二章20 いらぬなら
穹良と共に夕食を摂った後、かがみは一人部屋に戻っていた。一緒に食事をすることはまだ許容できるとしても、その後の時間までを共に過ごす義理はないと思ったからだ。
「ったく、なに用で家に来んのよ。つっきーや母さんは勝手に上げるし」
部屋のドアを閉めてから、かがみは大きめの独り言を口にする。普段口数が少ないかがみではあるが、決しておしゃべりが嫌いなわけではない。ただ、話さないようにしているだけだ。その反動でか、かがみは人気のないところでは良く独り言を口にする。それが彼女の癖の一つだ。
ベッドの元へ歩み寄り、体重を前に掛ける。あとは重力に体を任せ、ベッドに体を沈める。ベッド内のバネが一度体を押し返したが、すぐに優しくかがみを受け入れた。
しばらくの間、大の字でベッドに体を預けていたかがみであったが、俯せであったために呼吸が苦しくなり、やむを得ず顔を左に向ける。
「ほんと、何しに来たのよ」
ため息に似た息を吐きながら、かがみはゆっくりと目を閉じる。
相変わらず表情は乏しかったが、今日の穹良は初日に会った時と比べ、明るくなっているような気がした。特に暮月と話しているときには、微かな笑みに似た表情になることもあったような気がする。その笑みに似た表情は、かがみが持っている幼少期の写真に写る穹良のものと酷似していた。
「やっぱり、穹良はあたしのお姉ちゃんなんだなー」
疑っているわけではない。むしろ、本能的な部分で彼女が自分の姉だということは認識している。ただ、生きている間に共にしていた時間より離れていた時間の方が長かったせいで、認識は出来ても自覚できていないのだ。
もし自分が拒まなければ、穹良は暮月に向けたような表情を自分にも向けてくれるのだろうか。自分が素直にさえなれば、穹良は自分を受け入れてくれるのだろうか。
でも、自分から素直さを奪ったのも、穹良だ。穹良が守ってくれないから、嘘で鎧を作るしかなかった。
その鎧から解放してくれるのも、穹良だというのか。
「お姉ちゃん、か」
短い時間ではあるが、集中して色々なことを考えたかがみの脳には疲労が溜まっていた。ただでさえ穹良が家に来るというゲリライベントをこなして疲れている。そんなかがみは、いともたやすく睡魔に魂を売った。
(あなた、お姉ちゃんと同じ匂いがするのね)
――――え? 誰?
聞き覚えのない声に、かがみは目を開けた。そこは先ほどまでいたはずの自分の部屋ではなく、まるで宇宙に浮いているかのような、もしくは光の届かないくらい水中にいるかのような、方向感覚が全く使えない場所だった。前後も上下左右も分からない、不気味な暗闇にかがみ一人が立っていた。
(その目、顔立ち、お姉ちゃんにそっくり。さすが、お父さんが同じなだけあるわよね)
――――ねえ、誰? どこにいるの?
声の主を探そうと、かがみは辺りを見回す。だが辺りには誰の姿も見えず、かがみはただ困惑することしか出来ない。
(ねえ、あなたって、お姉ちゃんと仲悪いの?)
かがみが顔を向けた方向と真逆の方向から声がして、かがみは後ろを振り返る。だがそこにも、見通しのきかない暗闇が広がっているだけだった。
――――そ、そんなこと……
ない、と言おうとしたが、言えなかった。言えるはずがなかった。穹良と会って三日。この間に口を利いたのは、初日の夜だけだ。その時でさえ感情に任せて言葉を吐き、穹良の声には耳を貸そうともしていない。そんな態度をとった姉と仲が良いなど、例え嘘でも言えなかった。
(やっぱり、そうなんだ)
かがみの心を見透かしているかのような口ぶりで、声が笑う。この時には既に、かがみは声の主を探すことを諦めていた。探しても無駄だということが、感覚的に分かっていた。
(私はお姉ちゃんに会いたくても、会えない。でもあなたは違う。心の奥では待ち望んでいたはずの、お姉ちゃんとの再会を果たせた。なのにあなたはその機会を活かそうとせず、過去の嘘とちっぽけなプライドに囚われてお姉ちゃんを拒み続けている。私は、こんなにも会いたがっているのに)
ふと、背中に悪寒が走って、かがみは首をすくめる。首筋から背中を誰かに撫でられたような気がして、気持ち悪い。
(ねえ、いつまでその態度を続けるつもりなの? お姉ちゃんは、あなたに会いたくて今日も家に来たんだよ? その意図を汲み取ろうともせずにいて、またいなくなってもいいの? いいから、ずっと頑なに拒むんだよね)
背後で、濃密な気配が蠢いた。やはり声の主が近くに居ることを察して、かがみは後ろを振り向く。
(あなたには、お姉ちゃんは必要ないんだよね。だったらさ――――)
かがみの肩に手が置かれ、恐る恐る手の主に視線を向ける。かがみの右後方に、その人は立っていた。オレンジ色の、やや天然パーマの掛かったセミロングの髪の少女がかがみの顔を覗き込んでいる。その顔に表情はなく、かがみの周りに広がるものと同じ虚空が張り付き、まるで顔に大穴が開いているように見えた。
その不気味な姿に、かがみは口に手を当てて声にならない悲鳴を上げる。そんなかがみに構わず、顔のない少女は先を続けた。
(私が貰って行って、良いよね?)
