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二章7 降ってきた少女


 翌朝、西島家。朝食を終えた健吾とかがみは、台所の流しで並んで歯磨きをしていた。先に歯磨きを終えたかがみはコップを片手に口の中をゆすいで、流しに吐き出す。


 「で、今日もあいつと一緒に行くの?」


 かがみの言うあいつとは、穹良のことだ。昨日は一緒に登下校したのだが、今日のことまでは話せていない。できれば一緒に話でもしながら歩いて距離を縮めたいのだが、いかんせん健吾はコミュ障気味だし、穹良からは話す気が感じられない。


 「その予定にはなってない」


 「そ。振られたんだ」


 「なんでそうなる?」


 健吾の返答にかがみは答えず、ただ「ふふっ」と笑うだけだった。


 数分後。


 「ほらウスノロ、行くよ」


 先に玄関で靴を履いていたかがみは家の奥を振り返り、二階から健吾が降りてくるのを待っていた。健吾がバタバタと準備する音を聞きながら、かがみは玄関のドアノブに手を掛ける。


 昨日は健吾が勝手な約束をしたせいで一緒に登校できなかったが、今日は大丈夫だろう。穹良と一緒に行く約束はしていないと言っているし。


 昨日穹良と登校したことを謝ってきたのだから、今朝は鞄でも持ってもらおう。済まない気持ちがあるのなら、それくらい快く引き受けてくれるはずだ。そう思いながら、健吾を急かす意味も込めてドアノブを回し、ドアを押し開ける。押し開けたドアの隙間から差し込んだ朝の光がかがみの顔を照らし、明るい光に満ちた今日へ一歩を踏み出す――――


 「あ、お、おはよう」


 どういう訳か健吾宅前に立っていた穹良に声を掛けられて、かがみは一瞬あらゆる生命活動を停止しそうになる。


 ――――なんでこいつがここに


 状況的に見て、今家から出てきて偶然、というわけではなさそうだ。つまり、穹良は健吾の家の前で誰かを待っていたという事になる。


 ――――一度、ちゃんと考えてみた方がいいんよ。かがみんの、大事な家族のことなんだから


 昨日の暮月の一言を思い出して、穹良の顔を見る。相変わらず表情のない顔をしているが、目はどこか寂し気で、怯えているようにも見える。


 だが、かがみの知ったところではない。


 「健吾ぉ、やっぱあたし先行くわ」


 家の奥を振り返り、声を張り上げる。疑問符を含む健吾の声が返ってきたが、内容を聞き取るつもりはない。かがみは開けた玄関ドアを無造作に閉めると、わざと穹良の脇すれすれのところを通り過ぎて歩いてゆく。その後ろ姿を穹良が振り返っても、かがみはまるで何かを振り切るように、早足で丘を下っていく。


 「かがみ、何だって? あれ? どこ行った?」


 ドアを勢いよく開けて、健吾が外に飛び出してくる。ワイシャツの裾はズボンに収まっておらず、ブレザーはただ羽織っただけで、ネクタイは首に掛かっている。おまけにズボンのチャックは開けっ放しだ。いかに慌てて飛び出してきたかが分かる。


 「おはよう、健吾」


 「あ? ああ、おはよう穹良。あれ? なんでここにいんだ? かがみは?」


 健吾のだらしない格好を見て、穹良は溜息を漏らす。


 「かがみは私を見るなり、ひとりで行ってしまった。やはりまだまだ時間がかかりそうだな。私たちも行くぞ。まずはそのチャックを上げろ」


 穹良の指すチャックに視線を下ろして指摘を理解し、健吾は慌てて穹良に背を向ける。家ではチャックが開いていることも、そのことを義妹たちに指摘されることも稀にあるが、まさか穹良に注意されてしまうとは。


