二章33 姉妹
「……なんで」
静かな問いが、穹良の鼓膜を揺らす。穹良は黙って、かがみの言葉を待った。
「なんで、つっきーには笑顔を向けるのに、あたしには向けてくれないの?」
かがみの問いが鋭利なナイフとなって、胸に刺さった気がした。
「なんで本当の妹のあたしには、向けてくれないの?」
泣いている訳ではない。怒りが含まれている訳でもない。ただ疑問を解消したいように思えるその口調が、かえって穹良に突き刺さる。こうやって感情を殺さなければ生きてこれなかった事実の一端を見た気がした。
「あたしの姉なんかやめて、つっきーの“ねえね”になればいいじゃん」
「私の妹は、お前だけだ、かがみ」
「なら」
かがみの語気が微かに強くなるのを感じて、穹良は椅子から腰を浮かす。かがみが立っている前で座っていることに、居心地の悪さを感じた。
「なら、なんであたしから逃げるの」
「逃げてなどいない」
「嘘。あたしが見るときには、いつもあたしの方を見てない」
「それはお前が――――」
「あたしが、なんだって言うの」
顔を上げたかがみの目を見て、穹良は口をつぐんだ。そして決して口にしてはならないと思った。「お前が見てくれないから」となど、言えるはずがなかった。
穹良が押し黙ったので、かがみが言葉を続ける。
「あたしを捨てていなくなったくせに」
「私は、」
「あたしから逃げる理由をあたしに押し付けるの?」
「私は!」
思いのほか大きな声が出てしまったことに穹良自身が驚く中、かがみも軽く目を瞠っている。かがみが言葉を区切った今がチャンスだと、入学式の日の夜に言えなかった言葉を穹良は口にする。
「私は、お前を捨ててなどいない。だが、お前と一緒にいられない状況が続いたことも事実だ。でも信じて欲しい。そうすることが、お前にとっても最善だった。そしてやっと、お前の元に来ることが出来た。こんなこと急に言われても困るだけかも知れない。でも、言わなければいつまでも伝えられない。だから言う」
かがみは黙って穹良の声に耳を傾けている。話の腰を折る雰囲気はない。言うなら今しかないと、穹良は覚悟を決めて深く息を吸い込む。
「私に、失われた十年間を、やり直させて欲しい」
声の余韻が、響くはずのない台所の中に響く。言い終わってからかなりの間が空いたが、かがみは返答しない。短いはずの長い時間が過ぎ、かがみがゆっくりと口を開いた。
「……何言ってんの? そんなこと、出来る訳ないじゃん」
覚悟はしていたつもりだが、いざその言葉を聞くと応えるものがある。だが、当然の結果であることも承知している。これまで何もしてやれなかったのに、自分の望みだけ叶えようとするなど、虫がいいにも程があるというものだ。
「時間は戻って来ないんだよ。あたしがずっと抱えてた寂しい気持ちも、どうにも出来ないんだよ」
かがみが一歩前に進み出る。
「あんたが十年間何してたかなんて知らないし、今更興味もない。あるのは、私が一人にされたっていう、事実だけ」
一歩、また一歩と、前に進み出る。そしてついに、穹良のつま先にかがみの足の指が乗るまでの近さになった。穹良の眼前で、かがみのポニーテールが小さく揺れる。
「でも、これからの時間なら過ごせる、でしょ?」
ぱっと上げたかがみの顔は、泣き笑いのような、複雑な表情をしていた。そして。
軽い衝撃があって、穹良は衝撃の正体をしっかりと受け止める。かがみが抱きついてきたという事実が一瞬理解できなかったが、すぐに愛おしき妹の背中に手を回す。胸の中でかがみが顔を動かし、それからくぐもった声を発した。
「もう、どこにも行かないでよね」
華奢な体を抱き締める腕の力を強め、片手をかがみの頭に回す。繊細でさらさらとしたかがみの髪の毛を乱すように撫で、耳元に顔を近づけて確実に言葉を届ける。
「ああ、行かない。一緒だ」
