一章2 朝のひととき
カーテンの隙間から射し込んだやらかな朝の光が、微睡む少年・西島健吾の横顔を照らす。
「ん、まぶしい……」
薄暗い健吾の部屋に、彼の寝言と日光を避けるように寝返りをうつ際のシーツの擦れる音が静かに響いた。
間もなくして、健吾の枕元で目覚まし時計が耳障りな音を立てた。
「……うるさい……」
布団の中から引き抜かれた健吾の拳が、目覚まし時計上部のスヌーズボタンを叩く。
ボタンを叩く姿勢のまま三分。五分後に設定していた一度目のスヌーズ機能が作動する前に、小さい唸り声と共に上体を起こした。
頭に掛かっていた掛布がずり落ち、朝日が健吾の顔を直撃する。その光から逃れようと顔を背け目を瞑ったが、暫くすると光の刺激に体が慣れ、体が目覚めていくような感覚を得た。
健吾はベッドの上で足を組み替えて伸びをしてから、ベッドを降りて窓際に向かう。中途半端に閉まりきっていないカーテンを開けると、膨大な量の白い光が巨大な塊となって覆いかぶさってくるように思えた。
その白一色に思えた景色も、目と脳が正しい視覚情報を処理できるようになると、満開の桜が並んだ中庭と並木を挟んだ向かいの棟、やや霞んだ青空を望む二階からの風景に変わった。
換気のために窓を半分くらい開けると、まだ夜のひんやりとした湿気を残した風が吹き込んできた。その風に乗って、一枚の桜の花弁が舞い込んできた。その花弁を手に取り、窓の外へ出すと、花弁はほかのと共にどこかへと飛び去ってゆく。
窓を閉めると、健吾は普段着に着替えてから自室を後にした。
一階への階段を踊り場まで来た時、健吾の耳に一階の台所からのリズミカルな包丁の音が届いた。
「ん? 今日は俺の番だよな」
西島家では食事の準備は当番制になっている。今日の朝食当番は健吾のはずで、だから普段より一時間早い六時に起きたわけなのだが。
「かがみじゃないよな」
朝食当番になりうるもう一人の人物の名を口にしておきながら、健吾はなぜかその選択肢を却下した。
では一体誰が。その答えを頭に浮かべつつ、それが正解でないことを祈りながら台所をのぞき込む。
果たして回答は、健吾が思い浮かべた人物だった。正解してしまったことに気分を重くしながら、健吾はその人物に声をかけた。
「母さん……」
西島幸子。普段は都内の研究所で竜族の研究員をしている、健吾の母親である。職業柄海外出張の多い幸子は国内にいても研究室に籠っていることが多く、家に帰ってくるのは年に数回。しかも住人が寝静まった夜中に、事前になんの連絡もなく帰ってきて、健吾たちの反応を楽しむという困った趣向があるのだ。
「あ、けんけんおはよぉ」
加えて健吾のことを昔と変わらず「けんけん」と呼ぶ。
「『おはよぉ』じゃないよ母さん。いい加減夜中に帰ってくるのやめてよ」
親族とはいえ、真夜中に家を出入りされているのは精神衛生的に好ましくない。この家に普段住んでいるのが健吾一人ならまだ我慢する気にもなるが、二人の妹もいるのだ。何かあった時に彼女たちを守らなければならない自分の気持ちも少しは考えて欲しい。だが。
「えー、いいじゃん。ここは私の家でもあるんだしー」
反省する気色は見せず、幸子は切った具材を湯の入った鍋に入れる。
どうやら夜中の帰還を控えてくれる気はないらしい。
実を言うとこの問答は数年前から繰り返しているもので、健吾は要望を聞き入れてもらえないにある程度の諦めがついており、代替策も講じている。
もはやこのやり取りは、ある種の挨拶のようなものになっているのだ。
「で、今回は何用?」
幸子の隣に立って朝食作りの手伝いを始めながら、健吾は問うた。
