三章17 雨とテスト勉強
「今日はやけに降るな」
座卓の上に広げたノートに走らせていたシャーペンを止めて、穹良は顔を上げた。
土曜日。穹良は自宅でテスト勉強に励んでいた。座卓にテキストと問題集とノートを開き、公民の問題を解く。部屋にはもちろん彼女一人で、盛んに降る雨の音以外は何も聞こえない。電気もつけずに薄暗い部屋で勉強していると、雨音の中に自分が溶けていくような気がした。
再びテキストに視線を落とし、問題を解く。だが先程まで耳に入って来なかった、雨の音が気になってきた。頭に手を当てるという、無意識の動作で触った髪がごわついていることに気付いて手櫛を入れ始めたり、一瞬思考が飛んで何も考えていなかったりといった異変が、次々に穹良を襲う。
そうしてやっと、穹良は自分が置かれた状況を理解した。理解して、背伸びをしながら現状を確認するように呟いた。
「飽きたな」
背中と腰の骨が音を立て、伸ばした腕に引きずられるように顕現した二対四枚の羽が小刻みに震える。集中力が限界に達していた。
とはいえ勉強を始めてまだ三十分。時刻は午前十一時になったばかりだ。こんなことではいけないと、穹良はもう一度テキストに向かい合う。だが、一度切れた集中力は、穹良のもとから逃げていってしまったらしい。
ふと、妙な寂しさを覚えて、穹良は背後を振り返った。健吾たちの部屋がある方を振り返り、それからおもむろに立ち上がる。かがみや暮月に触れたくなった穹良は、部屋の壁を竜力に変換してすり抜ける。そうすれば、わざわざ雨が降っている外に出なくても、健吾の家に入ることができる。
もっとも、竜力防壁を展開すれば風雨など簡単に防げるが、玄関チャイムを鳴らして鍵を開けてもらうのが面倒くさいという自分勝手さから、それらの行程をすっ飛ばせる不法侵入を選択した。
健吾の家の一階に侵入すると、台所からテレビの音が漏れ聞こえてきた。曇りガラスの引き戸を開けて顔を覗かせると、暮月が真剣な眼差しでテレビを見つめていた。聞こえてきた音声から、ここ数日話題になっている、竜人の死体に関するニュースを見ているらしい。穹良の存在に気付く様子はなく、画面にくぎ付けになっている。
そんな暮月の背後に回り込んで、椅子の上に三角座りをしている彼女の脇の下に手を差し込み、真っ直ぐ上に持ち上げる。
「にょ!? え? なに!? なんなん!?」
突然体が持ち上がったことに驚きの声を上げ、状況を確認しようと慌てふためく。その様子は、以前に璃那が高校の近くで猫を抱き上げた時の反応に似ていた。
「背後ががら空きだ、暮月」
「うちの命、狙われてるん?」
穹良の仕業だと知った暮月は大人しくなり、体を下ろしてくれるのを待った。結果的に下ろしてはもらえたものの、暮月の予測した形とやや異なった。暮月の体を持ち上げたまま穹良は彼女が座っていた椅子に腰かけ、自身の膝の上に暮月を下ろした。
そして暮月の後ろから腕を回し、そっと抱き寄せる。
「どうしたん? ねえね、何かあったん?」
「なんでもない。触れたい相手がすぐ近くにいるのに躊躇う必要はないと思っただけだ」
答えながら右手を暮月の頭に移し、そっと髪を撫でる。華奢な体を抱き締めると、愛おしさが胸中に押し寄せてきた。
「あれ、てか、いつ入ってきたん?」
「気付かなかったろ? 気配、薄いからな」
『――――この複数死体には、何か関連性があるのでしょうか?』
テレビから流れてきた音声に、穹良も視線をそちらへと向ける。見ると、情報番組でキャスターが有識者らしき中年男性に、意見を求めてるところだ。
ここ数日間に、首のない竜人の死体が九体も確認されている。半竜と違って人権もない竜人の死体が見つかったところでニュースになるような話題ではないが、今回は短期間のうちに多くの死体が見つかっていることから、地方局だけでなく中央のテレビ局でも報道されるようになっていた。