 無様に身をかがめてチャックを上げること数秒。健吾は穹良に向き直り、咳ばらいを一つして。


 「で? なんでお前がここにいるんだよ」


 穹良の家は健吾宅の隣なので、登校のタイミングが重なることは不思議ではない。だが穹良の部屋の方が通りに近いため、登校しようとするなら健吾宅の前を通る必要はない。


 「かがみが出て来る頃合いかと思って、来てみただけだ。見事に無視されたがな」


 「そうか」


 穹良が待ってくれていたことを少しだけ期待したが、そうではないらしい。残念に思いつつ、健吾の関心ごとは既に別の方向に向いていた。


 かがみに無視されたと言う穹良の顔が、昨日のように暗くないのだ。


 「なんつうか、落ち込んでなさそうだな」


 「む、そう見えるか? まあ、私も色々考えて、な」


 かがみが歩いていった方向を一瞥して、穹良は健吾に視線を戻す。


 「それに、お前が仲を取り持ってくれるんだろ?」


 「おう、任せとけよ」


 口では簡単に言っているが、現実問題としてかがみは心を閉ざしてしまっている。それでも、約束は約束だ。なんとしてでも、穹良がかがみと話せる機会を作る。


 健吾の言葉を受けた穹良が、手にしていたスマホに視線を落とす。そして時刻を確認して、顔を上げた。


 「立ち話はこのくらいにしておこう。私たちも行かないと、乗り遅れるぞ」


 「そうだな、行くか」


 こうして健吾は、図らずも穹良と一緒に登校することが出来た。かがみには申し訳ない格好となってしまったが、二人の仲を取り持つためには穹良との関係も良好にしておく必要がある。つまり、必要不可欠な行動なのだ。そういった都合の良い解釈をして、健吾は自分の行動を正当化することにした。代償に、今晩はかがみの好きな物を作ってやるとしよう。


 そう決めると、健吾は穹良と共に学校へ向かった。今日は昨日より自然に話せそうだ。






 約一時間後。竜ヶ台高校・高等部棟。一階にある職員室に向かう健吾は、愚痴を呟きながら階段を下りていた。彼の両腕の中には、三十数人分のプリントの束がある。


 「……ったくあの野郎。なんたって俺がこんなことを」


 健吾の言う「あの野郎」とは、真のことである。健吾は今、真の肩代わりをさせられていた。


 昨日のホームルームで、クラス内での様々な役割が決められた。その結果、真ともう一人の女子が学習係となり、クラス全員分の前日の宿題を朝のうちに回収し、職員室にいるクラス付きの先生のところへ持っていく役割を負うことになったのだ。


 そして今日が真たちの記念すべき初仕事の日なのだが、残念ながら女子の方は早くも体調を崩して欠席。真に関してはホームルームの直後に強烈な便意を催し、「すまねえ健吾、あとは、任せた」と腹部を押さえ、へっぴり腰の様な体勢になりながら、どうにか回収したプリントの束を健吾に押し付けてきたのだ。


 健吾としては面倒くさいので断りたかったのだが、押し問答をしていてこの場で漏らされてもたまらない。逡巡する間もなくプリントの束を受け入れると、フラフラとトイレへ急ぐ真を見送ったのだ。


 そして、現在に至る。


 「ってか、ウンコしてから運べばよかったろ、普通に考えて。一限までまだ時間あるんだしよ」


 文句を口にしてみたものの、便意の我慢を強いられている真を可哀そうに思ったのも事実だ。今頃彼は四階の個室で、安らかな顔をしていることだろう。


 そうこうしているうちに一階に着いた健吾は、職員室のドアを二回ノックし、ドアを開ける。


 「失礼します。宿題の提出に来ました」


 来訪の要件を簡潔に述べ、職員室に踏み込む。目的の机まで行くと、健吾はその席に座っている教師に声を掛けた。


 「若狭先生、宿題を持ってきました」


 呼ばれた新米女性教師にして一年二組の担任、若狭が健吾を振り返る。


 「あら、ありがとう。 あれ? この係って、あなたじゃなかったわよね?」


 笑顔で宿題の束を受け取った若狭は、次に不思議そうな顔をして机の上の顔写真付き名簿表に視線を落とす。


 「ちょっと頼まれて、代わりに持ってきました」


 「そうなのね。ご苦労様」


 若狭はもう一度笑顔を作ると、健吾に労いの言葉を述べる。その時、若狭の隣に座っていた中年の男性教師が、溜息を吐いた。


 「どうしたんですか? 松永先生」

 

 松永と呼ばれた男性教師は、若狭の声に顔を上げると、聞いてくださいよ若狭先生、という前置きを置いて、口を開いた。


 「うちのクラスに、初日から宿題を出さないバカ者がいるんですよ」


 どうやら隣のクラスの宿題は既に提出されていて、そのチェックをしていたらしい。用が済んでいた健吾は、二人のやり取りを聞きながら若狭の元を去ろうと身を翻す。背後で、若狭が「そうなんですか」と相づちを打つ声が聞こえる。


 健吾が職員室を出たタイミングで、校内放送の電源が入る音が廊下の天井のスピーカーから聞こえてきた。続いてチャイムが鳴り響き、松永の声が出力される。


 「一年三組東堂(とうどう)雪灘(せつな)、職員室の松永まで来なさい」


 ――――東堂雪灘?


