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二章8 もう一つの再会


 「今年の一年生は元気みたいだね」


 男性養護教諭の坂中は、保健室に運ばれてきた二人の生徒の手当てをしながら独り言ちっていた。男子生徒は顎を強打して意識が飛んでいるようだが、諸々の検査の結果、ベッドで安静にして様子を看ることにした。女子生徒の方はたんこぶが出来ていたので、アイスパックを包帯で頭に固定してベッドに寝かせた。


 最後にベッドを囲うカーテンを閉めると、坂中は自分の机に戻り来訪者の記録を付け、それが終わると職員室へ報告するため、いったん保健室から出て行った。


 「……ん、ここは……?」


 坂中が保健室のドアを開閉した音で気が付いた健吾は、無意識のうちにぼんやりと呟いた。焦点の合わない目を瞬かせ、背中や手の感覚から、自身がベッドに横たわっている可能性を考慮し始める。やがて見上げている天井の模様が教室と異なること、そして右にずらした視線の先に自身を囲うベージュのカーテンを認め、健吾は保健室のベッドに横たわっていることを確信した。


 「なんだっけ。なんか、階段から落ちてきたものを受け止めようとして……?」


 頭がまだぼーっとしていて、自分が保健室に運ばれた経緯が良く思い出せない。確か、顔を知っている女の子が階段から落ちてきて、その直後に色々な出来事があった気がする。


 健吾は現在に至る経緯を思い出そうとしながら、上体を起こそうと全身の筋肉を動員する。すると背中と腹の筋肉その他が、健吾の脳からの命令に背こうとするのが分かった。痛みで、動かすなと訴えかけてくる。


 だが動かせないほどの痛みではなかったので、健吾はゆっくりと体を起こしてから、時刻を確認しようと左袖を軽くたくし上げる。九時過ぎ。一限が始まってから、それほど時間は経っていない。ということは、気絶してからも大して時間は経っていないらしい。


 ふと顎が張るような感じがして、ゆっくりと手を触れてみる。小さな繊維が毛羽立つような感覚がしたので、シップが貼られているのだろう。別のざらついた感触もあり、紙テープで固定されていることが分かるが、シップが貼られている感覚自体はない。そうしてようやく、健吾は顎を強打して気絶したことを思い出した。


 「あれ、そう言えばあいつ……あの子は」


 階段から落ちてきたあの女子生徒がどうなったのか気になって、健吾はカーテンを開けようと手を伸ばす。どうなったのかが気になるのは当然のこととして、誰だったのかが無性に気になる。人違いでなければ、あの顔は健吾の知っている人物のものだったはずだ。そしてその場合、彼女のことはあの子と呼ぶより、あいつと呼んだ方が相応しい。


 健吾の手がカーテンを掴む寸前、健吾に代わって外側からカーテンを開ける人物があった。その人物はカーテンを開けると健吾の方へ顔を覗かせ、結果的に健吾は先ほどの答え合わせをすることとなった。


 「やっぱ健吾じゃん」


 包帯でアイスパックを頭に固定した、いかにも活発そうな短髪の少女が、カーテンの隙間から顔を覗かせる。その顔をしっかりと認識して、健吾は目の前の人物が友人(?)のそっくりさんではないことを確信する。そして確信した途端、健吾は目の前の現実から逃げたくなってベッドに潜り込もうとした。なぜならこの少女は――――


 「ちょっと、なに隠れようとしてんのさ」


 女子のものとは思えないような力で、健吾の上掛けを強引に奪い去る。


 「なんでお前がここにいるんだよ、雪灘(せつな)


 雪灘と呼ばれた少女は奪い取った上掛けを手早く丸めて自分が使っていたベッドに放ると、健吾に顔を戻した。


 「なんでって、たまたまだよ、たまたま。健吾こそ、何でこんなところにいんのさ」


 少し視線を泳がせるようにしながら、健吾の質問に答える雪灘。問う方の健吾も、内心かなり動揺していた。なぜならば、健吾も雪灘も神奈川の中学に通っていたからだ。まさか滋賀の高校で再会することになるとは、思ってもみなかった。