幸子が帰ってくる時は何かしらの用事がある時だと、経験則から思っている。今回何か用があるとすれば健吾の入学式くらいなものだが、幸子が学校行事に顔を出したことはほとんどない。
「別に何用だっていいじゃない。ここは私の家でもあるんだよぉ?」
大事なことなので二回言いました、的な表情を向ける幸子。その顔に一体どう反応しろというのか。
幸子が帰宅した理由が健吾ではないのなら、一体なんのために帰ってきたのか。その問の答えを思い浮かべて、それを口にした。
「もしかして、かがみのこと?」
かがみ――――安曇野かがみは、健吾と同居している二人の義妹のうちの一人だ。健吾と同様半竜だが、健吾と決定的に違うのは半竜としての特徴を体外に有した有翼種、つまりは背中に翼を生やしているという事だ。
幸いにして彼女の翼は任意で体内に収納することができるため、その状態時の外観上は人間と見分けがつかない。
だが人間には自分たちとは異なる存在を排除しようとする習性がある。外観だけが人間にものである半竜は、その素性を露呈すると迫害の対象となりやすいのだ。かがみはそれを避けるために、以前の学校では人間関係を極力避けていたという。
「まあねぇ。色んな事情でここに越すことになったけど、それがかがみんにどう影響するのか分からないから、ちょっと様子見ようと思って、今回は一週間おやすみもらってきたの」
「一週間!?」
正月ですら三賀日しか帰ってこないのに、一週間も滞在すると言うことはよほどかがみのことを気にかけているのだろう。それくらい、体外的特徴を有した半竜の扱いは難しいのだ。
「もちろん暮ちゃんの様子を見に来たって言うのもあるんだけど、あの子はまだ外に出れないでしょ?」
暮ちゃんと呼ばれた少女もまた、半竜である健吾の義妹だ。彼女は現在、引き篭もりである。
「まだ時間は掛かると思うよ。俺やかがみが人間だったら、それこそ本当に引き篭もりになっていたかも知れないし」
補足をすると、彼女が引き篭もっているのは部屋にではなく、この家に引き篭もっているのだ。家の中は自由に歩いている。
「そうだよねぇ」
そう答えながら、幸子はとぎ終わった米を炊飯器にセットして炊飯のスイッチを押す。軽快な短い音楽を響かせて、炊飯器が炊飯を開始する。
健吾は戸棚から緑茶の茶葉と急須、二人分の湯呑みを取り出すと、コンロにやかんを乗せて火にかけた。今朝の朝食は作り置きと冷凍食品のコロッケの予定だったので、幸子に手伝ってもらうほどの手間をかけるつもりは無かったのだ。米も、昨夜予約炊飯をしておけば早起きする必要はなかったのだが、春休みの崩れた生活リズムから学校生活モードに慣らすために起きたようなものだ。
つまりは、期せずして久しぶりに母親とゆっくりする時間が出来たことになる。
「ほら」
健吾は台所内に設置されている四人がけのテーブルに幸子を促すと、慣れない手つきで緑茶を煎れて差し出す。幸子はそれに一口つけて、ゆっくりと風味を味わうと、勿体ぶるように間を置いてから
「五十五点」
「五十五かー」
「まだまだだねぇ。お湯の温度が高すぎる。これじゃお茶の良さがでないよぉ」
幸子はお茶の味にうるさいのだ。
「そう言えば」
幸子の正面に腰掛けた健吾は、昨日かがみから聞いた話を思い出して、その内容を口にしようとする。
「総入れ歯?」
「誰も言ってねえ」
小ボケを挟まれたが、健吾は受け流して話を先に進める。ボケを拾って貰えなかった幸子が少しだけ寂しそうな顔をしたが、気にしない。
「隣の一〇七号室、昨日誰か越してきたらしいね」
「へえ、そうなんだ」
湯呑みを傾けながら、先を話してというふうに軽く目を見開く。
