二章1 夢
(お姉ちゃん、どこ?)
声が聞こえる。幼い、少女の声が。
――――誰? どこ? よく見えない
(ねえお姉ちゃん、どこにいるの? 私はここだよ。早く助けてよ)
また同じ声が聞こえた。切迫したような声で、助けを求めている。だが、声の主がどこにいるのか、全く分からない。
――――誰だ? どこにいるんだ? 声は聞こえるのに
声の主を探そうと首を巡らせても、辺りは漆黒の闇に包まれていて、自分がどちらを向いているのか分からなくなる。それどころか、しまいには立っているのかすら怪しくなってきて、自分という存在がどこか浮いたものに思えてきた。
(ねえ、何で助けに来てくれなかったの? なんでお姉ちゃんだけ、助けてもらったの? 私も、こんなに苦しんでるのに。ねえ、何で)
不意に、肩に何かが当たった気がした。当たったものを確かめようと振り返ると、そこには手があった。そして視線を更に背後へと向け、手の先にある相手の顔を見た。
(なんで、お姉ちゃんは逃げたのに、私はこうしてなきゃいけないの?)
そこには、顔面の大部分が闇に透けた、少女の顔があった。そしてその背後には、少女と同様に顔のない無数の人影が蠢いている。
その無数の人影は、よく見ると少女のことを引っ張っていた。まるで、深淵に引き込もうとしているように。
顔の無い少女が、耳元で囁いた。
(お姉ちゃんも、こっちにおいでよ。一人じゃ、寂しいから、ね?)
肩を掴む手に、力が込められる。
――――いやだ、もう、ごめんだ
途端に、足元が揺らいだ気がした。否、気のせいではなく、少女に引きずり込まれて深淵に落ちてゆく。
――――助けて……!!
何かにすがろうと手を伸ばす。だがその手は何も掴まず、深淵が体を飲み込んでゆく。
――――助けて……、健吾……!!
声にならない悲鳴を上げながら、穹良は掛物を吹き飛ばし、ガバリと上体を起こした。
肩で呼吸し、定まってきた焦点で周囲を見渡して、今見たものが夢であったことを認識する。そして夢であったことに心底安堵し、ゆっくりと深呼吸をした。心臓の鼓動は、まだ早鐘のようだ。
「……また、あの夢か。あの声、知っているはずなのに、思い出せない。本当に、誰なんだろうな」
目覚めた場所は、台所だった。昨夜は天智展望台から帰宅した後、床に敷いた毛布の上に横たわり、ブレザーを掛け布団代わりにして床に就いたのだ。台所の窓から差し込んだ朝日が穹良の顔を照らし、眩しさに目を細める。改めて周囲に目を向けると、段ボールから取り出した日用品が散乱していて、穹良は自身の整理整頓に対する無頓着ぶりを自覚した。
朝日の中で、巻き上げられた塵や埃がダイヤモンドダストのように煌めいている。ちょっとばかり幻想的だと思ってしまったが、これはただのゴミだ。自分がいかに埃っぽいところに寝ていたのかを認識したが、今の穹良にとっては、だからどうした、といった問題に過ぎなかった。
それよりも夢のせいで脂汗を掻き、全身がべとべとしている方が気持ち悪い。額に張り付いた前髪をどかし、軽く頭を振る。眠気による緩慢な動きで立ち上がり、ホックを外してスカートを脱ぐ。シャワーを浴びて、このべたつく汗を洗い流したい。
スカートを無造作に放って、着替えるための下着とブラウスを段ボール箱から漁り出す。そして別の段ボール箱からタオルを取り出すと、風呂場に向かった。
「おはよー」
「あ、けんけん、おはよぉ」
西島家では、健吾が起きた時には既に幸子が台所に立っていた。あくびをしながら台所へ入ってきた健吾に、幸子が朝の挨拶を返す。昨夜部屋で話していた時の張りつめた雰囲気はどこへやら、いつも通りの間延びした話し方だ。
「朝飯何にすんの? 手伝うよ」
「あ、そぉ? じゃあ、これを――――」
健吾も台所仕事へ加わり、二人で朝食づくりを進める。
そんなこんなをしているうちに、今度はかがみが起きてきた。かがみも台所に入ってきたが、彼女はテーブルでボーっとしているだけで、手伝いには来ない。半開きの目で天井を眺めるかがみをよそに準備を進めると、いつもより早く朝食が出来上がった。
「「いただきます」」
三人の声が重なり、朝食を摂り始める。暮月が朝食時に居ないのは、いつものことだ。
『――――次のニュースです。昨日午後、詰ノ原地区上空で、陸上自衛隊の空中輸送艦が、反人系武装組織「スラバヤ連合」の襲撃により、沈没しました。沈没したのはアーケロン型と呼ばれる輸送艦で、同新琵琶駐屯地へ新型歩行戦機の輸送を行っていたという事です。沈没現場付近では一時、自衛隊と「スラバヤ連合」の間で戦闘が行われ、新琵琶駐屯地の発表によると、戦闘員五名を拘束したとのことです。また、一連の襲撃事件で死傷者は、自衛隊員・市民合わせて八十九名に上りました』
