一章3 初登校
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃーい。気をつけてねー」
玄関から顔を出してヒラヒラと手を振り見送る幸子に手を振り返しながら、真新しい制服に身を包んだ健吾とかがみが坂道を下って行く。
西島家が越してきた旧大津市は、高島市と並んで三十年前の竜による災害で最も被害を受けた自治体であり、特に被害の大きかった北部半分を竜宮市として分離し、行政区域を一新した。健吾たちの住むアパートはこの竜宮市の、大津市との境にほど近くにある被災を免れた丘陵地に位置している。この丘陵地の西側の山地を超えれば京都府だが、健吾たちの住むこの丘もかつては森林に覆われた山地だったらしい。まずはこの丘を下り、商店街を抜けて大きな交差点を渡れば新西湖線の天智駅がある。
天智駅に近づくにつれて、健吾たちのものと同じ制服を着た人がちらほら見え始めてきた。中には、少し大きめのサイズのものを着ている人もいる。そういった人はきっと体が成長することを見越して買った、新入生だろう。
「緊張するか?」
商店街を抜けた交差点で、信号待ちに立ち止まる二人。かがみは先ほどから周りを警戒するように視線を巡らせたり、家で結んできたポニーテールを解いて結び直したりと、落ち着きがない。そして何より、健吾の制服の袖を掴むという、家では絶対にしないことをしている。
「しないとでも思ってんの? そりゃ、あんたは入学だからいいかも知んないけど、あたしは転校だよ?」
「そうだよな。ごめんな、また一から苦労させることになって」
有翼半竜であるかがみは、その正体を隠すために人とのコミュニケーションを避けてきた。もしその正体がバレれば、日常生活を送ることが困難になる可能性があるからである。
かつて竜は、強大な力を有し、人間では到底攻略不可能な破壊の権化であった。竜の絶対的な力に畏怖し、神と同等またはそれ以上の存在として崇めてきた歴史がある。
一方で、竜はただ害をなすだけの存在ではなかった。縄張りの意識が強い竜は侵入者を排除しようとするため、その性質が無用な戦争を防ぐといった側面もあったのである。
しかし近年の科学技術の発展に伴い、人間製の兵器で竜の攻略が可能であることが分かってくると、人間の竜に対する認識に変化が訪れた。竜は破壊を撒き散らす害悪であり、その討伐は正義と考えられるようになってきたのだ。
人間からの反攻に加えて、産業革命以降の自然環境の破壊によって、竜はもともと少ない数を更に減らした。そこで竜が後世に血を残すために作り出したのが、人間の特性を持ち合わせた、人間界に紛れ込める竜、すなわち半竜である。
だが半竜は人間からしてみれば、純然たる竜よりも避けたい存在だ。外的特徴のない半竜は見た目で判別がつかないのだから、当然である。日本はまだ島国特有の国民性から、共存とまでは言えなくとも一定の理解がある。だいぶ薄れてきてはいるが、竜を神と崇める信仰も各地に残存している。だが他国では、半竜をターゲットとした凄惨な事件が毎日起きているのだ。
「別に、あんたが謝んなくても。でも、かったるいのは本心かな」
前の学校に居れば、かがみは教室内で築いた立場を継続していればよかった。だが新しい環境に身を投げ出すことで、また立場を構築することから始めなくてはならなくなる。「安曇野さんは暗くてノリが悪いつまらない奴」という、最底辺の立場を。そしてその苦労を、健吾は肩代わりできない。
「辛かったら、話してくれよな。それくらいしか出来ねえけど、それなら出来るから」
信号が青に変わる。周りと合わせるように歩き出すが、健吾にはかがみの歩が重たそうに見えた。
当然だ。辛くないはずがない。教室内の最底辺に望んで沈みたい者が、どこにいるだろうか。多感な思春期を過ごし、時には人生における友や経験を得る学校生活を、始まる前から悲観していていいはずがない。
