三章9 堪忍袋の緒は二度切れる
更に翌日。
かがみはいつも通り登校した二年一組の前付近の廊下で、試練に立ち向かう羽目になっていた。二年一組の教室に入ろうとしたところで、反対側から歩いてきた例の女子生徒と対面してしまったのだ。
「あ」という顔をする女子生徒と「う」という顔をするかがみが向かい合い、どちらかが何か言葉を発さなければ、あまりに不自然だという状況に追い込まれる。その状況を打破したのは、女子生徒の方だった。
「お、おはよう、安曇野さん」
「……ぉ、おはよう……」
喉の奥から何とか音を絞り出し、朝の挨拶を交わす。彼女のお陰で不自然な状況から抜け出すことが出来たかがみは、足早に教室に入り席に着くと、鞄から本を取り出し、読むふりをして顔を隠す。
高鳴った心臓がバクバクと音を立て、口から飛び出そうだった。不意打ちを食らったせいで顔から冷や汗が噴き出しており、自分の体の制御が効かない。そんな状態で正面を向いて座っているなど、今のかがみには出来そうにない。本当に本は便利だと思いながら、かがみはそっと深呼吸をする。
それにしても、とかがみは思考を切り替える。
逃げ出したいのはやまやまだったが、なんとか挨拶を交わすことが出来た。よくよく考えれば、今まで「普通」であろうと努力してきたわけだから、挨拶をされたら返すのが「普通」だ。例え警戒している相手であろうと、挨拶を返さないということは露骨に避けているということの表れであり、自分への注目度を上げてしまう。正体がばれた相手に対して「普通」の態度を取れたことは、昨日逃げてしまったことと比較すると、大きな進歩と言えた。
よしよしいけるぞ、とかがみは謎の自信に包まれ、本から顔を離して読んでいないページをめくる。
今日は、彼女に怯えなくて済みそうだ、と思った。しかし、数時間後には、そう思ったことを後悔していた。
昼休み。昼食を摂り終えたかがみは、屋上に来ていた。昨日の夜から降り始めた雨は昼前には止み、今は積雲の隙間から日光が差し込んでいる。ベンチは水滴で濡れていたので座るのは諦め、塔屋の陰側に行き、柵の水滴を拭いてから、その上に腕を組んで街並みを眺める。
雨上がりということもあり湿気の多い風は涼しく、清涼感がある。これで気温が高かったら不快指数が一気に跳ね上がるな、と脳内で呟く。梅雨前線が運んできたのか、大気中の竜力濃度はいつもより濃いらしい。背中に軽く疼くような感覚を覚え、体の中に溜った竜力が入れ替わる。
代謝で生成される竜力は体内に一定量貯蔵されるが、その期間が長くなると心身に不調をきたす。池の水が汚れやすいのと同じように、竜力も溜まりすぎると澱む。逆に、体内と体外の竜力が入れ替わると、心地よさを感じる。その感覚は、湯船に浸かった時に疲労が溶けだしていくような心地よさに近しい。
ただでさえ、昨日今日で心労が著しく蓄積している。一人で過ごせる時間は、貴重であった。
ふう、と吐息を漏らしながら柵にもたれ掛かっていると、不意に背後でドアが開く音が聞こえて、かがみは振り返るとともに自分の気配を消す。ここで誰かと一対一で会うようなことは避けたい。相手が誰かは分からないが、どうにかやり過ごそうと考えたが、そうは問屋が卸さなかった。
「……あれ、こんなところで何してるの?」
件の女子生徒が、塔屋の角から顔を覗かせていた。
温かい湯船に浸かっていたと思ったら頭上からバケツ一杯の水を掛けられたような感覚に陥って、かがみは露骨に機嫌が悪そうにする。
「ごめん、邪魔した?」
そう思うのなら立ち去ればいいのに、彼女はそうせず、何か話題を探しているように見える。
「さっき、こっちに歩いていくのが見えて、一人でどこに行くのかなって思って……」
ストーカーという言葉を教えてやりたいとも思ったが、そもそも口を利きたくない。
「お、屋上には、よく来るの?」
人のこと言えないが、会話下手か、と思った。妙におどおどした態度が、癪に障る。だから友達少ないんじゃないの、と、意地の悪いかがみが彼女の中で鎌首をもたげる。
だめだ、耐えられない、と思い、かがみは女子生徒の横を通って校舎内に戻ろうとする。ここで愛想よく話を合わせられればいいのだろうが、かがみの堪忍袋の緒は、彼女が屋上に来た時にとっくに切れていた。教室内では周囲の注目を集めないように振舞おうと努力する気になるが、この場では今は出来そうになかった。
「あ、待って……」
待ってやる義理はない。だが、次に聞こえてきた言葉で、かがみは足を止めた。
「安曇野さんって、半竜なの?」
緊迫した空気が張りつめ、二人の間を風が吹き流れていく。
「……そうだって言ったら?」
「そうなんだ、って言うだけ」
ゆっくりと振り返り、女子生徒の目を見据える。何故か、かがみの心は凪いでいた。
「じゃ、違う。私は人間」
「そう、なんだ」
期待していた答えと違ったのか、少し残念そうな声音だ。だが一方で、どこかほっとしているようにも見える。そんな複雑な表情を女子生徒は浮かべていた。
その目を見て、かがみの心に波紋が広がる。真意の掴めないやり取りに、軽い苛立ちを覚えていた。同時に、相手が何を考えているのか知りたいと思っている自分に、戸惑いを覚えていた。
だから、これで会話を終わらせればいいのに、余計なことを訊いてしまった。
「あれを見ても、あたしの言葉の方を信じるの?」