点けたテレビから聞こえてくる朝のニュースに、健吾は顔を上げて画面に目を向けた。
百人近くの被害規模が大きいのか小さいのかよく分からないが、少なくとも非日常的な規模で多くの人が傷ついたのは事実だ。その中の一人、昨日<ルシフェル>が格納されていたコンテナに押しつぶされた車の中の死体を思い出してしまい、健吾は口の中身を出さないように口元を手で覆う。
「ちょっとけんけん、大丈夫?」
急に吐き気を催した健吾を心配した幸子が席を立ち、健吾の後ろに回って背中を擦る。
「……ごめん、ありがとう」
口の中身を何とか飲み下す。頬の内側から粘性の低い唾液が分泌されて、口内が不快だ。コトリと音がして顔を上げると、かがみがコップ一杯の水を持って来てくれていた。
「かがみも、ありがとな」
「どういたしまして」
素っ気ない返事をして席に着くと、かがみは食事を再開する。健吾はコップの水を飲み干すと、深く息を吐いた。
――――今は忘れよう。あの人には悪いけど、だからって俺がどうこうできた話じゃない。
胃も落ち着いてきたので食事を再開しようとした時、テレビ画面を眺めていたかがみが、健吾の方へ視線を向けた。
「健吾がこの画面に顔写真で表示されなくて、良かったよ」
画面を見ると、襲撃事件で亡くなった人の顔写真と肩書、名前が表示されている。
「俺も、心底そう思うよ」
家の中ではやや避け気味の態度を取ることの多いかがみから今の台詞を聞けたことに嬉しさを感じつつ、己の愚行を改めて悔いる。暮月やかがみを心配させるような危険な行為は、もう二度としない。
それにしても――――と、健吾は再び画面に目を向けた。
死者の多くは、沈没した<アーケロン>の乗り組み員だという。市民の被害が思ったほど少なかったことを見ると、やはりこの街の住人は避難し慣れていると言っていいだろう。事実、健吾が<ルシフェル>を見に行った時には、人の姿はなかった。日ごろからの、避難訓練の賜物だ。
一方で、テレビでは、沈没直前に進路を変更して市街地への墜落を防いだ<アーケロン>の艦長を評価する内容の報道が流れている。もし<アーケロン>クラスの艦が市街地に沈没していたら、被害は比較にならないほど大きなものとなっていただろう。
ちなみにこの艦長は重傷を負ったものの、一命を取り留めたという。
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃ~い。気をつけてねぇ~」
朝食を終えた健吾とかがみは、登校の準備を整え、玄関に居た。外出の挨拶をすると、台所から顔を覗かせた幸子から返事が返ってきた。
何事においても、返事があるという事は良いことだ。一人暮らしならともかく、複数人で暮らしていながら、一人で暮らしているかのような感覚にならなくて済む。
「ほら、行くよ」
「ちょっと待てって。まだ靴履けてないんだから」
先に靴を履き終えたかがみが、健吾を急かす。
西島家の狭い玄関では、二人同時に靴の脱ぎ履きをすることは不可能ではない。不可能でないというだけで、一人ずつの方がやりやすく、実際に今もかがみが履くのを健吾は待っていたのだ。
だというのに、さっさと履き終えたかがみは順番を譲ったことへの感謝を述べるのではなく、あろうことか急かしてくる。
まったくもって、可愛くない義妹だ。そして、避け気味の態度を取るくせして一緒に学校に行こうとするあたり、可愛い義妹だ。
狭い玄関から出ようと、かがみは玄関ドアに手を掛ける。
そして玄関ドアを押し開けて、かがみは動きを止めた。
かがみの視線の先――――コンクリートで固められた玄関先に、穹良が立っていたのだ。
「……あ、おはよう、かがみ」
先に口を開いたのは穹良だった。たどたどしく、勇気を振り絞って出したような声だったが、かがみはその声には返さず、
「……ごめん健吾、あたし先行くわ」
とだけ口にすると、穹良の横を素通りして早足で行ってしまった。
残された穹良の、鞄の紐を掴む拳が、小刻みに震える。意を決して発した言葉が無視されたのだ。精神的にかなりこたえただろう。
そして、もしかしたら穹良とかがみが一緒に登校して、会話くらいはできるのでは、という健吾の淡い期待も、あっけなく砕け散った。
