二章6 かがみのもやもや
「ただいまー」
暗い玄関内に電気を点けると、二階から微かな足音が聞こえてきて、健吾はそちらに目を向ける。やがてその足音は一階に下り、小走りで近づいてきて、玄関と廊下を隔離する引き戸を勢いよく引き開けた。
「にいに、お帰りー!」
今日も元気に引き籠っていた、角持ちの半竜少女にして健吾の義妹である弥栄暮月が、兄の帰宅を祝してダイビングハグをかましてくる。歳は三つしか離れておらず、思春期真っただ中のはずなのだが、そのそぶりを全く見せてこない変わったのが不思議だ。
「ただいま。母さんは?」
健吾の胸にうずめた顔を上げて、暮月が背後を指さす。
「かあかは、部屋に籠ってるんよ。かあか、うちより引き籠りなんな」
引き籠りに引き籠り扱いされる母親というのも、そうそういるわけではないだろう。
「かがみんはお買い物行ったんよ」
「ああ、商店街で会ったよ。帰ってきたら、飯作んないとな」
暮月と二階に上がり、自室のドアを開ける。当然のごとく暮月もついてきて、健吾のベットに飛び乗るように腰かけた。
「今日はねえねと学校行ったんでしょ? どうだったん?」
どうだったか。何とも抽象的で、答えにくい質問だ。
「嬉しかったよ。夢の一つが叶ったしな」
壁のハンガーにブレザーを掛けながら、そう答える。
嬉しかったのは事実だ。だが残念なことに、あまりうまく話せなかった。会話も途切れ途切れで、キャッチボールというよりは互いが好きに投げ合っているような感じになってしまった。
互いに、ではなく健吾が一方的に、かも知れないが。
「よかったんな。明日も一緒に行くん?」
再び飛んできた答えにくい質問に、健吾はしばし押し黙ってしまう。背後で暮月が間の不自然さに首をかしげるのを、気配で察知する。
帰りに商店街でかがみと会った穹良は、再び拒絶された。そのせいで、家の前で別れるまで暗い顔をしており、明日のことを離せる空気ではなかった。それにそもそも、二人で歩く時間も沈黙が多く、決して楽しいと言える登下校ではなかった。
「タイミングが合えば、ってところかな」
歯切れの悪い返答に暮月は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。
「たぁーいまー」
健吾が帰宅したおよそ三十分後。すっかり暗くなったころに、買い物に出ていたかがみが帰って来た。かがみは間延びした声で帰宅を告げると真っ直ぐ台所に向かい、台所の引き戸を開ける。
「あ」
「お帰り、かがみ」
台所仕事をしていた健吾が振り返り、目が合う。
「……ただいま」
一瞬固まった後に目を伏せ、手に提げていた買い物袋を冷蔵庫の前に運ぶ。そして健吾に背を向け、買ってきたものを冷蔵庫に仕舞い始めた。
「今日はあたしが当番でしょ。ほら、出てって」
「当番だからって、一人でやる時ないじゃんか」
「今日は一人でやりたい気分なの」
かがみはいつも棘っぽい話し方をするが、今日は声に冷たさが上乗せされている。それにかがみはいつも、自分が当番の家事を健吾に手伝わせる。それが今日に限って一人でやりたいと言い出すという事は、彼女の行動に変化をもたらす何かがあったという事だ。そしてその何かを、健吾は知っている。
「今朝は、ごめんな」
「なに? 急に」
返答までに一拍の時間があった。
「穹良と学校行くって話、かがみにはしてなくて。なんか、裏切るみたいな形になっちゃって、悪いことしたなって」
「別に。何とも思ってないよ」
簡素な返答を口にしながら、野菜室から大根を取り出し、流しで洗う。「どいて」と、健吾を半ば体当たりの様な所作で退けさせると、洗った大根を流し台に置いた。
何とも思っていないというのは嘘だ。かがみの声のトーン、視線の配り方、そして昨日拒絶した姉と一緒に学校に行ったという事実。それらを統合すれば、何とも思わないはずがない。
「何とも思ってないから、さっさと出てって。あと、包丁とまな板取って」
「出てったら、包丁もまな板も取れないだろ」
「だったら取ってから出てけばいいでしょ。さっさとしてよ馬鹿健吾」
