三章25 覚醒
太平洋小笠原諸島近傍、東之島。上位地竜種であるオガサワラノコクリュウこと西島裕孝は、満天の星空に浮かぶ半月を見上げていた。だが厳密には、月を眺めていた訳ではない。息子である健吾の竜力が大きく膨れ上がったのをわずかに感じ取り、何か異変が起きたのではないかと考えていたところだった。
何が起きたのかと心配になっていると、東の沖合の方に強力な竜色を察知し、裕孝は肉食恐竜を思わせる巨大な頭部を右に向ける。すると視界の下に、くすんだ水色の着物を着た、双角の女性の姿が映り込んだ。沖合から接近する竜力と同じ匂いのする女性に、裕孝は納得して内心頷いた。
「よお、鈴音じゃんか。久しぶりだな」
人語を発声できない地竜の姿の裕孝は、竜力を介して鈴音に話かける。
「久しぶり、裕孝。元気そうでなにより」
細目を更に細くして笑い掛けてくる鈴音に、裕孝は少し面倒くさそうに応じる。裕孝はいまいち何を考えているのかよく分からない鈴音が得意ではない。きまぐれに現れてはくだらない世間話をし、大海原に帰っていくだけの彼女に付き合っていると、なぜか疲れるのだ。だが二人の間柄は昨日今日のものではなく、新月の前後にしか日本本土に近づけない裕孝にとっては数少ない話し相手のため、邪険にせず迎え入れている自分がいた。
「どうしたんだ? 本体まで連れてきて」
裕孝と異なり、鈴音は自身の竜力の一部を人型に形成することが出来るだけでなく、霧散させた竜力を移動させ、移動先で再構成して人型を取ることができる。そのため遠くの海溝に潜伏しながらも、人型を飛ばして裕孝の元に訪れたり、日本本土に遊びに行くこともある。
そんな彼女が、全長三〇〇メートルにも及ぼうかという巨大さを誇る体をわざわざここまで運んでくるには、何か大きな理由があるはずだ。
「お前も気付いているんだろ? 決壊した健吾の体から濁流が溢れかえったことに。下手したら、死ぬよ?」
裕孝の巨大な瞳に驚きと焦りの色が浮かぶ。健吾の身に何か異変が起きたことは察知できたが、それが生命の危機だとは思っていなかった。鈴音が本体を動かしたことから考えても、嘘を言っている訳ではないだろう。しかし。
「だとして、なぜお前が動くんだ」
すると、鈴音は「そんなことを訊くんじゃない」とでも言いたげに、大げさに肩をすくめてみせてから、裕孝を見上げた。
「お前の竜力を預かっておいてやる。だから今すぐ行ってこい」
沖に、海面を割って巨大な海竜の背中が現れる。紺色をした滑らかな光沢を放つ背中は、鈴音の本体のものだ。鈴音ことカイコウセイリュウの一種が浮上し、白波を立てながら接近してくる。
「まさか、お前の体を器にするつもりか」
「まあな。私の体の空きもそんなにある訳じゃない。さっさと行って、さっさと帰ってきてくれ」
有無を言わさずといった鈴音の口調に、裕孝は黙って頷いた。
黒い巨体から一条の曲線を描いて、蛍色に輝く竜力の粒子が鈴音の本体に流し込まれる。月下でオガサワラノコクリュウのシルエットが縮んでいき、しばらくすると東之島には全身を分厚い鱗で包んだ、羽を生やした大柄の男が佇んでいた。
どうにか人間態になれた裕孝の元へ、鈴音が歩み寄る。
「半月の状態じゃ、それが限界か」
「ああ。だが本土までの距離を飛べば、竜力だって消費する。着くころには、いつもの姿になれるだろうよ」
裕孝は木の枝にも見える羽を広げる。その枝の間に竜力で形成された膜が広がり、推進力を得るに十分な大きさを得た。
「鈴音、ありがとう。行ってくる」
「間に合うことを祈ってるよ」
鈴音の言葉に片手を挙げて応じてから、裕孝は闇夜に飛び立った。
陸上自衛隊新琵琶駐屯地司令室。正面のモニターには、突如としてクリアになった穹良の視界が零式<ルシフェル>を介して映し出されていた。そこには穹良の前で何かから守るように両手を広げている健吾の後姿と、その向こう側で顔を鮮血に染めながら不敵に笑う男の姿が映っていた。
