三章29 戻らない腕
葵を自宅に送り届けた穹良が自衛隊病院に戻ってきた時には、午後十時を過ぎていた。手術室の赤い光はまだ灯り続け、手術室前の廊下に設置されたベンチにはかがみと暮月が、疲労感を漂わせながら寄り添うように腰かけていた。手術が開始されて既に二時間が経過している。今回の事件の被害者であるかがみはもちろんのこと、引き籠り生活の暮月が疲労困憊になるのは無理もない話だ。
「あ、ねえねお帰り」
戻ってきた穹良に気付いた暮月が、顔を上げる。つられてかがみも虚ろな顔を上げた。その顔を見て、病院の外に出ていた時には逃避できていた現実を突きつけられた気分になった。
ひょっとしたら、夢を見てるのではと思っていた自分がいた。葵を送りどけた帰り道は静かで、いつもと変わらない夜が広がっていた。街の明かりが星のように煌めき、一日を終え行く人々が明日に備えるためにそれぞれの道を行く。血と泥で汚れたままの穹良に声を掛ける人など一人もいない、いつも通りの夜だ。
だから、今日起こったこともすべて夢で、醒めれば日常が戻ってきていて、明日はテストを終わらせて早く下校して、璃那や雪灘と帰りにどこかに寄り道するかも知れない。何故かはわからないが、そんな風に思えている自分がいた。
だが目の前にいるのは、穹良が招き入れた結果によって、自分が望むような日常から切り離されてしまった二人だ。そしてその奥、赤い電光板が守護する扉の向こうで、健吾は孤独な戦いを強いられている。
「……疲れただろう。私が残るから、二人は帰っていいぞ」
こんな時間に二人だけで帰すのか、という思いはあった。一方で、自分が二人のことを見ていたくないという思いもあった。自分の卑怯さを押し殺して口にした言葉をあっさりを跳ね返したのは、かがみだった。
「さっきお医者さんから聞いたけど、もうすぐ終わるんだって。健吾の顔見たら帰るからさ」
え、というような顔を暮月がかがみに向ける。そんな話、聞いていないからだ。だがすぐに、かがみの意図を理解した。かがみなりに、穹良を気遣っているのだ。
「そういうことなん。それにうち、夜更かしには慣れてるんよ」
笑顔を作り、暮月はベンチに置いておいたペットボトル飲料を穹良に差し出す。院内の自販機で売っている、ただのオレンジジュースだ。穹良は受け取ろうと歩み寄って手を伸ばし、ベンチの上に別のペットボトルがあるのに気付いて伸ばした手を止めた。
「すまない、そっちをくれないか」
穹良の視線が指し示すもの、中身が半分くらいまで減ったペットボトルのお茶を見て、暮月は疑問を口にする。
「これは、うちの飲みかけなんよ?」
「構わない。甘いものが苦手なんだ」
暮月は少しだけ不服そうな顔をしたが、黙って飲みかけのお茶を差し出した。礼を口にしてそれを受け取り、自己嫌悪した。こんな時にも、暮月の好意ではなく、自分の好き嫌いを優先させるのか、と。
時は過ぎ、日付を跨ごうとしていた。
ベンチに座る穹良の左右では、緊張感を維持できなくなり、眠気に襲われたかがみと暮月が彼女の肩に頭を寄りかからせている。その二人ともが、穹良の手を握っていた。
温かいなと思った。この温かさは何としても守りたい。何としても。そのための手段は、なにも自分が直接守るというだけではない。総合的に考えてその方が二人のためになるなら、健吾が回復したらこの地から去ろう。そう思った時、暮月の手が穹良の手をギュッと握った。
察されたのかと、穹良の心臓が跳ね上がる。だがその後の暮月は沈黙し、なにか意思表示する様子はない。偶然にしてはタイミングが出来過ぎているが、きっと思い過ごしだと思考を片付ける。
ふと、視界が暗くなった。瞼を閉じてしまったわけではない。手術中を示していた赤い電光板の光が落ちたのだ。手術が終わったのだと、穹良の体に緊張が走る。その気が伝わり、かがみと暮月も目を覚ました。
「……終わった?」
意識がまだはっきりとしないかがみが、誰に訊ねるともなく声を上げる。そして手術室の方を向いたタイミングで、そのドアが開いて差し込んだ白光が、三人の目を焼いた。
「眩しっ」
視界が焼き付いた暮月をよそに穹良は立ち上がり、運び出されてくるストレッチャーに駆け寄る。すると医師の一人が声を掛けてきた。
「ご家族の方ですね。病室の方で説明をさせていただきたいのですが、よろしいですか」
ストレッチャーに寝かされた健吾を見やる。シーツを掛けられた胸は静かに上下しているが、右腕があるはずの位置のシーツは不自然に張り付いている。
「もちろん、その件についても我々の知見が及ぶ範囲で説明させていただきます」
穹良の視線に気付いた医師が気を利かせて先回りする。穹良は「お願いします」と応じ、かがみと暮月を連れて、健吾とともに病室に上がった。
五階の個室に移された健吾が横たわるベッドを挟むように、医師と穹良、かがみ、暮月が向かい合う。看護師が点滴や人工呼吸器の設置を終えて退室すると、医師が口を開いた。
「さすが、地竜の血を引く所有者ですね。回復能力が強くて、手術が大変でした。何しろ、メスを入れた先から傷口を塞ごうとするもんですから」
軽口でも何でもないということは医師の口調と疲労具合から何となく分かった。穹良は健吾の左手を握る暮月を一瞥してから、医師に先を促す。