健吾たちが越してきたこの木造二階建てのアパートは、メゾネットタイプと呼ばれるもので、一住戸が二層構造になっている。そのため一住戸一層のアパートよりも居住空間が広く、家族連れに適しているのだ。健吾たちは一号棟の角部屋である一〇八号室に十日ほど前に引っ越してきたばかりである。
「ほら、俺達が越してきた時ってトラック三台くらいでやったじゃん?」
「そうだっけ?」
同意を求めてから気がついたが、引越しの日にも幸子はいなかった。彼女の部屋の荷物は無いに等しいので運び出す苦労はなかったが、彼女は引っ越しに立ち会っていないのだ。
この人は子供たちの生活に関心があるのかとでも尋ねたくなったが、その気持ちを押し殺して健吾は話を進める。かがみのことを考えて一週間も滞在すると言っているのだ。関心がないはずはない。
「かがみから聞いたんだけど、トラック一台どころかバンみたいな車一台だったんだって。そんなに荷物のない引っ越しもあるんだね」
「こっちで家具とかを揃えるつもりなのかもしれないけど、お金かかりそうだねぇ」
中身のなくなった湯呑を掌の中で転がしながら、幸子は間延びした口調で答える。
その後も他愛のない話をする二人だったが、気が付いた時には七時になろうとしていた。もう少しすればかがみも起きてくるだろう。
そう思って席を立ち、二人で再び台所に並ぶのとほぼ同時に、二階から降りてくる小さな足音が聞こえてきた。
「おはよー。あれ、帰って来てたんだ」
台所に姿を現したのは小柄な少女だ。濃紺の髪をポニーテールにした、少し捻くれたような表情をしたこの少女が健吾の義妹その一、安曇野かがみである。朝食の前だというのに、今日着ていくブラウスとスカート姿だ。
そしてかがみの背中には、彼女の髪の色を薄くしたような透明の、カゲロウのそれのような一対二枚の羽根が生えている。これが、彼女が人間でない証明だ。
かがみは健吾の隣でこちらに振り向いた幸子にも朝の挨拶をすると、冷蔵庫に向かいそのドアに手を掛けた。そして庫内から牛乳パックを取り出すと、コップに注ぐのではなく直接注ぎ口を傾ける。もちろん左手は腰に当てて。
「おい、飯の前から制服着てて大丈夫か? 牛乳こぼしても知らねえぞ?」
「大丈夫だよ、あんたじゃないんだから」
ささやかな兄心を一蹴する一言を発するかがみ。黙っていれば落ち着きのあるかわいい顔をしているのに、かがみは義兄に対いて口が悪い。
その柔らかい頬をつねってやりたくなった健吾は、かがみがここ数か月前から牛乳を飲み始めた理由であろうことを口にする。
「今更牛乳飲んだって胸は大きくならねえんじゃえの?」
今年中二になるかがみの胸は見事なくらい無い。
だが彼女が牛乳を飲んでいる理由は、胸ではなかったらしい。
「別に胸はなくたっていいの。身長が去年から変わってないのが気に入らないだけ」
もっとこう、「胸多少はあるし!」とか、「馬鹿じゃないの!? 何言ってんの!?」的な反応をしてくれれば、かがみのことを女の子としてみることが出来るのかも知れないが、彼女の反応は妙に落ち着いているというか、事実だけが返ってくるのだ。
「そうかいそうかい」とだけ返して、健吾は台所仕事に戻る。
「かがみん、暮ちゃんは?」
幸子の質問に、かがみは天井を見上げる。
「部屋覗いてきたけど、寝てたみたい」
「そう。じゃあ私は暮ちゃんとご飯食べようかなぁ。かがみん、お皿並べてくれる?」
「分かった」
かがみの加わった台所が、にわかに騒がしくなる。かがみが皿をテーブルに並べ、健吾が盛り付けていく。タイミングよく、炊飯器が炊飯の完了を告げる音を立てた。
間もなくして。
「「いただきます」」
席に着いた健吾とかがみが、朝食に手を合わせる。今日は入学式。それだけで、昨日までの食卓とは別の空気が場を覆っていた。