次の瞬間、銃声が轟いて健吾の右肩に血の華が咲き、体を右に捩じりながら倒れて行く。音を立てて倒れた健吾の姿と、そこからゆっくりと広がって行く血だまりが映された。直後、穹良の悲鳴が木霊し、映像が大きく乱れる。一連の映像に、司令室の面々は色めきだった。
「ヴィヴィアン、作戦変更だ。降下ポイントを変更する。降下可能範囲に入ったら降下しろ。保護対象に負傷者が出た」
佐藤一佐がすぐさま<ヴィヴィアン>に連絡を入れると同時に、司令室の幹部が<ヴィヴィアン>を輸送するヘリに作戦変更を指示する。幹部の一人が、零式格納庫から受けた報告を声を張って告げた。
「零式格納庫で<トラク>が突如起動。格納庫内で暴れています」
別のモニターに格納庫の様子が映し出され、もがき苦しむように暴れてキャットウォークを破壊する<トラク>の姿にざわめきが広がる。
「……右腕が」
誰かが発した声で、司令室内の面々の視線が<トラク>の右腕に注がれる。あったはずの右腕が、消失しているのだ。
「第一歩戦小隊を格納庫に回せ。<トラク>を取り押さえろ。消火班は待機だ」
夏冬副指令の指示に、司令室内が冷静さを取り戻す。
「頼む。間に合ってくれ……」
今の佐藤に出来ることは、やはり祈ることだけだった。
新琵琶湖岸廃墟群。銃撃を受けた健吾は、穹良の視界の中でスローモーションのように倒れていった。右肩から血しぶきをまき散らしながら、健吾に突き飛ばされて尻もちをついた穹良の目の前に倒れる。ほぼ同時に、穹良の頭上を舞って背後に何かがどさりと落ちた。
穹良の目の前で、健吾の肩口から溢れた血があっという間に広がって行く。腕が無くなった傷口からとめどもなく溢れ出した血は穹良のもとへと迫ってきた。その血から逃れるように、乾いた浅い息を吐きながら穹良が立ち上がることも出来ずに後ずさる。視界に映るものが現実だと思えなかった。同時に、過去、自分が敵を殺した時のことを思い出して、その記憶から逃れようと必死に腕を動かして自分の体を引きずった。
だがその手は、穹良の背後に落ちたものにあたった。暖かく、ぬめりのある感触のものを拾い上げて、それを恐る恐る見る。
断面がミンチ状になった、健吾の前腕だった。
前腕から滴り落ちる血が穹良の服を赤く染め、掌の中では温もりが消え去って行く。
「い、いやあああぁぁぁぁぁぁ!!!」
現実を認識した穹良が、ただの肉片と化した健吾の前腕を掻き抱きながら絶叫する。感情のダムが砕け散り、穹良は床面を掻くようにしながら、血の海を四つん這いで健吾の元に駆け寄る。感情と体の動きがリンクせず、自分が取りたい行動に最短で辿り着けているのか分からない。だがそんなことを考える余裕もなく、穹良はがむしゃらに健吾の寄り、体温が下がって行く体を抱き上げる。
「馬鹿野郎!! なぜ私を庇った!!」
血で滑る健吾の体を仰向けにし、虚ろになった目を覗き込んで思い浮かんだ言葉をぶつける。
「……よかった。お前は、無事みたいだな……」
焦点の合わなくなった目を必死に穹良に向けようとしながら、青くなった唇を動かして細い声を出す。だがすぐにむせて、血塊を吐き出した。この時初めて、健吾の右胸が抉れていることに気付いた。散弾が右肺もハチの巣にしているのだ。
「だから言っただろ! 私一人で十分だって。こうなるのが嫌だったっから! それでも付いてきておいて、このざまか! おい、なんとか言え!!」
だが健吾は言葉を返さず、体の末端から体温は下がり、筋肉が弛緩する。腕を吹き飛ばされ、大量に出血しているせいで、腕の中で軽くなっていくように感じた。生命活動を停止しようとする健吾に泣き叫んでも、命の灯は小さくなっていく一方だった。
「待て、逝くな! かがみと私を置いて逝くな! 戻ってきてくれ!!」
穹良の膝の上から健吾の体がゴロンと転がり落ちる。ルディとディオに両腕を掴まれて、穹良が無理やり立たされた。
「残念だったな。まずはあの男を喰わせてもらう」