 「別になんでだっていいだろ」


 雪灘から顔を背けて、ぶっきらぼうに答える。背後で、雪灘の「そうだね」という気落ちしたような声が聞こえた。


 重たい空気が保健室中に満ち、二人の間に沈黙が訪れる。数歩歩く雪灘のキュッキュッっという足音がしてから、ベッドの上に何かが落ちるような音がして、健吾は左に首を捻る。ちょうど、雪灘が健吾の方へ体を向けてベッドに腰掛けたところだ。


 「……ねえ、聞いていい?」


 足をプラプラと振りながら、雪灘が口を開く。


 「なんだよ」


 「こうして会ったのも何かの縁だし、あの時の答え、聞いていいかな」


 あの時の答えと聞いて、今度は健吾が目を泳がせる。雪灘が求める答えは、出来れば健吾は答えたくないものだ。第一、経験のない健吾には答え方が分からない。


 「あの質問てさ、するのに、結構苦労したんだよね。なのに健吾、答えてくれなかったじゃん」


 確かに、勇気のいる質問だっただろう。もしあの質問をする立場だったら、相当な精神エネルギーを必要としたはずだ。だから彼女の苦労に報いるためには、逃げてはいけない質問だったことは理解している。


 だが、一か月前の健吾は、答えずに逃げてしまった。


 「答えてくれなかった時点で、分かってるよ。でも、ちゃんと聞かせてよ」


 雪灘の声が少し震えているのが分かる。耐え難い感情を抑え込んで、冷静に言葉を紡いでいることも分かる。でも。


 答えを素直に口にすることは憚られるし、かといっていつまでも答えないわけにはいかない。一体どうしたものかと奥歯を噛みしめながら逡巡していると、音を立てて保健室のドアが開いた。


 「なんだ、二人とも起きて大丈夫か? 具合は?」


 カーテンを回り込むようにして顔を覗かせた坂下が、二人に声を掛ける。


 「ええと、お陰様で」


 健吾が答えると、坂下は笑顔で一つ頷き、壁に掛けられた時計に視線を移した。


 「今一限が半分過ぎたころだけど、どうする? まだ気分が優れなかったらそのままここにいてもいいし、教室に戻ってもいいよ。途中から入っていくのが嫌だったら一限が終わるまでいてもいい」


 その言葉に初めに応答したのは雪灘だ。


 「戻ります。アイスパック、ありがとうございました」


 ベッドから立ち上がると、雪灘は解いた包帯とアイスパックを坂中に手渡した。そして健吾に背を向け、保健室の出入り口まで行く。


 保健室を去り際、雪灘は立ち止まると健吾の方へ半分だけ振り返って、吐き捨てるように呟いた。


 「意気地なし。五限、覚えとけよ」


 それだけ言うと、さっさと保健室を出て行った。


 「俺は、もう少し休ませてください」


 雪灘が出て行った出入り口を見ながら、健吾は去り際に雪灘が向けてきた、悲しみに似た負の感情の宿った目に込められたメッセージに思いを馳せる。


 「うん、いいよ」

 

 坂下はそれだけ言うと、室内の自分の席に着いた。今の雪灘の所作を見て何か思うところがあっただろうが、健吾に何も聞いてこないことが今はうれしい。


 健吾は小さく謝意を述べると、組んだ両手を頭の下に敷いて仰向けにベッドに横たわる。


 思い出されるのは、中学最後の春休み前日、雪灘に呼び出された夕日に染まる教室だ。健吾と雪灘の二人きりという状況で、健吾は人生初の体験をした。潤んだ瞳でこちらを見上げる雪灘の朱く染まった頬を夕日の光が強調させ、その、いつにない雰囲気に緊張したのを鮮明に覚えている。それなのに、その時自分が抱いた感情がどんなものだったかはうまく思い出せない。曖昧で形容しがたい感情は記憶に残りにくいのだろうか。よく分からない。


 ただ、申し訳なく思ったことは覚えている。はっきりと答えられなかったことも、耐えられずに逃げ出してしまったことも。その悔恨の思いは必死に忘れようとしてきたが、今日思い掛けず再会してしまったことで、逆に記憶に色濃く刻まれることとなってしまった。