だが、今の日本では半竜は学校に行けているだけで恵まれている。たとえ本人に学校に行く気があり、その後のいじめ等の不遇な扱いに耐え抜くだけの精神的強さがあったとしても、そもそも学校側が入学を拒否するという事例があるからだ。人間を上回る力を持つ半竜が校内でトラブルを起こせば、人間の教師には対処は難しい。だから、学校に行きたければ正体を隠すしかないのだ。
「意外とな、人って自分のことに忙しくて、周りのことなんか見てないことも結構あるんだよ。だからきっと、お前の周りの奴らもお前が思っている以上にお前のことは見てないもんだ。見たとしても最初だけだし、その最初の時に繋がりを持たなければそれでおしまいだ。前の学校でもそうだったろ?」
違う。こんなことを伝えたいのでなはい。かがみの沈んだ心を少しでも軽くしようと言葉を選んだはずなのに、実際に出てきた言葉はまるで、さっさと無視されろ、と言っているみたいだ。新しく始まる学校生活を前向きに捉えてもらいたいはずなのに、安易な励ましが無責任に思えて、こんな言葉しか口にできないことが兄として情けない。
「……うん」
一拍の間があって、力ない返答。
今の台詞を、かがみはどんな気持ちで聞いただろうか。聞いて、何を感じただろうか。
次に紡ぐ言葉を頭の中で組み立てようとしながら、健吾はふとそんなことを考えてみる。
自分が今の台詞で伝えたかったことは、かがみに伝わっているだろうか。それとも別の意味に捉えられてしまっただろうか。そのことは本人に聞いてみなければ分からないし、聞いたところで本当の答えが得られるかも分からない。
――――本当に力不足な兄だな、俺は。
「まあ、なんだ。新しい環境に飛び込むんだし、せっかくなら少しは楽しめるといいな」
そうだ。せっかく新天地に来たのだ。かがみの心配事はもっともだが、どうせなら楽しく過ごせた方が良いに決まっている。それで悩みが増えるようなら、健吾が減らしてやればいいのだ。
「別に学校は勉強しに行く場所だし。楽しむために行く場所じゃないし」
健吾の袖を掴んだまま、顔を背けて、聞き耳を立ててようやく聞こえるような小声でそう言う。顔を背けているということは、少なくとも本心ではないのだろう。
「んなこと言うなって。無理しろとは言わないけど、どうせなら楽しい方が良いだろ。友達だっていた方が楽しいし」
「そりゃそうだろうけどさ」
俯きながら、今にも消え入りそうな声で反論を試みる。が、その先の言葉は出てきそうにない。帰ってくる言葉があるとすれば、「出来たらやってるよ」といったところか。
まあ、今すぐと言うのは無理がある。徐々に、徐々に出来るようになっていけばいいのだ。そうしてゆくゆくは、友達と呼べるような人間関係を築いていってほしい。それが健吾の目下の願いだ。
「でさ」
「なに?」
健吾は自分の左袖に視線を落とす。そこではかがみの小さな手がギュッと握られていた。
「俺は構わないんだけど、いつまで袖掴んでんの?」
健吾の言葉にハッとしたような顔をして、かがみは自分の右手が何をしているのかを認識する。そしてから、無言で健吾の腕を振り払う。
「なんでもっと早く言ってくんないの?」
健吾を睨みつけながら、かがみは語気を強める。
「お前から掴んできたんだろうよ……」
ひどい義妹である。勝手に掴んできておいて勝手に怒られるなど、理不尽もいいところだ。素直さ、という概念はこいつには無いのだろうか。これだから思春期の女の子は扱いづらい。だが、それくらい緊張していて不安だということだろう。
やれやれと内心嘆息したところで、二人は新湖西線天智駅に到着した。駅の大きさの概念はよく分からないが、小さくはない駅だということは健吾でも分かる。ここから五駅分北に進めば、今日から二人が通う学校がある。
『間もなく、一番線に下り列車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側に下がってお待ちください』
構内アナウンスの鳴り響くホームは、それなりに混雑していた。通勤時間帯ということもありスーツ姿が多いが、健吾たちと同じ制服の姿も一定数見える。横に目を向けると、談笑している女子のグループが見えた。彼女たちは在校生なのか、それとも顔なじみの新入生なのか。