いつの間にか、少女の隣には穹良が立っていた。寂しそうな目をした穹良は、小さく口を開いて言葉を押し出す。
(かがみ、邪魔したな。さらばだ)
そういうと穹良はかがみに背を向け、少女に手を引かれてどこかへ歩み去ろうとする。
――――待って穹良、違うの、あたし、そんなつもりじゃ
まずいと感じ、二人を追いかけようと脚に力を込める。だがかがみの脚は一歩たりとも前に進むことは出来なかった。なぜなら、足元の空間から伸びてきた複数の黒い手が脚に絡みつき、行動を妨げていたからだ。
(遅すぎたんだよ、もう。残念だったね)
少女が振り返り、静かにそう告げる。顔はないはずなのに、笑っているように見えた。
――――そんな事ない。って言うかあんた誰なのよ。あたしのお姉ちゃんを返して!
(私は、お姉ちゃんとあなたの間に生まれた者。じゃあね、私の愚かな妹ちゃん)
――――……え?
少女の言ったことが一瞬理解できず、かがみの動きが止まる。その隙に少女はかがみに背を向け、再び歩き始めた。
――――ちょ、待って、置いてかないで……うわ!
不意にかがみの足元が揺らいだかと思うと浮遊感が襲ってきて、体が暗闇に沈み始めた。黒い腕たちが、かがみを空間に引きずり込んでいるのだ。
――――っ返して! あたしのお姉ちゃんを……!
だがかがみの叫びは誰に聞き届けられることもなく、手を伸ばしたまま沈んでいった。
「……いっで……」
何かが硬いものにぶつかる音と痛みで、かがみは目を覚ました。内耳の平衡感覚器が、体が左前方に傾いていることを知らせている。そうして初めて、かがみは自分が左手を何かにすがるように伸ばしたままベッドから半分落ちていることに気が付いた。脚はベッドの上に乗っているが、頭は床に打ちつけている。音も痛みも、自分の頭に起因するものだったのだ。
「ああ、あれ、夢だったんだ」
真っ直ぐに伸ばされた自分の腕を半眼で眺めて、ぼんやりと呟く。体を捻って下半身も床に下ろすと、ひんやりとした床がかがみの体温を奪っていく。その感覚をしばし堪能した後、かがみは体を起こして机の上に目を向けた。
時刻は午前一時を回ったところ。月明かりが微かに差し込み、夜目が利く状態では電気を点けずに時計の文字盤が見えた。
「……あの人、誰だったんだろ」
夢に出てきた少女のことを思い出して、ぽつりと呟く。つい先ほど見た夢とはいえ、あまりに鮮明に記憶に残っていて、気味が悪い。そう思うと、先程の夢が予知夢なんかの類に思えて、不安になってきた。
「まさか、本当にいなくなるなんてこと、ないよね……?」
口に出してみたら、更に不安になってきた。かと言って何かが出来るわけではなく、窓の外に視線を向ける。
「さすがにもう寝たかな……」
ふと思ったことを口にして、かがみは健吾の部屋の方に目を向ける。そしてしばし思案した後、健吾の部屋へと向かった。
健吾の部屋の前に来たかがみは、ドアを三回ノックした。返事がないことを確認すると、ドアノブに手を掛ける。鍵は掛かっておらず、かがみはドアを手前に引いて部屋の中に入った。
健吾は部屋の入り口に背を向けるような格好でベッドに横たわっていた。四月も中旬に差し掛かろうとしているとはいえ、夜はまだそれなりに冷える。羽毛の掛布団に頭まで包まり、布団の皴から足を折り曲げて寝ていることが分かる。
「……ねえ」
ベッドの傍らで立膝を付いて、かがみは健吾の肩に手を掛ける。軽く揺すってみたが、目を覚ます風ではない。
「……ねえ、お義兄ちゃん……」