『一様に首がなくなっているということは、恐らく単なる狩りではないだろうというのは、一つ言えると思います。ただ、竜人は習性は実に多様で、個体の行動によるものか、種の行動によるものかは今のところ分かっていません。ただ、竜人は野生生物の中では竜に次ぐ高次捕食者ですから、その竜人が殺されているということは、それ以上の存在がいるということですので、現場付近には近づかないようにしてください』
「竜人、の一言で片づけ過ぎだ」
有識者の発言を聞いていた穹良が呟いたのを聞いて、暮月が仰ぎ見るように振り返る。
「どういうことなん?」
「竜人といっても種類が多いうえに、知能には開きがある。人間に近いチンパンジーとリスザルをひとまとめにサルと言っているようなものだ。それに、竜人より半竜の方が強力なこともざらだ。竜人どもの頭に用があるのは、竜人や竜だけじゃなく、半竜、という可能性もある」
「どうして頭を?」
穹良は一瞬沈黙してから、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。
「低級の竜族の中には、他の竜族を食うことで、力を引き継ぐことができるものがいる。この時、脳を食うことで効率よく力を自分のものに出来る、そうだ」
怯えたような肩を震わせ、暮月は眉を寄せる。そんな彼女を、穹良は落ち着かせようと優しくなでる。
「怖がらせてしまったな。だが、相手を食って力を付けるこことが、奴らなりの身の守り方なんだ。だが、市街地にそいつが降りてくるようなことがあれば、混乱に陥るのは間違いないだろうな」
暮月の目が、不安で小刻みに震えている。庇護欲が胸のうちで高まった穹良は口元を緩めて、出来るだけ落ち着いた声を出した。
「大丈夫だ。お前に危害は加えさせない。私が守る。だから安心しろ」
「うん」
ああ、可愛いな、と穹良はしみじみと思っていた。怯えた小動物のような仕草をされたら、抱きしめたくなってしまうではないか。
同時に、これは自分も不安に陥っている証拠だと、穹良は自分の心に向き合う。雨に紛れて良からぬものが近づいて来るのではないかと、柄でもなく不安になっている自分がいる。その不安に立ち向かうために、守りたい存在が手の届く範囲にあることを再認識したいのだ。
もう一人の再認識対象に会いたくて、穹良は二階に上がってきていた。ドアをノックしてから開けると、驚いた顔をしたかがみがこちらを見ている。
「びっくりした。健吾かと思った」
「なぜ暮月とは思わないんだ」
「あいつノックしないもん」
なるほど、と頷いてかがみの部屋に踏み込む。飾り気は無いが整理された綺麗な部屋で、かがみはテスト勉強のために机に向かっているところだ。
「邪魔するぞ。ちゃんと勉強しててえらいな」
穹良が入室してきてもペンを走らせようとするかがみを後ろから覗き込む。文字でびっしりと埋め尽くされたノートに、穹良は目がチカチカする気がした。
「やらないと、成績維持できないんだもん。穹良は? ちゃんとやってる?」
「やってる、いや、やってた。飽きたからこうして邪魔しに来た」
「それで大丈夫なの?」
さあな、と肩をすくめながら、穹良はかがみのベッドに飛び込むように座る。
「それに、明日雨じゃなかったら、友達と買い物に行く予定なの。だから今日頑張らないと」
「そう、か。良かったな」
かがみに、一緒に買い物に行ってもいいと思えるような友達が出来たことは喜ばしい。健吾もそれを望んでいたし、穹良自身も気軽に話ができる相手はいた方がいいと思っている。
だが今は正直、出歩いて欲しくない。山の中で竜人を食いまくっている存在が街のど真ん中に現れない保証はないし、穹良を襲った連中の存在もある。穹良が尾行するわけにもいかないし、それができないとなれば万が一の際に守ってやることが出来ない。
一方で、普通の女の子のように友達と遊びに行かせてあげた気持ちも当然ながらある。だからどうしたものかと悩むが、いまこの場で「行くな」と言うことも出来ない。
「明日は雨、止むといいな」
本心と裏腹の言葉を口にして、穹良はかがみの頭を撫でる。かがみはくすぐったそうにしていたが、同時に嬉しそうでもあった。
「邪魔するぞ」
「お前また壁すり抜けただろ」
健吾の部屋に入ると、開口一番にそう言われた。驚いて軽く目を瞠る穹良に、健吾は呆れたような顔をする。
