばれた守護者のお陰で、私が死の恐怖で怯えることは無かった。だからかも知れないし、そう思う余裕がなかったからかも知れないが、逃げたいとか、帰りたいとは思わなかった。あの状況に甘んじ、自分が楽を出来る選択肢を選んで、何人も殺した」
淡々と語っていた穹良の声音が震え、怒気を孕む。両手に視線を落とすと、真っ赤な血が滴っている幻覚を見た。熱帯雨林で殺したパイロットの、「化け物が!」と叫ぶ血に濡れた獣のような形相が脳裏に蘇る。あの時も、<ルシフェル>に乗っていたのだから逃げてしまえばよかった。それを出来るだけの能力があったにも関わらず、穹良は戦闘を続け、仲間を見殺しにし、その責任として生身のパイロットを射殺した上に、拷問された。全て、自分が選択を誤ったことに起因する自業自得だ。変えようのない過去に「もしも」を求めて、ただ後悔する。
椅子から立ち上がり、穹良はベッドの左側に回り込む。健吾の手に触れると、幾分か気持ちが落ち着いた。
「どのくらいの期間あの地にいたのか、よく覚えていない。ある日、私の守護者が消えて騒ぎになった。私は責め立てられたが、私にも何が起こっているのか分からなかった。しばらくして、私の守護者に乗って健吾がやってきた。私を助けに、私の力を使って。所有者と守護者の関係は時に、魂と肉体に例えられる。健吾という半竜の魂が私を探し続け、自由のみであった私の肉体を呼び寄せ、運んできたんだろう。あの時は、本当にうれしかった。光が差した気分だった。私は健吾とともに追っ手を振り切り、逃げ出した。あの時から私の守護者の名前は<ルシフェル>になった。国内に戻ってきたあと、私と<ルシフェル>は自衛隊に確保された。<ルシフェル>は封印、私は政府の監視下で十年間監禁。そうなることは何となく分かっていたから、健吾だけ先に下ろした。森の中に下ろしてしまったことは申し分なく思っているけど、目立たないようにする為には仕方なかった」
「十年間って、まさか」
事件があったのは十年前。かがみと暮月は三歳だった。穹良のことを写真でしか覚えていなくても何も不思議ではない年齢だ。これまで姿を現さなかった理由が政府の監視下に置かれていたから、という予想だにしなかった理由に、かがみは絶句する。
「監禁が解けたのは、今年の三月だ。どこで監禁されていたのかは私も知らない。だがこの街で暮らすことになるのは分かっていた。新琵琶駐屯地には私の守護者が封印されていたし、万が一の際には自衛隊が対処しやすいからな。まさか、隣の部屋にお前たちが住んでいるとは夢にも思わなかったさ。探すつもりでいたから、すぐに再会できてうれしかったよ」
そんな理由があるとは知らず、穹良に捨てられたと勘違いして彼女を拒み、再会を台無しにしたことをかがみは悔やむ。奥歯をきつく噛みしめ、俯いたかがみが呟くように謝罪の言葉を口にした。
「……ごめん、あたし、何も知らないでひどいこと言った」
「何も知らないのは、仕方のないことだ。私も、自分の招いた結果を人に話したくなかった。それに正直、十年前にはお前のことも忘れかけていた。姉妹として認識する機会も希薄だったしな。両親を知らず、最初の記憶は施設に入ってから。お前と私が接した期間は、今までの人生の中でたったの三年だけだ。仕方ない」
穹良は健吾の前髪をどかし、額を撫でる。早く起きろと無理な願いを抱き、その思いを込めて二回軽く小突いた。
「まさか移送中の<ルシフェル>が白昼堂々狙われるとは思っていなかった。十年前に世話になった連中は、よほど私を憎んでいるらしい。今回の事件も全く予期していなかった訳ではなく、対策も講じていた。だが結果的に防げず、巻き込んでしまった。本当に申し訳ない」
頭を下げる穹良に、かがみは沈黙を返す。自分が巻き込まれた理由は分かった。穹良と離れ離れになっていた理由も分かった。だが、真実を知ってどうすればいいのか、分からなかった。
「知ったからって、何かが変わる訳じゃ、ないんだね」
「ちゃんと変わったんよ。うちはもやもやがすっきりしたん。かがみんもそうじゃないん?」
「そう、ね。そうかも知れない。でも健吾も健吾じゃん。穹良のこと教えてくれていたら、あたしもちょっとは違ったのかも知れないのに」
恨みがましい目を健吾に向ける。当然、反応はない。それがとてつもなく虚しかった。
「健吾も、なんて話せばいいのか分からなかったのかも知れない。私が生きている保証もなかったし、再会できる保証もない。だったら、いっそ私を忘れて生活していた方が幸せかも知れない、とかな。なんにせよ、早く起きてもらって、今度はこいつから話を聞く必要がある」
「んな。にいに、早く起きるんよ」
夜は静かに更けてゆく。病室に静寂が戻り、健吾の静かな呼吸音が耳を打った。どこか落ち着いたように見える健吾の寝顔に、三人の少女は視線を交わらせ、愁いを帯びた笑みを零した。早く目を覚ませと言う無理難題な思いが竜力に乗り、病室を満たす。時計の針は、午前一時半を指そうとしていた。




