二章21 小さな一歩
朝。目を覚ますと、かがみはいつもと違う風景を目にした。布団や枕の色、部屋のレイアウトがよく知っているものと異なる。
「……あれ、あたし……」
敷布団に腕を突いて上体を起こし、開き切らない目でゆっくりと辺りを見回す。少しの間があって、かがみはようやく、健吾の部屋で寝ていたことに気が付いた。
「そうだ、あたしお義兄ちゃんの布団で寝てたんだ」
思い出して、呑気に伸びをする。背骨がいくつか心地よい音を立て、肩回りの緊張がほぐれた。上に伸ばした腕と呼応するように、背中から四枚の羽が展開する。おとぎ話に登場する妖精の羽の様な細長い形状の、青く透明な羽が、まるで花開くかのように伸びて広がる。カーテンの隙間から差し込む朝日が羽に当たり、透けた水色の光が壁に映えた。
ベッドの上でしばし微睡んだのち、かがみは暮月に見つからないように細心の注意をしながら、健吾の部屋を出た。
甘えんぼかがみのことは、義兄である健吾以外には内緒なのだ。
「おはよー」
かがみが台所に降りていくと、朝食の用意をしていた健吾と幸子がこちらを振り向く。
「おう、おはよう」
「おはよ、かがみん」
台所に入り、かがみはコップを取って水を汲む。喉を鳴らして一気に飲み干すと、水の心地よい冷たさが五臓六腑に染み渡る。
「健吾」
使ったコップを洗いながら、傍らの健吾に声を掛ける。
「ん?」
「昨日は、ありがとね」
顔を向ける健吾に、かがみは悪戯っぽく微笑みかけた。
「ごちそうさまでした」
慣れつつあった、幸子を含めた三人の朝食も今日で一旦終了だ。幸子は今日東京の職場へと戻り、今夜からは暮月を含めた三人、そして明日の朝はかがみと二人で食事を摂る生活に戻る。そう思うと、少しだけ寂しいような気もした。
「何時くらいに出るの?」
食器を片付けながら、健吾は幸子に尋ねる。健吾とかがみはもうじき登校のために出てしまうので幸子が何時に出ても関係はないのだが、出来れば暮月が起きてくる時間より後に出てほしいな、と言う思いがあった。
「んー? お昼くらいかなー」
「あ、割とゆっくりなんだ」
思ったより出る時間は遅めだった。学校に行っていない暮月が起きてくる時間はだいたい九時過ぎなので、幸子が出かける前に話したりする時間は十分にありそうだ。
朝食後、自室に戻って学校へ行く準備を済ませた健吾とかがみは、玄関で幸子の見送りを受けていた。
「じゃあ母さん、行ってきます」
「行ってらっしゃい。何か困ったことがあったら、遠慮しないで言ってくるんだよ。あんたたちの悩みを共感できる人は多くないんだから、ね」
健吾とかがみに、幸子は優しく笑いかける。その笑顔の中には、子供たちに対する申し訳なさの様なものが見えた気がした。
きっと、幸子が抱える悩みも、共感は得られないだろう。誰にも話せず、一人で抱えているに違いない。
そう思うと、健吾の心中には少し重たい気持ちが広がっていく。だが、今は朝だ。朝から悲観的になっていると、今日一日のコンディションに影響しそうに思える。
健吾は気持ちを切り替えると、幸子の顔をしっかりと見る。
「うん。母さんも、仕事無理しないでね」
「分かってるよ」
笑顔を向ける幸子に、健吾とかがみは手を挙げて応える。
「行ってきまーす」
重なる二人の声に、「行ってらっしゃい」と幸子が返す。健吾が玄関ドアを押し開け、二人は外に出た。
「おはよう、健吾」
右方向から声を掛けられて、健吾はそちらへ首を巡らせる。そこには、一〇八号室の玄関先に佇む穹良の姿があった。
「ああ、おはよう、穹良」
挨拶を返す健吾の左側から、かがみが姿を現す。穹良から見れば、健吾の奥からかがみが出てきたように見える位置だ。
健吾の奥から姿を見せたかがみが、穹良の方へ顔を向ける。かがみと目が合い、穹良は小さく肩をビクつかせた。しかし、意を決したように言葉を押し出す。
「お、おはよう、かがみ」
かがみと再会して既に四日経っている。朝は三日間経験したが、いまだにまともに挨拶を交わせていない。今日もきっと無視されるだろう。でも、ここで自分が折れるわけにはいかないと、穹良は己を奮い立たせる。そうして放った一言は、春の風に吹き消された。に思えたが。
「……おはよ」
小さな声ではあったが、穹良の耳には確かにかがみの声が届いた。
「え?」
諦めて、今日もダメだったと俯いていた穹良が、思わず疑問符をこぼしながら顔を上げる。その時既にかがみは穹良の方を向いておらず横顔しか見ることは叶わなかったが、何故か穹良は今の声が空耳でなかったことを確信した。
穹良に挨拶を返したかがみは、一人走って行ってしまった。
「あ、おい!」
健吾の声に振り返らず、かがみは道路に出ると丘を下っていく。
昨日語ってきた、不思議な夢の影響なのだろうか。かがみと穹良が挨拶を交わした事実は大変喜ばしい一方で、この状況が成立するまでにもう少し時間が掛かると思っていた健吾は、やや拍子抜けしていた。
「……かがみが、私に……」
かがみが行った方向に顔を向けていた穹良が、ゆっくりと健吾の方へ向き返る。その顔には、驚きと喜びの表情があった。
「返した、返してくれたぞ、健吾……!」
みるみる顔がほころんでいく穹良。その、嬉しそうに口角が上がり目が細くなる穹良の表情を見て、健吾の胸の家にも熱いものが込み上げてきた。
穹良が嬉しそうに笑っている。その事実が、とてつもなくうれしかった。
と同時に、穹良の表情が乏しかったのは、無表情なわけではなく、表情の現し方を忘れていたのではないかと思う。それくらい、今の穹良の表情は豊かに見えた。
「……ああ、よかったな!」
そして健吾は思い出す。穹良の笑顔は、可愛いのだと。
丘を駆け下り、商店街に差し掛かっていたかがみは、ここ最近のうちで最も機嫌が良くなっていた。
(言えた、あたしちゃんと言えた!)
まるで体が軽くなったかのように、かがみの足取りは軽い。
今日挨拶を交わせたからと言って、今すぐ普通に会話をするつもりはない。そんな事では、穹良を許してしまったも同然だ。意を決して挨拶を返したのは、今後安心して彼女に復讐していくためなのだ。
(どうだ! あたしは穹良のことを拒んでなんかない! だからあんたなんかに渡したりしないんだからね)
夢に出てきた、オレンジ色の髪を持つ少女を思い浮かべ、彼女に向かって心の中で言い放つ。
そう。絶対に渡したりしない。穹良にはこれから、沢山の復讐をしなければならないのだから。




