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三章8 トイレへの逃亡

 

 翌日。


 いつものように登校したかがみは、教室でホームルームの時間まで本を読んでいた。これまでの学校生活での経験からスルースキルが身に付いていたかがみは、周囲の話声などを完全にシャットアウトすることが出来る。周りに誰が居ようと自分の世界に入り込み、読書に集中する、それがかがみの特技だった。


 だが、今日は違った。普段なら無視できるはずの教室内の雑音が耳に触り、どうにも集中できない。目で追う活字の一文字一文字の意味は分かるものの、文章として理解することが出来ず、同じところを何度も読み返してしまう。普段ならあり得ないほど意識が散漫になっていることに気付き、かがみはイライラを募らせた。


 原因は明白だ。昨日、一人の女子生徒に正体を露呈してしまったことだ。その女子生徒が自分の正体を周囲に暴露してしまうのではないかと、気が気ではないのだ。


 今になってかがみは、クラスメイトの顔と名前すら一致しないことを後悔する。クラスメイトの素性が少しでも分かっていれば、自分の身の振り方を考えることも出来るのだが、相手の情報が一切ない以上、どんな対策を立てても無意味な可能性がある。せめて昨日の女子生徒の情報を少しでも得られないかと、かがみは億劫な思いを抱えながらも視線を上げてゆっくりと振り向く。教室の窓側の席に位置するかがみが右に首を振れば、教室内のほとんどを視界に収めることが出来るはずだ。


 例えば、昨日の女子生徒の友好関係に関する情報が得られれば、自分の正体を簡単に他言しそうかどうかが分かる。どんな人と、どんな話をしているのか、それだけでも知りたいと思いながら首を巡らせた先、正確にはかがみから見て四時の方向を向いた時に、そこに立つ人物と目が合って、硬直した。


 「おはよう、えっと、安曇野さん」


 「……ぁ」


 そこには、学校指定の鞄を肩から下げた昨日の女子生徒が、気まずそうな雰囲気を携えて立っていた。


 女子生徒の、伺い立てるような視線がかがみの双眸を覗き込み、彼女を大きく動揺させる。一気に心拍数が上がり、口の中が乾くような感覚がして、声ともつかない音が喉から漏れる。


 スッと体温が下がったような気がして、かがみは跳ね上がる心臓の鼓動を抑えようと、胸に手を当てた。その仕草を見て、女子生徒の瞳に焦燥のような色が宿る。心配されているのだ、と直感的に感じたかがみは、椅子から勢い良く立ち上がると教室を飛び出し、廊下を早足で抜けてトイレの個室に駆け込んだ。


 「安曇野さん……!」


 教室を足早に出て行くかがみを呼び止めようとその名を口にした女子生徒は、無意識に伸ばしていた自分の右手を戻し、掌を見つめる。呼び止めて、その後に何を口にしたかったのかと考えたが、明確な答えは浮かばなかった。


 トイレの個室に駆け込んだかがみは、洋式便器に向かってしゃがみ込むと、襲い来る吐き気に備えた。顔面から血の気が引き、続けてサラサラの酸味が含まれた唾液が頬の内側から溢れてくる。呼吸は浅く早くなり、冷たい汗が額を這う。胃がムカムカし、全身が全霊を持って胃の中身を吐き出す準備をする。


 だが、一人になったことで緊張が和らぎ、結局嘔吐には至らなかった。それでも上がったままの心拍数は下がる気配を見せず、手足の先から奪われた体温は戻ってこない。和らいだとはいえ、まだ全身が緊張状態にあるのだ。


 かがみは閉じた便器の蓋の上に座ると、膝の上に肘を置き、両手で顔を覆う。吐き気は治まっていたが、口の中に残るサラサラの唾液が気持ち悪い。深い溜息と共に髪をかき上げて視線を上げると、シミに汚れた薄汚い天井が視界に入った。


 「あたしは、どうしたらいいの? お兄ちゃん」


 ぽつりとつぶやき、再び顔を手で覆う。あの女子生徒と対面しただけでトイレに駆け込んでいるようでは、まともな学校生活が送れるとは到底思えない。のみならず、健吾や暮月にもあっさりとばれてしまうだろう。昨日、そんな事態は絶対に避けると誓ったばかりなのに。


 トイレのドアが開き、二人の女子生徒が会話の華を咲かせながら入ってくる。たったそれだけのことなのに、個室に籠るかがみの心臓は大きく跳ね上がり、必死に気配を消そうと口元を両手で塞ぐ。二人が流し台のところで楽し気に会話している時間が妙に長く感じられて、かがみはただひたすらに、早くひとりにしてくれと祈った。


