一章19 家に一人、部屋で一人
「ただいま」
暗い玄関内に、穹良の声が木霊する。その声に返事をする者がいないことは百も承知だが、帰宅した時には「ただいま」と言うものだと教えられた穹良は、ほんの少しの躊躇いを伴いながら、そうした。
(健吾の家じゃ、「お帰り」が返って来たのに)
穹良が久しぶりに聞いたお帰りは、先程の暮月が発したものだ。誰かに帰宅を心待ちにされているというのが心地よいという事を、暮月が教えてくれた。
あの心地よさと、心の中にじんわりと広がる温かさを健吾やかがみは毎日享受できているのかと思うと、羨ましかった。
それに比べて、と穹良は廊下の電気を点けて自宅を眺める。
昨日一人で越してきたばかりなので当たり前と言えば当たり前なのだが、穹良の家は殺風景そのものだ。おまけに荷物が非常に少ないため、家全体が異様に広く感じられる。もちろん健吾の家には健吾を含めて三人で暮らしているためでもあるが、何にせよ、目の前に広がる空漠が彼女の心細さを増幅させる。
廊下を数歩進んだところで、穹良は右手にある引き戸を引き開け、明かりを灯す。そこは台所で、健吾の家では四人掛けのテーブルが置かれていた部屋だ。暮月の出してくれたお茶の味を思い出しながら台所を見渡すが、西島家と違って何の味気もない空間が広がっているだけだ。あるものと言えば、昨日運び込んで無造作に積んである段ボール箱とキャリーバッグがあるのみ。
(…………)
開封作業途中の段ボール箱の一つから新聞紙に包まれた品を取り出して、丁寧に開封する。包まれていた何の変哲もないマグカップを手に流しへ行き、蛇口をひねる。勢いよく吐き出された水は、差しだされたマグカップをあっという間に満たし、それ以上の量は注がれたのと同じ分だけ溢れ流れていく。その、水が溢れては流れ落ちて行く様子を少しだけ眺めてから蛇口を締めて水を止め、カップの中身を一気に呷る。
喉が鳴り、水を体内に送り込むように喉仏が上下する。
「……ふう」
飲み干し、ゆっくりと顔を正面に戻す。半分下がった瞼を押し上げ、頭を左右にゆっくりと傾けると、首の骨が小気味いい音を立てた。
カップを流し台に置いて、無が広がる台所を振り返る。
(この家でかがみの声を聴きたいと思ったら、私はどうすればいい?)
考えて、小さく頭を振る。
(馬鹿か私は。まともに話も出来ていないのに)
流し台に背を向けて腰を当て、少しずつ足を前にずらしていき、自重が重力に引かれる力と踵の摩擦力を調整しながら、やがては流し台を背もたれに足を前に投げ出した状態で床に座り込む。背中を何かと密着させるのは本当は嫌いなはずなのに、今はどうでもよく思えた。今日一日の間に様々な出来事が起き過ぎて、その疲労が彼女に倦怠感を催す。
半竜という性質上、疲れは感じにくいはずだが、今日は昔を思い出すようで異様に疲れた。きっと、心が疲れたのだろう。
(かがみは私を、許してくれるだろうか)
許してくれなかったらどうしよう。そう思うと、表現しようのない不安が胸の中に広がる。まるで黒い霧に包まれるような、救いようのない不安。
こういった類の不安をかがみは感じていたのだろうか。それとも、姉の存在など気にせずに、健吾や暮月と暮らせてのだろうか。
穹良はおもむろに、ブレザーの右ポケットに手を伸ばす。中には、お守りとして常に持ち歩いている、キーチェーン付きの螺旋状の金属ケースに入れられた赤い結晶が一つ。竜魂石という、他の鉱物が高濃度竜力の影響を受けて変性した鉱物で、穹良の持っているものは両端が尖った形状の水晶が赤く変色したものだ。
幼少期、健吾が「髪色と同じだから」という理由でくれたもので、穹良は不安になるといつも、この赤い石を握る。そうすると、不思議と不安が和らぐのだ。
「かがみ、私を、許してくれ」
勝手だと分かっていても、そう思わずにはいられない。穹良は両手で竜魂石を握りしめ、祈るように胸に当てて身を丸めた。
「ただいまー」
「お帰り、にいに」
穹良を送って(送るというほどの距離ではないが)戻ってくると、台所では暮月が湯呑を洗い終わり、他の洗い物を拭いているところだった。健吾は台所に入ると、先程座っていた席の背もたれに掛けていたブレザーを手に取り、羽織る。室内の温かさは健吾をほっとさせたが、羽織ったブレザーの内側の冷たさに小さく身震いした。
「外、寒かったん?」
「まあな。ワイシャツじゃ風通すわ」
そこでふと、暮月は時計を確認した。七時過ぎ。健吾が穹良を送ると言って出かけてから、まだそれ程時間は経っていない。送って戻ってくるには早すぎる気もした暮月は、先程の穹良の様子から健吾が途中で引き返してきた可能性を考えた。が、あえて別の可能性を口にしてみた。