かがみの気を紛らわせようと上げ足を取ってみたが、当然効果はない。健吾は腹を決め、かがみと向き合うことにした。
「かがみ、俺が浅はかだった。お前の気持ちも分かってた。でも」
「何言ってんの? さっさと取ってよ」
あ、はい、ごめんなさいと謝り、いそいそと包丁とまな板を取りに行く。手渡すとかがみは礼も言わず、奪うようにして作業を続ける。
「あいつはあたしのことを見捨てた。あたしのこと、何とも思ってなかったんでしょ。だからあたしも何とも思わない」
「そんな事ない。穹良は、お前のこと見捨ててなんかない。きっと、事情が――――」
「事情? 事情って何? そんなの、こっちは知ったこっちゃない。勝手な事情を押し付けられて、どうしろって言うの」
気が立っているせいで、大根を剝くかがみの手が止まらない。輪切りにした大根が左手の中で回され、皮と一緒に向かれてどんどん細くなっていく。反比例するように、薄さ数ミリの大根の帯が蛇腹状に積み重なり、山を作っていく。
確かにかがみのいう事ももっともだ。穹良の事情はかがみの知るところではないし、健吾も口にはしたものの、本当に穹良に事情があったのかは定かではない。
でも、穹良と約束したのだ。仲を取り持つと。そのためには、どうにかかがみをその気にさせなくてはならない。
「お前のいう事ももっともだ。でも、もう一回、ちゃんと話し合ってくれないか。あいつの寂しそうな目が、かわいそうなんだ」
「何度も言わせないで。こっちは知ったこっちゃないのよ。それにあたしは寂しくない。だって、あたしの記憶の中に、あいつはいないもの」
それはそうかも知れない。健吾と穹良が事件に巻き込まれたのは五歳の時だ。その時かがみは三歳。三歳の時の記憶など、相当大きな出来事でもなければ普通は覚えていない。
完全に手詰まりだ。そもそも無理なお願いをしていることは承知の上だったが、やはり今は穹良と話す機会を設けるのは難しいのかもしれない。もっと段階を踏むべきなのだろうが、その段階が何なのか、健吾には分かっていない。
「で、出てけって言ったのに、何でまだいるの?」
「え?」
かがみは作業の手を止めて、言葉に詰まり黙ってしまった健吾に振り返る。
「あたし、今日は一人でやるって言ったよね。でもまだいるってことは、暇なの?」
「いや、暇って訳じゃ……」
「そう、暇なんだ。じゃ、冷蔵庫からキャベツ取って」
一人でやると言った舌の根の乾かぬ内に、手伝いを要求するかがみ。健吾は内心苦笑いをしながら、黙って手伝うことにした。手伝うこと自体はいつものことだし、話す中で何か穹良との仲を取り持つヒントを得られるかもしれない。そのことを期待して、健吾は野菜室を開けた。
夕飯の準備をだいたい終えたかがみは、仕上げを健吾に任せ、二階に上がって来ていた。自室の向いにある暮月の部屋のドアをノックし、返事を待つ。すぐに入室を許可する声が聞こえた。
「ご飯出来たん?」
夕食の完成を知らせに来たのだと思った暮月が、ベットに寝転がったまま壁の時計に視線を向ける。時刻は十九時過ぎ。もうそんな時間だったのかと、暮月は手にしていた漫画本を閉じる。
「もうちょっとで出来るよ。今、やさしいお兄ちゃんが仕上げをしてくれてるところ」
「またにいにに押し付けてさぼってるんな」
かがみが家事を健吾に押し付けるのはいつものことだ。もっとも、家事すらしない暮月に、かがみを咎めることは出来ないのだが。
「あんたが手伝ってきてもいいんだよ?」
「やめとくん。きっとまた、にいにに迷惑かけるん」
「そうだね。またコンロ周りを黒焦げにされたり、内蓋も水も入れずにご飯炊かれたりしたら、たまったもんじゃないしね」
「むぅ、もうそんなことはしないん」
半眼で頬を膨らませ、精一杯の抗議を示す。だが事実、暮月の家事センスは絶望的で、健吾から家事を制限されている。その絶望的センスを見るのが好きなので、かがみはやってほしいと思っているのだが。
「で? つっきー、あたしが来てもそうやって横になったままっていう事は、覚悟できてるってことだよね?」