 二人の女子生徒がトイレを後にしてからも、かがみは個室に籠り続けた。そして予鈴が鳴ると、高鳴る心臓をどうにか抑え込み、意を決して教室に戻った。


 教室の後ろ側のドアからそっと入室したかがみは、ある事実を知って眩暈を覚えた。件の女子生徒の席が、今は空いているかがみの席の右斜め後ろだったのだ。


 そんな事すら気付いていなかったのかと絶望し、膝を折りたくなる。あの位置では、常に観察されてしまうではないか。


 「……逃げられないってわけね」


 口の中だけで呟いて、かがみは重たい足を気力で推し進める。彼女の横を通って席に着くのは嫌で仕方なかったが、あくまで平静を保つためには致し方がない。むしろ、こうもお膳立てされた状況なら、立ち向かってやろうじゃないの、と言う気概すら芽生えてくる。


 かがみは生唾を飲み込むと、前だけに視線を定めて、自分の席へとたどり着いた。





 半日不愉快な視線を右後方から受け続けたかがみは、昼休みには憔悴しきっていた。ホームルーム前に芽生えたはずの気概もとうの昔に枯果て、心の中は砂荒らしが吹きすさぶ荒野となっている。


 「疲れた……」


 机の中に教科書を仕舞いながら、思わず漏らす。緩慢な動きで机の脇のフックに掛けられた鞄から弁当箱を取り出すが、食欲はまるで湧かない。しかし残して帰ると健吾や暮月に勘繰られそうなので、気は進まないが箸を進める。


 赤しそのふりかけが掛かったご飯をゆっくりと咀嚼しながら、かがみは今日半日で気付いた女子生徒に関する情報を反芻する。


 どうも彼女は、このクラスには友人は少ないようだ。授業の合間に言葉を交わす相手は二人程度いるようだが、特別親し気な空気感は感じ取れない。つまりは、女子生徒が自分のことを言触らす可能性は低そうだ、ということが分かった。


 分かったことはそれだけだった。だが、かがみにとってはもっとも知りたい情報を知る事ができ、多少なりとも心の安寧を取り戻すことが出来た。


 あとは彼女が知ってしまった秘密を誰にも明かすことなく抱え続け、かつ自分との交流を持とうとしてこなければ、万事がうまくいく。そう思うと精神面が大分楽になった。今の精神状態なら、彼女に不意に声を掛けられたとしても、トイレに逃げ込むような事態には陥らないだろう。


 かがみは軽くなった胃袋に弁当を流し込むと、誰もいない場所に行きたくて、教室を後にした。向かう先は、中等部棟の屋上だ。屋上への出入りは自由で、何ならベンチが置かれている。先日行ってみた時には誰にも使われていないようで、以来、度々利用するようになった。


 四階から階段を上り、薄暗い塔屋のドアを開けると、雲の多い青空がかがみを出迎える。高等部棟の方へ目を向けると、三人の女子生徒が昼食を囲んでいるのが見えた。うち一人はかがみの姉、穹良だ。他の二人が半竜かどうかは分からないが、どちらにせよ、楽しそうにしているように見える。


 穹良が楽しそうにしているのは良いことだと思ったが、別に羨ましいとは思わなかった。ただただ、良かったね、と思うだけだ。


 かがみは、楽しそうにしている穹良の邪魔をしないために塔屋の陰に入ると、自分が移動させておいたベンチに横になり、流れる雲に視線を投げる。初夏の風は心地よいが、湿度はやや高めなきがする。もう少ししたら、雨が降ってくるかもしれない。


 ふと、昨日正体を女子生徒に露呈してしまった瞬間のことを思い出す。あの時自分はどんな顔をしていただろうか。きっと、ひどく怯えたような顔をしていたに違いない。一方の彼女は、怯えるではなく、むしろ興味を示しような目をしていたように思う。


 「弱いのは、どっちなんだろう」


 個の能力では人間を圧倒できる竜族が半竜を生み出さざるを得ないまでに追いやられた理由は、集団としての能力が劣っていたからだ。だからこうして人間を模した姿を取っているが、代償として力も弱く、人間の数の力に対抗しにくくもなった。


 擬態が明るみになれば、社会的に抹殺され、この世界に居場所など無くなる。だったら人間のルールに縛られない、竜としての生を受けた方が良かったくらいだ。


 「あたしが竜だったら、どんな感じかな」


 そんなことを考えながら、時間を過ごしていると、思いのほかあっさりと昼休みは終わりを告げた。


 この日、件の女子生徒が声を掛けてくることはなかった。だが視線は感じ続け、かがみの疲弊はここ数年間で一番のものとなった。


 家に帰った後、平静を保つのに必死だったことは、言うまでもない。

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