かがみの性格には、二面性がある。口数が少なく、健吾に対しては薄い反応しか見せないのが普段の彼女だとすれば、一人になると独り言を多く口にし、健吾を「お義兄ちゃん」と呼んで甘えようとしてくるのがもう一面の彼女だ。甘えたい時期に年上のものからの愛情を得られなかったかがみは、ときたま健吾を「お義兄ちゃん」と呼び、人目のつかないところで甘えるようになってしまっていたのである。
「ねえ、お義兄ちゃんってば……」
深い眠りに就いているのか一向に目を覚まさない健吾の肩を、少し乱暴に揺する。するとようやく健吾はうめき声をあげ、それから寝返りを打ってかがみの方へ顔を向けると、薄眼を開けた。
「……なんだ、お前か。どうした……」
薄目は開けているものの、半分うわ言のように口にする。やはりノンレム睡眠中だったらしい。そんな健吾を起こしてしまったことに多少の申し訳なさを感じたが、かがみは自分の我儘を優先した。
「怖い夢見ちゃって、眠れなくなったの」
健吾の目は閉じているが、話は聞いているらしい。しばしの沈黙があった後、小さく口を開いた。
「……とりあえず、入るか?」
体をベッドの壁際の方にずらしながら、右手で布団を押し上げてかがみが入って来れるように空間を作る。
「……うん」
寝ぼけながらでも気を使ってくれる健吾の優しさが、かがみに微笑を与える。かがみは健吾の厚意に感謝して小さく返事してから、健吾の布団に潜り込んだ。
「怖い、夢……?」
健吾が無意識のうちに伸ばしているのであろう左腕に頭を乗せながら、かがみは頷く。
「お姉ちゃんがね、いなくなっちゃう夢。誰かと一緒に遠くに行っちゃうの。あたしが、いつまでも冷たくしてるから、だって」
「大丈夫、だ。穹良は、いなくなったり、しないよ」
「どうして?」
目を閉じたまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ健吾に疑問の目を向ける。
「あいつは、お前に会いたくて、でも、そう出来ない理由があって。だから、お前に謝りたいって、時間が掛かっても、お前と話したいって。んで、俺が約束したんだ。穹良とかがみが話せるようにするって。でも、難しい、な。お前の気持ちも、分かるからさ」
穹良が自分と話がっていることは雰囲気から分かっていた。でも聞く耳を持たなかったのは、自分がこれまで放って置かれたことに対する報復をしたかったからだ。
でも、先程の夢はかがみにとってはあまりに不気味に思えた。それこそ、正夢なのではないかと思えるくらい、妙にリアリティーがあった。もし現実のものになったら、穹良が再びいなくなってしまったら。
――――仕返し、出来ないじゃん
「あたしが話を聞いたら、お姉ちゃん、喜ぶかな」
「そりゃ、当然、だろ……」
健吾の声が小さく、途切れ途切れになっていく。再び睡眠へ戻ろうとしていた。
「でも、急には話せないよ」
かがみの問いかけは、夜の静けさに溶けて消えて行く。健吾が問いに答えることはなく、部屋には健吾の規則的な寝息が微かに響くだけだ。時折風が窓を揺らし、部屋の中の空気が揺らめく。
夜目に慣れているかがみは、健吾の寝顔を眺めた。普段は義兄として二人の義妹に色々と気を使っているようだが、寝顔からは健吾の素の表情が見て取れる。年上に対して使ってよい表現かはよく分からなかったが、かがみはその寝顔を、かわいいと思った。
「挨拶くらいなら、あたしにも出来るかな」
穹良からの挨拶を返したら、どんな顔をするのだろうか。暮月に向けた以上の顔を、返してくれるだろうか。
――――だと、嬉しいな
そしてかがみもゆっくりと目を閉じ、健吾の温もりを感じながら、やがて夢の世界へ潜っていった。今度は、悪夢は見なかった。