「嫌……、嫌!! 健吾、健吾!!」
サントソの竜力が膨れ上がり、掘りの深い顔がオオカミを思わせる肉食獣の顔に変貌する。鋭い犬歯が並ぶ口元から唾液が垂れ落ち、吐息と蒸気が上る。手には鋭い爪が生え揃い、筋肉で膨れ上がった四肢は強固な鱗で覆われる。本性を現したサントソが健吾の傍らに屈みこみ、左腕を掴んで強引に持ち上げた。
「分かった! 私を喰ってくれ! 頼む! 黙って喰われるから! だから健吾は助けてやってくれ! 頼むから!!」
二人の男に拘束されながら、穹良は泣き叫んで懇願する。だがサントソはその懇願に聞く耳を持たず、無抵抗の健吾を弄んだ。
サントソに無理やり体を起こされたおかげで、まだ何とか開いていた健吾の視界にもがき泣きじゃくる穹良の姿がぼんやりと映る。耳は遠くなっているが、穹良の言葉は微かに聞き取ることが出来た。
それにしても、と健吾は薄らいでいく意識の中で呟く。
穹良って、あんなふうに泣いたり叫んだりするんだな、と。
最近は思い出すことは減っていたが、昔の穹良は表情が豊かで、よく笑う子だった。その笑顔が好きで、施設にいた時に恋に落ちた。
六歳のガキの初恋など、程度が知れている。だが、健吾にとっては大切な思い出で、だからこそ再会できた時は嬉しかった。同時に自分が望んできた再会とのギャップに落胆もしたが、今の「普通に話ができる異性」のような関係性も悪くないと思えるようになった。
自分がいて、穹良がいて、かがみがいて、暮月がいる。学校に行けば、真も璃那も雪灘もいる。そんな日常が幸せに思える。
その日常を壊す連中がいて、そいつらに喰われてもいい? ふざけるな。せっかく手にした穹良との
時間を、お前ら如きに奪われてたまるか。
穹良、お前もお前だ。かがみが大事なら、喰われてもいいなんて言うな。俺が守ってきたかがみを、簡単に手放そうとしてくれるな。俺とお前の、大事な可愛い妹だろ。そんな事を言っている暇があったら、その馬鹿みたいに強力な力でこいつらを蹴散らせ。
お前には俺にはない、きれいな羽も、目を瞠るような強力な能力もあるじゃないか。
『お前も欲しいか?』
健吾の脳内に、自分の声が響く。否、自分の声ではない。もう一人の自分、<トラク>の声だと本能的に知る。
「欲しい」
『お前が今まで拒み、忘れようとしてきた力だぞ?』
「でも忘れられなかった。そのことを、今はラッキーだと思うよ」
『後悔することになるかも知れないぞ?』
「そん時になったら考えるさ」
『分かった。くれてやる。他でない、俺のためにな』
声が聞こえなくなり、脳内に静寂が訪れる。サントソに左腕を掴まれて掲げられているせいで出血が止まらず、意識を失ってもおかしくない状態にも関わらず、不思議と健吾の脳は冴えていた。
そこへ、強大な力が注ぎこまれる。健吾の背中に竜力が流し込まれ、体の中で膨れ上がるのを感じた。あの時、入学式の日に<トラク>が顕現した時と同じ感覚だ。
「……なんだ?」
健吾の中で高まる竜力を感じ取り、サントソが思わず疑問符を口にする。次の瞬間、健吾は体の中をはい回る激痛に苦悶の絶叫を上げた。
「が、があああぁぁぁぁぁ……!!!」
――――熱い熱い熱い熱いっ!
健吾の体内で細胞が竜力に変換され、たちまちに傷口を修復していく。体内で溢れた竜力の塊が欠損した右肩に集結し、どす黒い球体が形成される。膨れ上がった球体は瞬時に縮んで一度消滅したが、今後は肩口から蛍光緑色の竜力の筋が二条現れ、二重らせん構造を描く。螺旋内で肩から手の先にかけて乳白色の骨格が再構成され、後を追うように艶のある黒色の筋肉と皮膚が再構成され、皮膚の表面に蛍光緑色の紋様が走る。
「まさか、こいつ!」
健吾の腕を掴んだまま、サントソが驚愕に目を見開く。その左頬へ、健吾は渾身の右フックを決めた。
「健吾……!」
右腕が再生し、サントソを殴り倒して堂々と立つ健吾の後ろ姿に、穹良は安堵から思わずその名を呼んだ。