かがみの浮かべた不敵な笑みに、暮月は頬を引きつらせた。そして慌てて体を起こそうとしたが、時すでに遅し。ベットに倒れ込んできたかがみが、暮月の首をがっちりと抑え込む。
「ちょ、ちょっとかがみん、痛いんよ」
首をホールドするかがみの腕をタップするが、かがみは力を緩めるそぶりを見せない。
「ふふん。逃がさないよ、つっきー」
暮月を抱きしめる力をじんわりと強めるかがみの背に、暮月も腕を回す。
「……どうしたん?」
かがみがこうしてじゃれついて来るときは、たいてい何か心配事や不安ごとがある時だ。昔からの癖で、精神的に不安定になると暮月のことをいじめ、自身の優位性を実感することによって精神的安定を保とうとする。
「……健吾がさ、穹良に会わせようとするんだよね」
暮月の胸に顔をうずめたまま、くぐもった声で答える。歳は同じだが胸の発達具合は暮月の方が圧倒的だ。柔らかさと温もりを享受していると、自分に素直になれる。
「かがみんは、会いたくないん?」
ド直球ではあるが、健吾は訊いてくれなかったことを暮月は訊いてくれる。そのことが、すごくうれしい。
「どう、だろう。よく分かんない。お姉ちゃんがいるっていうのは知ってたけど、会ってみたいとは思ってなかったし」
「……うちにも、嘘つくん?」
暮月の一言に、かがみは肩を震わせた。うずめていた顔を離し、恐る恐る暮月の顔を見る。そこには、すべてを許すかのような優しい微笑があるだけだ。
「知ってるんよ? かがみんが大事にしてる写真。うちらがみんな写ってる、唯一の写真」
どうしてそんなことを知っているのかという疑問は置いておいて、完全に見透かされていることに感服する。家事の出来ない引き籠りだが、カウンセリングとセラピーの能力には長けているらしい。
「会ってみたいって思ってないのは、うん、嘘。会ってみたいって、思ってた。でも、お姉ちゃんってどういうものなのかなっていうのと、あたしを見捨てた人がどんな奴なのかっていう、二つの興味かな」
「ねえねは、かがみんのこと、見捨ててなんかないと思うんよ」
「健吾も同じこと言ってた。見捨ててなんかないって。でも、じゃあなんで今まであたしの傍に居てくれなかったの? 見捨てたからでしょ?」
「なんで、そう思うん?」
「え?」
微笑みから一転した暮月の真剣な眼差しに、かがみは思わず視線を逸らす。なんで。そんなの決まっている。証拠は、今日までの穹良のいなかった日々だ。
「だって、前に訊いたら、健吾が」
「にいにが、ねえねがかがみんを見捨てたって言ったん?」
「それは……」
確かに、健吾の口から直接聞いた訳ではなかった記憶だ。でも思い出せる範囲内では、既に姉に見捨てられたものだと思っていた記憶がある。では、その記憶はどこから来たのか。
「ねえねはかがみんのこと、本気で心配してたように見えたんよ。ねえねがかがみんのこと、見捨てるはずがないと思うん」
諭されて目を伏せるかがみの頬を、暮月の手がやさしく包む。
「一度、ちゃんと考えてみた方がいいんよ。かがみんの、大事な家族のことなんだから」
「……うん」
かがみはもう一度、暮月の胸に顔をうずめる。今の自分の表情を、これ以上暮月に見られているのが嫌だった。きっと情けない、困ったような顔をしているに違いない。それでも、健吾には言えないようなことが、暮月には言える。かがみの心の安定を保つ、大事な時間。
足音が近づいて来る。ゆったりとした足音は暮月の部屋の前で止まると、ドアをノックする音が二回響いた。
「おーい、かがみ、暮月、飯出来たぞ」
廊下から聞こえてくる健吾の声に、暮月は体を起こして。
「ほらかがみん、ご飯出来たって。行くよん」
「うん」
暮月に促されて、かがみも体を起こす。
「つっきー」
「ん?」
「ありがとね」
「その言葉は、かがみんの答えが出た後で貰うんよ」
再び、すべてを許すかの様な微笑を向けてくる暮月。むしゃくしゃを発散したくていじめに来たのに、すっかり癒されてしまった。
(情けないな)
自身の情けなさを感じつつも、悪くない気分であることを不思議に思いながら、暮月と共に部屋を出た。