金属同士が擦れ合う甲高いブレーキ音を響かせながら、風を纏った四両編成の列車がホームに滑り込んでくる。空気が勢いよく抜けるような音がして両開きのドアが開くと、降りる人はまばらだ。その人たちを待ってから、ホームにいた人々が吸い込まれるように車内へと入っていく。
「――――ん?」
かがみに続いて列車に乗り込もうとした瞬間、視界の右端に物凄く気になるものが映った気がして、健吾は思わず立ち止まった。
「っあ、すみませんっ」
先に乗り込んでいたかがみに腕を引っ張られたのと、後ろの人にぶつかられて、健吾は慌てて車内に入った。後ろからぶつかってきたスーツ姿の中年サラリーマンの舌打ちが、健吾の鼓膜を震わせる。
『ドアが閉まります。ご注意ください』
構内アナウンスと発車ベルが流れて、両開きのドアがゆっくりと閉まる。健吾はかがみを空いていた席に座らせると、その前に立ち吊革に掴まった。
「ちょっと、何やってんのさ」
ガタン、という振動と共にゆっくりと動き出した車内で、かがみが小声で健吾を叱責する。
「いや、なんかすげー気になるものが見えた気がして」
「入り口で急に立ち止まったら危ないでしょうよ」
「……以後気をつけます」
至極当然のことを注意されて、健吾には返す言葉がない。
「で、その気になるものって何だったの?」
何だったか。顔を上げて聞いてくるかがみに、健吾は呻ってしまう。見たものが何と判別できるほどしっかり見えたわけではないし、どちらかと言うと見えていた“もの”そのものより、それの“色”の方が健吾の中では重要だ。
――――あの色はまさか。いや、そんなはずは
「んー、リボンとか髪とか、長いものの先端だと思うんだけど、すげー綺麗な紅い色をしてて」
「赤くて長いものなんてあんまり無いんじゃない? あったら目立ちそうだけど、この車両には見えないね」
「そうだな……」
相槌を打ちながら、健吾は首をぐるりと巡らせて車内を見渡す。だがかがみの言うとおり、この車内にはいなそうだ。思わず立ち止まってしまうくらい、あの色を見た時には衝撃が走ったのだから、見落とすとは思えない。
「だめだ、やっぱ見つかんねえや」
隣の車両を覗き込みたいのはやまやまなのだが、あまりキョロキョロしていると周囲から挙動不審者と受け取られかねない。自分は見られていないと思っているときほど、周りの誰かからは見られていたりするものだ。
あれ、さっきかがみに言ったこととは逆だな。
しかし、見つからないものは仕方ない。健吾は探すのをあきらめて、車窓の外に目を向けた。
再建された街並みの向こうに、二位との差を更に広げた日本一の湖、新琵琶湖がその水面を輝かせている。今乗っている西湖線も三十年前に跡形もなくなり、琵琶湖の拡大に合わせてルートを変更した。その際、対竜の実験都市として整備された竜宮市と大津市の実験区を通る新西湖線も実験対象となり、他の鉄道では見られない特殊なシステムが整備されているという。
『間もなく、天野宮、天野宮。降り口は左側です』
車内アナウンスが流れて列車が緩やかに減速をかける中、健吾は先ほど見た紅と同じ色の髪を持つ少女のことを思い出していた。ただ思い出していたのではない。あの色を見た瞬間、もしかしたら逢えるのではないかと期待した。だがしかしすぐに、その淡い期待は丸めて捨てた。この十年間、何度佐藤司令に彼女の所在を知らないかと聞いたことか。新琵琶駐屯地にルシフェルが安置されているのに、彼女が来ないはずがないと思っていた。だが結局、今日まで来ていないという。
十年前、幼い健吾を森の中に置き去りにして、彼女は飛び去ってしまった。純粋に助けたいと思って行動したのは事実だ。だが、あんな仕打ちで返される謂れはない。
でも、やっぱり逢いたい。あの時の仕打ちの理由を聞きたいのもあるが、それ以上に彼女は健吾が幼かったなりに好きになった女の子だからだ。彼女も健吾と同い年だったはずだから、この日本のどこかで入学式を迎えるはず。そう思うと、なんだか感慨深かった。
「あいつ、元気かな」
健吾の独り言は、列車のブレーキ音に掻き消されて誰の耳にも入らなかった。