「よく分かったな」
「お前の方が力強いんだから、分かるわ」
「でも前は分からなかっただろ?」
言われて、健吾が確かにと手を打つ。穹良と再会した当時は穹良の竜力を探知することすらできなかったが、最近はその気になれば接近する竜力を探知し、それが穹良のものか、かがみのものかが分かるようになってきていた。
「それはお前が、自分の竜力を使いこなせるようになってきた証拠だ。トラクもだいぶ動かせるようになったんじゃないか?」
健吾のベッドに腰かけながら問う。
「そうなんだよ。お前のアドバイスのお陰だな」
「感謝してるか?」
「してるしてる」
「なら二つ、相談事がある」
穹良の目が、勝負に賭けるような色に変わる。そこまで駆け引きが必要な要求が付きつけられるのだろうかと内心守りの姿勢に入りながら、健吾は先を促した。
「聞くだけ聞こうか」
「明日、雨が止んでいたら、かがみは友達と買い物に行きたいそうだ。私としては行かせてあげたいが、出来れば私たちの目の届くところにいて欲しいという気持ちもある。だから、お前の意見を聞きたい」
「あいつ、もうそこまで仲良くなれたのか」
正直、意外に思える。あのコミュ障の塊みたいなかがみが、こうもあっさりと仲を深めていくのは予想外だった。どうやら、大きく一皮むけたらしい。
顎に手を当ててしばし黙考してから、視線を穹良に向ける。
「行かせてあげよう。遠巻きにとは言え私服自衛官が護衛についてくれるだろうし、俺も買いたいものあるから、買い物という名の尾行をする。これならいいだろ?」
「……分かった。二つ目だ」
「なんだ?」
聞く意思は示したが、穹良は躊躇うように視線を泳がせている。よく見れば、なんと切り出そうか迷っているのか、口元も小さく動いていた。
「こんな時に言っていいことか分からないし、身勝手な事かも知れないんだが」
らしくないなと思いながら、黙って先を待つ。こういう時、無理に助け船を出さずに相手のペースに合わせた方が良いと健吾は思っていた。
「……今すぐにとは言わない。急ぎもしない。だが、かがみと一緒に暮らしたいと思っている」
この時健吾は、嬉しさを覚えていた。妹と再会して約二カ月、和解に約一か月を費やした姉妹が、一緒に暮らそうと思い始めている。姉妹として本来あるべき姿に戻ろうとしているのだ。それは、喜ばしいことだ。
もちろん、一抹の寂しさもないわけではない。物心ついたときにはかがみと接し、健吾の家に養子に来て約十年一緒に暮らしてきた。いい義兄であったかは分からないが、それなりに慕ってくれているようだ。そんなかがみが自分の元を去り、穹良と一緒に暮らす。ついにこの時が来たか、という感が胸中に広がった。
「義妹さんを、私に下さい」
穹良のこの一言で、健吾は自分の中に広がっていた様々な感情が吹き飛ばされるような気がした。真剣な眼差しでなんて台詞を吐くんだと、内心脱力する。
だが、この話を切り出すときの様子を見るに、穹良も色々考えた上での決断だったのだろう。その決断を尊重しようと、健吾は息を吸い込んだ。
「分かった。でも、もう少し落ち着いたら、な」
「分かっている」
そう言う穹良の目元はわずかに綻び、ほっとしているように見える。やはり、一大決心だったのだろう。
思いを吐き出せてすっきりしたのか、穹良の声にはいつものハリとちょっと偉そうなニュアンスが戻ってきた。
「さて、トラクを動かせるようになったと言ったな。では、次の段階に進む」
「次の段階?」
「そうだ。次は竜力防壁を自由に展開できるように訓練する。さあ立て」
「え、今から?」
健吾の前に立ち無理やり立たせようとする穹良に、健吾は困惑声で抵抗を試みる。だが、彼女の怪力の前に、健吾は引きずられるように立ち上がった。
「そうだ。心配するな。ここで出来るから」
「いや、そう言う問題じゃねえから」
健吾は机に広げた勉強道具を横目で見やりながら、根気よく抵抗する。そんな抵抗など、穹良は歯牙にもかけなかった。
雨が降る土曜日の昼下がり。健吾の勉強時間は、穹良の竜力操作講座へとすり替わっていた。