「彼の体内には、かなりの数の散弾が残されていました。西島さんの心臓は胸骨の後ろ側にあるので直撃は避けられていましたが、肺や大きな血管は大きく傷ついていたはずです。が、手術を開始した時には肺の損傷した部位はあらかた再生して、出血も見られないという状況でした。散弾の一部も、まるで溶けたように取り込まれつつありました。彼の回復能力なら取り込まれた散弾は竜力に変換された後に体外に排出されると思われるので、先の手術では塊で残っていた銃弾の摘出と、損傷した部位を保護し、彼が再生しやすくするための処置を行いました。彼の回復力なら、二、三日で起き上がれるようになるでしょう。まったく、恐ろしいほどの回復能力です」
「でも、遅い、と」
二人の話している意味が分からないというように、かがみが怪訝そうな顔をする。それもそのはず、先程からかがみの知らない単語が複数出てきている。疲れた脳には、理解が追い付かなかった。だからいちいち疑問を口にする気にもならず、二人の話を聞くことに徹した。
「ええ、おっしゃる通りです。ご存知のように、地竜は飛竜や水竜と比較して再生能力が非常に高い。その中でも所有者クラスの彼なら、とっくに欠損部位が再生して、目を覚ましていてもおかしくない。ですが、現状はそうではありません」
大別して三種存在する竜には、それぞれ異なった特性がある。地上で暮らし、飛竜や水竜のように広範囲での移動が難しい地竜は、飛竜が飛翔能力に、水竜が耐圧能力獲得に割く竜力を竜力防壁に割り当て、同時に驚異的な再生能力を得て身を守った。そのため、他の二種と比較して頑丈でしぶといのだ。
健吾もその性質を受け継いでいるはずであるため、医師の言う通りもう腕が再生していてもおかしくない。実際、完全にという訳ではないものの、彼の腕は交戦中に一度再生している。
「健吾の腕が無くなった直後、澱んだ竜力が彼の体から溢れ出して、それが腕の形になったんです。でも意識を失った後に消えてしまって」
医師は視線を落とし、目を瞑ったままの健吾の顔を見やる。それから、「話が散らかるかも知れませんが」と前置きを置いて、再び口を開いた。
「佐藤一佐から、彼のことを聞きました。彼は、所有者であることを自覚せずにこれまで生活してきたそうですね」
再会してまだ数ヶ月の穹良はこれまでの健吾の生活ぶりを知らないため、思わずかがみに視線を投げて寄越す。だがかがみも所有者という単語を知らなかったために、肯定とも否定とも取れるように視線を泳がせた。
「彼が銃撃を受けた際、彼の守護者の右腕も消失し、もがき苦しむように暴れたそうです」
そんな馬鹿なことがあるかと、穹良は脳内に<ルシフェル>からの映像を映し出す。そして驚いた。<ルシフェル>を囲っていたキャットウォークは倒壊し、左隣に立っていたはずの<トラク>は壁にもたれかかるようにして倒れている。右腕はなく、右半身の装甲も大きく傷付いていた。
「なんで、こんな……」
守護者は所有者の身体を守るだけでなく、所有者が保持できない分の竜力を蓄える器の役目も果たす。そのため、欠損した健吾の腕を補完するために<トラク>の右腕が消失したならまだ分かる話だ。<トラク>の腕一本分の竜力があれば、健吾の体を何体も構成することすら可能なはずなのに、健吾の腕一本すら再生されない。そんな事が起こり得るのかと、穹良は困惑を隠せなかった。
「所有者レベルの半竜は世界的に見ても極少数で、知見が足りません。ですので予測の域を出ませんが、彼と守護者との間で、竜力の伝達が著しく滞ったのが原因と考えられます。彼の竜力は、ひどく淀んでいました。まるで、水が注がれることも出て行くこともない池のように。竜力は本来流れるものです。所有者と守護者の間に流れる竜力が確かなものであるほど、守護者の力を引き出し、所有者の生存確率を高める。一方で、所有者が何らかの理由で守護者の存在を忘れ、意識しなくなることで竜力の流れが絶たれ、関係性が失われる。そうなれば、所有者は己の身一つで身を守らなければならず、持てたはずの能力も限定される。器が人間サイズの物だけになりますからね。西島さんも、人間として暮らす中で<トラク>の存在を意識せずにいたが、あなたと再会したことや、四月の件で、意識せざるを得なくなった。最近はリハビリもしていたおかげで守護者とのつながりが生まれ、わずかながら流れも生じた。だから、一時的にとは言え腕が再生した。もし今日まで<トラク>との接点がなければ、彼は人間として死亡していたかも知れません」
医師の言葉に、病室内が水を打ったように静まり返る。静寂に割って入ったのは、心電図の規則的な音だ。健吾の心臓は、確かに鼓動を続けていた。
「義兄の腕は、生えてくるんですか」
かがみの問いに、医師は神妙な面持ちで、しかし確かに頷いた。
「彼には守るべきものがある。守護者の力は、守る力です。彼がそれを守りたいと思い続け、自分を見つめ直すなら、きっと再生します。彼の力は、そういう力です。今はまだ、生命維持機能の回復に専念しているのかも知れません。この病室を、あなたたちの竜力で満たしてあげて下さい。きっとその方が、再生が早まるはずです」
医師は腕時計に視線を落とした。説明はここで終わりという意思表示だろう。穹良とかがみが黙って頭を下げると、医師は立ち上がって踵を返し、病室のドアまで進んで、歩を止めた。振り返り、三人の少女に寄り添われている健吾の寝顔に心の中で話しかける。
早く起きなさい。そして早く彼女らを安心させてやりなさい、と。