「……その、何だ。昨日の今日だし、かがみも整理ついてないんだよ」
「そう、だな」
俯く穹良にフォローの言葉を投げかけると、穹良は小さく頷いて顔を上げてくれた。朝から塞ぎ込んでいる穹良の姿はあまり見たくなかったので、顔を上げてくれたことに内心で安堵する。
「ところで、何で家の前に立ってたんだ?」
すると穹良は、何を言っているんだという表情を目だけでして。
「一緒に学校に行こうと言ったのは、お前だろう?」
「え、いやまあ、そうだけど」
確かに一緒に行こうと言ったし、七時半に待ち合せの話もしたが、迎えに来られるとは思っていなかった。こちらが迎えに行くくらいの心づもりで緊張していただけに、やや拍子抜けの感が拭えない。
健吾の要望に嫌々応じてくれた訳ではなさそうだという事が分かり、ちょっと、否かなり嬉しいのだが。
「一人で行かせてしまって、良かったのか?」
家から離れていくかがみの姿を目で追いながら、穹良が尋ねてくる。確かにかがみを裏切ってしまったような、若干の後味の悪さはある。だが言い訳をすれば、一緒に学校に行くことをかがみと約束したわけではない。成り行きとして、そうなっただけだ。対して、穹良とは約束をしている。
それに、穹良との距離を縮めておくことは、今後かがみとの仲を取り持つうえでも重要なことだ。
「埋め合わせは後でするよ。それに、どうせ同じ列車に乗るんだ。一人じゃないさ」
「そうか。なら私たちも行くぞ。列車に乗れなくなる」
「ああ、そうだな。行くか」
履いた靴のつま先を叩いて、履き心地を修正する。これは、昂った気分を落ち着けるための行為だ。
長年の夢だった、穹良との登校。今からそれが実現できると思うと、健吾の心臓は高鳴った。
――――まずい。非常に、気まずい
隣を歩く穹良にばれないように視線を向けながら、健吾は別の意味で心臓を高鳴らせていた。
コーポ長屋のある丘を下って数分。健吾は話しかけ方が分からず、一人で悶々としていた。
――――真ならどうやって会話つなげるんだ? あいつと違ってコミュ力高くないんだよなあ、俺
まったく話しかけられなかった訳ではない。「今日、天気いいね」とか、「宿題やった?」とか、当たり障りのない話題なら提供した。
だがこういった話題はクローズドクエスチョンであり、話が広がりにくい。健吾が提供できた話題も基本的に一往復で完結できてしまう物ばかりで、話に発展性が無い。会話とも呼べないような会話が終わるたびに耐えがたい沈黙が訪れ、健吾は勝手に神経をすり減らしていった。
――――ったく、俺から一緒に行こうって言ったのに、今の状況を活かそうとしないでどうすんだよ
次の話題を探しながら、健吾は不甲斐ない自分を叱責する。穹良のことを登校に誘っておきながら自分が不快な気持ちになる、そんな結末だけは避けたい。だが一向に会話らしい会話ができていないのも事実だ。昨日のように前や後ろを歩かれるのではなく、隣で一緒に歩いてくれているだけで儲けものと捉えることも出来るが、どうせなら今の時間をもっと建設的に過ごしたい。
「……なあ、健吾」
「ん?」
気まずさを解消しようと話題探しに躍起になっていた健吾の耳に穹良の声が入ってきて、健吾は声の方を向いた。正直、元々貧弱なネタのレパートリーが尽きていたので、話題を振ってくれるのはありがたい。
「かがみは、なんと言うか、どういう子なんだ?」
「どういう子って、そうだなあ。物静かで、ちょっとひねくれ者、かな。あと、内弁慶だな」
「そうか」
数十メートル先を歩くかがみの背を見つめながら、穹良が口を開く。
「昨日一人で考えていて、当然のことなんだが、私はかがみについて何も知らないなって思った。それはきっとかがみも一緒だ。いや、お互いについては、かがみの方が知らないことが多いだろう。私の方が年上なんだからな」
健吾は黙って、続きに耳を傾けた。
「知らない相手を受け入れるなんて出来るはずないことくらい、私にも分かる。だからまずは、私がかがみを知るところから始めようと思う」
そこで言葉を区切ると、穹良は健吾の顔を見上げて。
「一緒に学校に行く対価だ。少しづつでいい。かがみのことを、教えてくれ」
相変わらず表情には変化がないのに、まなざしからは真剣さが伺える。健吾は口元を緩めて、それから頷いた。
「分かった、教える。俺もお前とかがみが話してるところ、早く見てみたいしな」
いつの間にか、商店街を抜けていた。目の前の交差点を過ぎれば天智駅に着く。高校生活二日目の、始まりだ。