 聞き覚えのある名前に記憶を巡らせていると、目の前の階段を下りてくる慌ただしい足音が近づいてきた。


 「ちょっと待ってって言ったのに、なんで先に持ってちゃうのさー!」


 足音の主が吐く文句が、階上から聞こえてくる。そしてプリントを右手に握りしめたその人物が一階の踊り場に姿を現した時、健吾は彼女の姿を認めて固まった。


 ――――なんでこいつがここに!?


 「あれ、健吾? あっ!!」


 こちらの姿を確認した声の主は駆け下りる勢いを殺せず、健吾の姿に注意を向けたことで足元がおろそかになった。踊り場から数段下ったところで足がもつれ、そのまま転倒することを避けようとして跳躍する。


 「危ない!」


 たまたま職員室前を通りかかった比較的長身で前髪の短い男子生徒が、死角から飛び出してきた少女の姿を認めて顔に恐怖の色を浮かべる。その男子生徒を健吾が反射的に突き飛ばした瞬間、健吾の視界には焦りの表情を浮かべた少女の顔が迫っていた。


 直後、落ちてきた少女を受け止めて胸に、そのまま吹き飛ばされて間髪を置かず背中に強烈な衝撃が走る。少女を抱きとめて背中を職員室の壁に強打した形となった健吾は、そのままずり落ちるような形で壁のもたれ掛かった。職員室に文字通りの激震が走り、壁際の教員が何事かと立ち上がる。


 「げほっ……、くそ、痛ってえなあ……」

 

 詰まる呼吸を何とか整えながら薄目を開けて、健吾は自分の状況を理解しようと努める。


 階段から落ちてきた少女が、健吾の胸に飛び込んできたのだ。それを受け止めようとして健吾は背中を職員室の壁に打ち付け、座り込むような格好になっている。そして目の前では結果的に健吾に頭突きを食らわした少女が、健吾の腹部に顔を埋めるようにして伸びていた。


 「なんだ今の音は!」


 ドアを開ける音と共に男性職員が廊下に顔を出し、すぐに健吾を目にとめる。そして健吾の傍らに膝をつき、声を掛けてきた。


 「大丈夫か!」


 「大、丈夫……です……」


 自分の声を自分で聞いても大丈夫でないのは明白だったが、無意識のうちにそう答えていた。狭窄し掛けた視界は焦点が合わず、今は顔を上げる気力もない。


 その時、何の前触れもなく伸びていた少女が顔を上げた。


 「痛ったー」


 その頭が健吾の顎に見事命中し、健吾は初めて目から火が出るということを体験する。


 「――――っっ!!!!」


 完全なる二次災害。視界が周囲から狭くなっていってブラックアウトするのを自覚した時には、健吾の上体は背中を壁に擦りながら右に傾いた。


 「おい、誰か担架!」


 叫ぶ男性職員の傍らで、後頭部を健吾の顎にぶつけた女子生徒が、患部を押さえて体を小刻みに震わせながら蹲っている。


 そんな事故現場を呆然と眺めるかたちで、健吾に突き飛ばされた男子生徒は廊下に尻もちをつきながら、状況を理解できていない風に目をぱちくりさせていた。だが職員室から出てきた教員たちは一様に倒れている二人の生徒の元へ向かうばかりで、自身に気を掛けてくれる者はいない。ようやく一人の男性教員から声を掛けられて、男子生徒は顔を上げた。


 「大丈夫か。一体何があったんだ」


 「あ、はい、大丈夫です。ええと、気が付いたら階段から女子が落ちてくるところで、ぶつかると思ったらあの男子が庇ってくれて」


 「それで結果あの二人がぶつかったということか」


 「はい、そうです」


 職員室内に備え付けられていたらしい担架で保健室に運ばれていく男子生徒と女性教員の肩を借りながらゆっくりと歩いていく女子生徒を、心配そうな面持ちで男子生徒が見送る。その時、一限の開始を告げるチャイムが校内になる響いた。男性教員が男子生徒へ視線を向ける。


 「君も保健室で見てもらうか?」


 「いえ、大丈夫です。どこもぶつけたりしてないので」


 「そうか。なら君は自分のクラスに戻りなさい」


 そう言って男性教師は職員室に戻っていった。


 「あの男子、もしかして」


 一人廊下に残された男子生徒の独り言は誰の耳に届くこともなかった。










 

 


 


 


 

 

 

 

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