女子生徒の目が、驚きで軽く見開かれる。彼女も、会話は既に終わったと思っていたのだろう。
「……もしかしたら、私の見間違いかな、なんて思ったりして」
「……そう。そのまま思っていてくれれば、良かったんだけど。なんで話しかけてきたの」
訊かれて、女子生徒は少し迷ったように視線を泳がせる。そして意を決したのか、目に力を宿らせて、口を開いた。
「興味があったから。半竜の人と、話してみたくて」
この時、かがみの細くて短い堪忍袋の緒が、プチンと音を立てて弾けた。既に切れていたはずなのに、もう一度切れた。
「あたしがそうだから、興味本位で話しかけてきたの……?」
なぜだか、かがみにも分からなかった。静かな怒りがこみ上げ、そして悲しみがかがみの狭い心をあっという間に覆い尽くしてゆく。体内の竜力が膨れ上り、背中から放出しそうになるのを必死に堪えながら、女子生徒を睨みつける。
「半竜と話してみたいって言う、たったそれだけの理由だけで、あたしの心を搔き乱すの? あたしの貴重な時間を喰い潰すの? 関わって欲しくないから一生懸命努力してるのに」
「……え、いやその、ごめん。話したことなかったから、ちょっと話してみたいなって思って……」
「あなたが話してみたいのはあたしと、じゃなくて、半竜と、なんでしょ」
女子生徒は、なんて答えたら良いか迷っている風だった。だが、かがみにとっては、すぐに答えが返ってこないというだけ十分だ。
「ただの興味なんて理由で、あたしに関わらないで……!」
押し殺した、そして微かに震えた声を喉から押し出す。
「っ……」
女子生徒は言葉に詰まり、俯いて押し黙る。これ以上何も言わなそうだということを確認すると、かがみは彼女に背を向けて屋内に入ろうとした。その時だった。
「……ごめんなさい」
小さかったが、確かにそう聞こえた。
身内以外の人に謝られたのは、初めてのことだった。小学校時代にいじめられた時には、誰も謝ってくれなかった。自分が人間でないという理由だけで、謝られることは無かった。個としては人間より強いからか、社会的弱者であっても守ってもらえなかった。
あの時、一言でも謝罪の言葉があれば、今ほど自分が頑なになることは無かったかも知れない。
柔軟性がない硬さは、衝撃に弱い。かがみの凝り固まった心には、たった一言の謝罪が、思いのほか響いていた。
驚きとともに、振り返りそうになる。だが振り返ってしまったら、自分が今まで守ってきた大切な何かが、失われてしまうような気がした。その何かを失うということは、今までの自分の行いを否定することになるような気がした。
それは、恐ろしいことだ。だから振り返らない。彼女の謝罪を受け入れてはいけない。
かがみは彼女を屋上に残し、校舎内に戻った。彼女との距離が離れていくにつれて胸の中のざわめきが大きくなり、後ろ髪を引かれる感覚は強くなっていく。
もしあの場で謝罪を受け入れていたら、こんな気持ちにならずに済んだのか。確かめようのない疑問に苛まれて、かがみは四階の理科準備室に入り込む。今は、誰にも会いたくなかった。内側から鍵を掛け、すぐには誰も入って来れないようにする。
一人になれた途端、かがみは一筋の涙をこぼして、そのことに驚いた。涙があふれたことで、自分の中で膨れ上がっていた感情が落ち着きを取り戻し、その時初めて自分の本心に気付いた。
嬉しかったのだ。
自分を半竜だと知っても、話しかけて来てくれたことが。
そして悲しかったのだ。
相手が求めているのが自分との対話ではなく、半竜に興味があったということが。
でも、それでも嬉しかったのだ。
謝罪という形で、本心を口にしてくれたことが。
そして悔しかったのだ。
癇癪を起し、粗末な対応しか出来なかった自分が。
「……ぁぁあああぁぁぁ……!」
声にならない音を喉から漏らしながら、涙と感情がないまぜになった竜力をこぼす。理科準備室内の気温が一気に下がり、かがみを中心として冷気が広がる。床や棚を這うように氷が覆い、天井から氷柱が垂れ下がる。
膨大な竜力が、周辺から熱を奪い、水蒸気を氷へと変換する。かがみの固有能力を発動させ、体内に膨れ上がる竜力を発散させる。そうしなければ、この胸が張り裂けてしまいそうだった。
氷が霧散し、無数の蛍が飛び立つように竜力が拡散してゆく。だらりと腕を垂らし、虚ろな目で天井を眺めていたかがみは、竜力を発散させたことで、感情で溢れかえっていた心に余裕が出来たことを実感する。
一つ深呼吸をすると、だいぶ落ち着いた。
五限の予鈴が校内に鳴り響き、かがみは現実に引き戻される。鍵を開けて、教室へ戻るために歩き始める。
教室へ戻れば、また彼女と顔を合わせる羽目になる。だが、そんなことはどうでもいい気がした。少し竜力を放出し過ぎたのかも知れないとかがみは思った。気力がどこかへ消え失せ、なるようになれと自虐的な笑みを浮かべる。
チャンスを叩き潰したのは自分だ。あの場の振る舞いによっては彼女との友好な関係を築き、彼女との間では自身の素性を隠す必要がなくなっていたかもしれない。だがその可能性をちっぽけなプライドを守るために踏みつぶし、正体を暴露されるリスクを取り除かなかった。全ては、自分の責任だ。
だがその責任はどうやったらとれるのか。この学校にも居れなくなったら、自分は何と言って健吾に詫びるのか。
「馬鹿だなあ、あたしは」
かがみの零した呟きは、誰もいない廊下の空気に溶けて消えた。