 頭の下に敷いていた両手を形を崩さずにゆっくりと抜き、頭頂から前に回して目元を覆う。何もかもが億劫に感じられて、健吾は気怠さに抗おうとせず目を閉じた。






 

 「お、やっと戻ってきたか。階段から落ちてきた女の子とぶつかって気絶してたんだって?」


 一限終わり後の十分休憩時間。二階にある自分の教室に戻った健吾を出迎えたのは、真の軽薄な二言だった。健吾としては真の要件を代わりに行って事故にあった訳だから、もっと別の、謝罪じみた言葉を掛けられると思っていたので、少し頭に来るものがある。


 ――――こいつ、俺がこのまま黙ってたら「羨ましい」とか言い出しそうだな


 「空から降ってきた女の子とぶつかるとか、どんなラッキーだよ。その感じだと、押し倒されたりしたんじゃないの?」


 ――――ほら、言いやがった。

 

 黙って席に着く健吾に振り返って話しかけてくる真であったが、健吾の暗い雰囲気を感じ取ると声のトーンを落とし、神妙な面持ちをした。


 「その、悪かったな。俺が仕事を頼んだばっかりにお前が怪我するようなことになっちまうなんて」


 もしかしたら、真は気まずさを取り繕うために軽いノリで声を掛けてきたのかもしれない。そう考えると、真の軽率な態度も許そうという気になる。そもそも、今気分が浮かばれないのは雪灘のことを考えていたからで、真に仕事を頼まれた結果人とぶつかったことはきっかけに過ぎない。無論、真はそんな健吾の事情を知るはずはないのだから、不機嫌の理由が真にあるように思われるのは不本意だ。


 「大丈夫だよ。それより後で授業のノート取らせてくんない?」


 不得意な作り笑いを真に向け、何とか普通に振舞おうとする。だが、こういう時に限って「普通とは」という哲学のような疑問が健吾の脳内を占領した。


 「ああ、ノートな。俺ノートまとめるの得意じゃないから汚いと思うけど」

 

 「大丈夫だよ、俺も汚いから」


 フォローになっているのか、いないのかよく分からない台詞を口にしていると、健吾の左側に影が差した。誰か来たのかと思ってそちらへ顔を向けると、穹良が健吾を見下ろすように立っていた。何か用があるのかと思って穹良が切り出してくるのを待っていると、穹良はおもむろに手を伸ばし、健吾の顎の下に親指を当てる。そしてグッと指先に力を込めた。


 「痛え! なにすんだよ!」

 

 腫れた部分を圧迫された鈍い痛みが、顎の骨に響くように伝わる。健吾は反射的に穹良の指先から逃れようと顔を逸らし、患部を手で押さえた。その様子を眺めていた穹良は一言。


 「赤いから押したら痛いだろうと思って」


 「そりゃ痛えよ! 痛いだろうって思うなら押すなよ!」


 思わず叫んでしまったが、これに対して穹良は何の反応も示さなかった。ただしばらく健吾の目を見つめた後、踵を返して自分の席に戻る。そして何事もなかったかのように、次の授業の準備を始めた。


 「安曇野さん、何がしたかったんだ?」


 健吾も思っていた疑問を口にする真に、「さあ」と答える。本当に何がしたかったのか分からない。


 ただ、再会してからというもの、穹良から健吾に何かしらのアプローチをしてくることはなかった。つまりは今のちょっかいが初めて穹良からのアプローチなのである。


 ――――穹良がちょっかいを出してきた。


 その些細な事実が健吾にとっては、とてもうれしかった。


 「健吾、どおした?」


 怪訝そうな表情をした真が健吾の顔を覗き込む。


 「ん? どうしたって?」


 「いや、なんかニヤケ面してるから。キモイなって」


 「キモイって言うなキモイって」


 にやついている自覚はなかったが、真の言う通りにやけているなら表情を引き締めないと、と思い健吾は両手で頬を叩く。だが叩いたそばから、健吾の頬は緩んでいった。


 穹良からちょっかいを出されたのだ。うれしくないはずがない。


 「やっぱ今のお前キモイぞ」


 うれしさの余韻に浸る健吾の耳にはもはや、真の小言は届いていなかった。



 

 


 

 

 

 


 

 

 




 


 

 

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