その言葉を聞いて安心したのだろう。かがみの腕に一層の力が込められ、そこに待ち焦がれた姉がいることを確かめるように背中を擦る。そして感情をため込んでいたダムが決壊したのだろう。かがみの体が小刻みに震え、嗚咽を漏らし始めた。
「かがみ……?」
「……怖かった」
怖かったと言っているのは、先刻の駅前での出来事のことだ。飛竜の攻撃から健吾を守ろうとして、かがみは死にかけている。結果的に穹良のおかげで助かったものの、眼前に迫る飛竜の炎息と向き合った時には生きた心地がしなかった。そして今、緊張の糸が切れたことでその時の恐怖が押し寄せてきたのだ。
「あたし、死ぬんだなって思った」
膝の力が抜けてへたり込むかがみに合わせて穹良も床に座り、かがみの体を抱き寄せる。穹良は背中から四枚の、蜻蛉のそれに似た羽を展開。更にその羽を覆うようにして、純白の白鳥のそれに似た羽を展開し、抱き寄せたかがみごと自分の体を包み込む。
「怖い思いをさせて、済まなかった。でもお前のことは、私が必ず守る。私の力は、大切なものを守るためのものだ」
「約束だよ? 破ったら、ただじゃおかないからね」
「ああ、約束だ」
二人だけの静かな時間が続く。多くは言葉を交わさなかったが、今の二人にはそれで十分だった。互いが互いの存在を確かめる時間こそが重要であり、そのために時間を費やす必要があった。
「ねえ穹良、あたし、まだ言ってないことがあったの」
「……なんだ」
穹良からしてみれば、かがみが急に態度を軟化させたように見えている。だから正直言うと、まだ油断した訳ではなかった。例えどんな理不尽を言われても、受け入れる必要があると思っていた。そのため穹良は、少しだけ身構えてしまう。だがかがみの口から発せられた言葉は、意外なものだった。
「おかえり、穹良」
まさかの言葉に戸惑い、そして、表情を崩して応える。
「ただいま、かがみ」
十年という期間は姉妹の間を引き裂き、大きな心の溝を築いた。だがそんな溝は今、二人の歩み寄りによって埋め合わされた。埋まっただけで、まだどちらも相手側に渡った訳ではないかも知れない。埋めたといっても、はまったら抜け出せないほどの泥濘かも知れない。だが今重要なのは、埋まったという事実だ。より歩み寄りやすくなったという事実が、重要なのだ。
この日は二人にとって、姉妹として再スタートする上で重要な記念日となった。
「へー、そんなことがあったん。朝から大変だったんな」
健吾の部屋のソファに座って足をブラブラさせながら、暮月は健吾の話に耳を傾ける。健吾はあちこち擦り切れ、ススや泥が付いたブレザーを壁のハンガーに掛けながら、今朝の出来事に思いを巡らせる。
「まさか昨日の竜が来るとは思わなかったけど、竜脈が乱れてるんだもんな。認識が甘かったと言えば、甘かったな」
竜に対しては、想定という言葉は通用しない。あくまで行動の傾向を掴めるという程度の認識に留めなければ大きな災いとなって降りかかることは、特に日本人なら心に刻んでおくべき事項である。それを忘れて警戒を怠ったことは健吾の怠慢であるが、あの飛竜を感知することが極めて困難であったことも、また事実だ。
「やっぱり、訓練するしかないのか」
人でありながら竜力を感知できる璃那は、幼少期に訓練を受けていたと言っていた。それがいったいどのような内容のものなのかは分からないが、手段が無い訳ではないということになる。健吾は半竜であるのだから、人間である璃那がその技能を習得するよりは簡単に出来るはずだ。
「そういや今更思ったんだけど、暮月はなんか感じたりするのか? 竜力濃いなー、とか」
「うん、感じるんよ。それに見た目で分かるかは分かんないけど、ちょっと角伸びてるんよ」
ベッドの上でアヒル座りをしていた暮月が、健吾に角がよく見えるように前傾姿勢を取る。
「え、ほんと? どれ……」