「ねえねの家って、この近くなん?」
「近くなんてもんじゃねえよ」
「?」
意味が分からないという風に小首を傾げる暮月に、健吾は人差し指で自身の背後を指す。
「隣だった。うちの」
「え!? そうなん?」
予想通りの反応を示した暮月は健吾の背後、お隣さんの方に目を向けてから、健吾に視線を戻す。
「……昨日越してきた人が、ねえねだったん?」
「そういうことになるな」
「すごい偶然なんね」
暮月の言うとおり、すごい偶然だ。隣に越してくるなど、思っても見なかった。
それにしても、健吾は内心で首を傾げる。かがみから聞いた話では、引っ越しの車はバン一台だという。という事は日用品のほとんどはこっちで買い揃えるつもりなのだろうか。金銭的な負担が大きそうだ。
「それはそうと、にいに」
健吾の思考を遮り、暮月がとことこと近寄ってくる。
「うち、にいにに言われた通りに洗い物したん。それだけじゃないんよ。籠にあったお皿も拭いておいたん」
どう、えらいでしょとでも言いたげにドヤ顔をしてから、暮月は軽く背伸びをして健吾の方へ頭を突き出してきた。
「ん、ぅん」
頭を撫でろ、と言っているのだ。
確かに、頼まれていない食器拭きまでしてくれたことはありがたい。だが、普段全くと言っていいほど家事の手伝いをしない暮月を、ちょっと手伝ってくれたくらいで褒めるのは何となく癪だった。だから、これからはもう少し手伝ってくれよ、という思いも込めて撫でるのを渋る。
「ん、んんーーっ」
背伸びをしてせがんでも撫でてくれないことが分かると、暮月は健吾の胸に頭をぐりぐりと押し付けた。催促をしても撫でてくれないので、今度は一度軽く距離を置いて姿勢を低くする。
目標:健吾のお腹。突撃。
「んんっ!」
「ぐふう!!」
暮月渾身の頭突きを腹に食らった健吾は、カエルが踏みつぶされたような声を上げて腹を抱える。頭突き自体の威力はお遊び程度のものだが、なんせ彼女の頭には短いとは言え、二本の角が生えている。それが腹に食い込むのが痛いのだ。
昔から暮月は、事あるごとに健吾に頭突きをする癖がある。少し変わった癖ではあるが、健吾は暮月なりのコミュニケーションの一環なのだと理解している。角が生えた四か月前からは、角が当たらないように気遣っているようだが、不満ごとなどがあるときにはわざと突き立ててくるのだ。
「にいにが悪いんだぞ。天邪鬼なんだから」
「へいへい、悪うござんした」
角が突き刺さった腹を左手でさすりながら、右手で暮月の頭を撫でてやる。かがみの髪と比べて太めの硬い髪だが、指で梳く時の軽い抵抗感が健吾は好きだ。
「にいに」
「ん?」
素直に撫でられていた暮月が、顔を上げる。その顔はまるで、不安そうな、何かを恐れているようだ。
そして、唐突に抱きついてきた。
「おわっと……」
急に掛けられた体重を支えようと、健吾は片足を一歩下げる。暮月の細い腕が背中に回され、ぎゅうっと力が込められる。体前面に密着した暮月から、彼女の感じている感情が健吾に流れ込んでくるようだ。
「……うち、ほんとに、にいにのこと心配してたんよ。電話急に切られるし、シェルターに逃げるって言っても、逃げられたのかはうちらには分からないし。にいにに何かあったら、うちは……」
背に回された暮月の手が、ブレザーを掴む。胸元のワイシャツ越しに、暮月の熱い吐息が健吾の体に伝わる。
これは、撫でるだけでは足りないようだ。
「ほんとに、ごめんな。心配させて。でも俺はどこにも行かないよ。だって、こんな可愛い妹を置いて、どこに行くって言うんだ」
健吾も暮月の背中と後頭部に手を回して、ゆっくりと力を加えて抱きしめる。暮月の頬が、健吾の首筋に当たった。暮月はそのぬくもりを確かめるように頭を動かして、首筋をさする。
健吾と暮月は、暮月の自我が芽生える頃からの付き合いだ。昔からどういう訳か健吾に懐いてくる子だったが、思春期を迎えたはずの今でもスキンシップを求めてくる。かと言って恋愛感情にある訳でもなく、二人の関係性を言葉で語ることは困難だ。およそ世間一般には理解されないであろう関係性が、今の二人の行動の根底にある。
「……うん。にいにはどこにも行かなよね」
「行かないよ」
すると満足したのか、暮月はやっと顔を上げた。どうやら泣いていたらしく、目元が腫れている。同時に、暮月が離れたことでワイシャツの湿り気が蒸発し、一気に冷たくなっていく。
「……よかった」
目の前で、満面の笑みを咲かす暮月。直後、小さな腹の虫が聞こえてきた。
音の主である暮月が、恥ずかしそうにお腹を押さえる。
「さて、そろそろ飯でも作ろうかね。かがみは部屋か。飯出来たら呼びに行った方がいいかな」