健吾に見やすいように傾けられた頭に手を添え、頭頂部前方に生えている二本の角を触ってみる。暮月はと言うと、期せずして頭を撫でてもらえたことで嬉しそうにしている。
「ほんとだ。ちょっと伸びてる」
ぱっと見では分からない程度だが、触ってみると確かに伸びている。暮月の角の長さは通常では四センチほどだが、今はそれより五ミリ程度伸びているようだ。角の先端の角度が、普段より鋭利になっている。
暮月の頭の角には、大気中の竜力を探知・吸収し、体内の竜力濃度を一定に保つという役割がある。と同時に過多になった竜力を蓄えるという機能も持つ。角が伸びるという現象は、彼女の体内の竜力が飽和した結果なのだ。
「にいに」
「ん?」
健吾の視線の下で、頭頂部を見せていた暮月が顔を上げる。その目はいつになく真剣そのもので、健吾は彼女の思いを受け止める必要性に駆られた。
ベッドの上でのアヒル座り状態から膝立ち状態になり、健吾と目線を合わせる。そして一瞬の間を置いてから、健吾の存在を確かめるように抱き締めた。
「……ほんとに、にいにたちが無事で良かったん」
「うん、心配かけて、ごめんよ」
健吾も彼女をしっかりと抱き締め、思いを受け止める。とその時、健吾の部屋のドアがノックされて、健吾が応える間もなくドアが開けられた。
「……邪魔したな」
顔を覗かせて二人の熱い抱擁を目にした穹良が、謝罪と共にスッと身を引く。
「いやいやいやいや、邪魔なんかじゃないぞ!」
「そうなん! ねえね、入ってきていいんよ!」
慌てて引き留める二人の様子を目を細めて眺めてから、穹良は小さな嘆息と共に再びドアを開ける。
「そうか? なら失礼するぞ」
そう言って部屋に入ってきた穹良の後ろには、かがみも付いてきている。「なに、またいちゃついてたの」と小言を口にしながら入室したかがみは、健吾に向かい合うようにして立つ穹良の隣に立った。
そこでふと、健吾は異様な光景を目にして、穹良とかがみの顔を交互に見る。
穹良の左手の薬指、小指の辺りを、かがみの右手が居心地悪そうに握っているのだ。かがみ自身も、どこかバツが悪そうにしている。
「健吾、礼を言わせてくれ。今日こうして、かがみとしっかり話す機会を得ることができた。お前のお陰だ」
「いや、俺は何も……」
そうだ、何も出来ていない。二人の仲を取り持つと言っておきながら、結局何もしてあげられなかった。それなのに礼を言われてしまっては、健吾の立つ瀬がない。が、穹良は静かに首を振った。
「仲立ちをしてくれると言ってくれただけで、私はとても嬉しかったんだ。それに、難しい問題に立ち会ってくれていたことは、何となくだが理解している。私とかがみ、両方に寄り添ってくれようとしてくれただけで、十分だ」
「でも……」
なお食い下がろうとした健吾を制止したのは、かがみの発言だった。
「健吾、ごめんね。あたしが意固地になってたせいで心配掛けて。つっきーも、ありがと。でももう大丈夫。まだ完全にじゃないけど仲直りできたから」
若干含みのある発言にも聞こえたが、かがみの「手を繋ぐ」という行動が、発言の証明になっている気がする。もっとも、演技である可能性は考慮すべきだが、その可能性を考慮することはかがみを疑うことと同義であり、それは義兄としてしたくなかった。信じてあげることこそ、健吾がしてあげられることだ。
「そうか」
短く応じて、健吾は再び二人に目を向ける。目の前には、少し歪な姉妹の形があった。
「ねえねもかがみんも、良かったんな。これでまた一緒に遊べるんな」
ベッドから降りた暮月が二人の元へ駆け寄り、繋いでいた二人の手に自分の手を重ねる。まるで二人の仲をより強固にするかのようだ。
暮月の言動で、二人は相好を崩す。そして三人の少女は、静かながらに、会話に花を咲かせた。
そんな三人の邪魔をしないよう、健吾が静かに退室したことに穹良が気付いたのは、健吾が退室した数分後の事だった。