今は一人にしておいた方がいいのか否か。
「ご飯が出来れば勝手に降りてくるんよ。それより、かがみんはねえねと上手くやっていけるんかな」
心配そうな顔をしながら、暮月は天井――――の向こうにいるかがみに視線を向ける。健吾も倣って天井を見上げ、嘆息を一つ。
もしあの言葉がかがみに誤解を与えているなら、早急にその誤解を解く必要がある。だが果たして、素直に聞く耳を持ってくれるものか。いや、聞く耳を持たれなくても伝えるべきことは伝えなければならない。
穹良は決してかがみを捨ててなどいないという事を。
「どうだろうな。でも、上手くいくと思うよ。そうなるように、俺も全力でサポートするし」
「うちも手伝うん」
それはすごく心強い申し出だ。健吾は暮月の頭をポンポンする。
「あれ、そう言えば母さんは?」
台所に立ちながら、暮月の方を振り向く。
穹良とかがみを会わせることで頭がいっぱいだったが、帰って来てから幸子の姿を見ていない。まさかもう東京に帰ってしまったというわけでもないだろう。
「かあかなら、部屋で寝てるん」
「は?」
「にいにが無事だって分かったら眠くなったって、ご飯出来たら起こしてって言って、にいにから電話があった後、部屋で寝っちゃったん」
「はあ!?」
到底理解の及ばない母親の神経の図太さに、軽く眩暈を覚える。一人息子が死にかけてきたというのに、一体何を考えたらそんなことが出来るのか、はたまた何も考えていないのか。もっとも、それくらいの豪胆さが無ければ竜の研究など出来ないのかも知れないが。
「飯、抜きでいいかな」
一階にある幸子の部屋の方を見ながら、心の声を漏らす。本当に寝ているのか、部屋を開けて確かめてみようかと思ったが、本当に寝ていたらちょっとショックなので、やめておくことにした。知らぬが仏、だ。
「……作ってあげて」
――――仕方がない、作るとしよう
健吾は溜息を一つ吐くと、冷蔵庫の中身の確認にかかった。
「何さ今更、今まで放っておいたくせに」
ベッドの上で丸まって毛布に包まりながらの独り言が、思ったよりも大きく自分の耳に届くことを、かがみは今初めて知った。
詳しいことはもう覚えていないが、かがみが自分に姉がいると自覚したのは、小学校に入学するかしないかの頃だったはずだ。確か健吾から、穹良は今とても遠いところに居て、すぐには会えないという趣旨の説明を受けたはずだったが、その時に自分がどう思ったかは全く覚えてない。何を思い、その思いがどう変化したのかは分からないが、いつしか穹良はかがみの中で“自分を置いてどこかへ行ってしまった存在”になってしまっていた。
だから今更どの面を下げてきたのか、という憎しみに似た気持ちがある半面、最初に穹良の顔を見た瞬間に感じた、嬉しさに似た感情が今も胸中に渦巻いていて、正直気持ち悪かった。
幸子曰くショッキングなことを体験した影響らしいが、かがみには昔の穹良の記憶はない。当時三歳だったかがみは、施設の奥に居たためあの事件に巻き込まれずに済んだ。だがお陰で、穹良が姉だという認識をしてこないまま今日に至っている。
「いきなり来て、あたしにどうしろって言うのよ。連絡すら寄越さなかったくせに」
ベッドの下から取り出した古い写真をスマホの明かりで照らし、そこに写る少女に問いかける。誰が撮ったのかも分からないその写真には屈託のない笑顔を見せる赤毛の少女と、顔はカメラの方に向けながら横目で少女を見る少年、幼少期特有の丸い顔をした栗毛色の少女が写っている。そして見切れるように、奥に藍色の髪をした幼き日の自分の姿も。
「あたしは、どうしたいのよ」
スマホの明かりを消し、そっと写真を抱く。身寄りのないかがみにとって穹良は、唯一の肉親だ。健吾は義兄だが、義理とか関係なく今日まで兄妹してきたが、本当の姉と会ってみたいと思ったこともある。
健吾は義理の兄。穹良は本物の姉。では健吾との関係は、義理だったのか。穹良との関係は、本当と呼べるのか。考えるうちに頭の中がこんがらがって、かがみはうめき声をあげる。
と、控えめにドアを叩く音がして、様子を伺うような声音の暮月の声が聞こえてきた。
「かがみん、ご飯出来たんよ」
答えるのが億劫で黙っていると、暮月が続けた。
「にいにが、炒飯作って待ってるんよ」
炒飯と聞いて黙っている訳にはいかない。かがみは健吾の作る炒飯が大好物なのだ。
かと言って今すぐ部屋から出ていくのは、なんだか格好が悪い。かがみは今すぐ炒飯を食べたい欲求と自分のちっぽけな自尊心とで葛藤した結果、「行くから行ってて」と答えた。そして暮月の足音が二階を去ってから六〇秒を数えると、部屋を出た。




