一章18 約束
「送りなどいらんぞ」
口ではそう言いながら、穹良は健吾が靴を履くのを見ながら、玄関のドアノブに手を掛けた。
「んなこと言わずに、送らせてくれよ。この暗い中を一人で帰らせるのは、忍びないって言うか」
かがみとの仲を取り持てなかった償いの意味も込めて、健吾は食い下がる。ここで穹良が送りを不要と言えば引き下がろうと思っていたが、穹良は小さく「好きにしろ」と呟いた。
「よし、んじゃ行くか」
健吾が靴を履き終わって立ち上がると、穹良が耳障りな音を立てるドアを押し開けた。
途端、冷たい春の夜風が吹き込んできて、二人は小さく息を吸い込む。室内との温度差に、体が驚いているのだ。日中はだいぶ温かくなったとはいえ、夜はまだまだ冷え込む。
アパートが小高い丘の上に建てられているおかげで、二人は天智の街を一望とまではいかないものの、それなりの範囲を見渡すことが出来る。天智町を含めた竜宮市はほぼ全域が再開発された街であり、土地を有効活用して整理された市街地は建物の密度が高く、夜景が綺麗なのだ。
その夜景をしばし眺めてから、穹良は黙って歩き出した。
「で、お前ん家って、どこなんだ?」
先を行く穹良の後ろから問いかけるが、返答はない。また無視されたのかと思って消沈しかけた健吾であったが、すぐにその感情は驚きによって置き換えられた。
穹良が、健吾の家を出て十数歩歩いたところで立ち止まったのだ。
「ここ」
立ち止まった穹良が指さす先を見て、驚きと疑問が健吾の脳内を支配した。そこには、コーポ長屋の一〇七号室と刻まれた真鍮製のプレートが掲げられている。
穹良が、隣に住んでいる。
衝撃の事実に言葉を失って硬直する健吾であったが、そんなことはお構いなしで、穹良は自分の家の玄関に向かって歩く。
唐突に訪れた、穹良との別れの時間。もう少しの間、共に過ごせると思っていた健吾は、自宅のドアにカギを差し込む穹良を困惑の表情で見つめる。
――――待って、行かないで
軋むドアを開けて暗い家の中に入ろうとする穹良の後ろ姿に、思わず手を伸ばしかけた。
玄関の向こうに広がる暗闇に穹良が入ったが最後、もう自分の前には姿を現してくれないのでは、という漠然とした不安が健吾を襲う。
思えば今日はずっと、穹良に避けるような態度を取られてきた。そのことを鑑みると、不安は現実のものとなり得ない。それだけは、絶対に避けたかった。
「――――なんでこんなとこに住んでんだよ」
振り向いてほしくて、頭に浮かんでいた疑問を咄嗟に口にする。きっと言いたかったことはこんなことではないが、穹良の動きが止まってこちらに振り返ってくれたことに、底知れぬ安堵を実感した。
「どうした、ひどい顔してるぞ」
真っ直ぐこちらを見る穹良の言葉にハッとして、健吾は自身の顔に手を当てる。
ひどい顔。きっと情けない顔をしていたのだろう。それはそうだ。目の前からいなくなるのではと勝手な疑念を抱き、追いすがろうとした直後の顔など、ろくなものでないことは容易に想像できる。
「……いや、何でもない」
顔をゆっくりと地面へ向けつつ、情けなさと惨めさを噛みしめながら、そう返す。
今日まで再会を心待ちにして、その瞬間を勝手にシミュレートして、いざ会ってみるとそのシミュレートが全く無効で、あまつさえまともに会話すらまとも出来ない状況に腹が立ち、今度はその自分自身に腹を立てる。すべて自分が勝手に妄想したことなのに、それが砕かれたことに腹を立てた自分がひどく惨めで、卑しくて。
同時に、ひどく寂しかった。再会を心待ちにしていたのは自分だけで、穹良はそんなこと思ってなかったのかと思うと、肌を撫でる冷たい夜風が胸の中に吹き込んでくるようで、ひどく虚しかった。
きっとそういった感情が、表情に現れてしまったのだろう。だが、そんなこと口にできるはずがない。穹良に抱いていた思いは、すべて独りよがりだったのだから。
「健吾」
「……?」
「今日はその、本当に済まなかった。駅や商店街での無礼を、許してほしい」
落ち込んだような、トーンの下がった声で詫びてくるものだから、健吾は慌てて下げていた顔を上げた。名前を呼ばれたものだから何を言われるのかと思ったら、まさか謝罪の言葉とは。天智駅で一度謝罪を受け、それ以上のものはないと思っていたので、健吾は返答に数拍の時間を要した。
「いや、なんつうか、もう気にしてないから」
「そうか。健吾はやさしいな」
軽く目を伏せ、ぽつりと呟く穹良。その時穹良が何を思っていたのかは分からないが、健吾には、ひどく疲れているように見えた。「やさしいな」の部分から、切なさのようなものが滲む。どちらにせよ、負の感情を抱いているであろうことは明らかだ。
――――だめだ。このままじゃ
今の会話の流れでは、穹良が玄関の向こうに消えてしまうのではないかという不安は拭えない。何か、こちら側に留まって貰えるような言葉を掛けなければ、穹良は別の世界に行ってしまう。それだけは御免だ。かがみとも仲直りしていないのに。
このままでは打ち切られてしまいそうな会話の内容に変化を持たせようと、健吾は半ば強引に話題を逸らした。
「それよりも、ごめんな。かがみに会わせるって言って連れてきたのに、上手く場を取り保てなくて。挙句、こんな結果にしか出来なくて」
すると穹良は小首を振って、
「いや、健吾が謝ることではない。妹をほったらかしにしていた、私の責任だ。健吾はかがみと会わせてくれたのだから、むしろ礼を言わなくてはならない」
会わせてくれた、というよりは会わせろと迫られたのだが、今はそのことは置いておくとして。
「そんな。お礼とかそういうのはいいから、代わりに……」
しまった、と思った時にはもう遅かった。穹良にかがみと会う事を提案したのは、穹良の気を引きたかったからというのもあるが、純粋に二人が会った方がいいと思ったからでもある。それ以上でもそれ以下でもはずなのに、「代わりに」という単語が無意識に出て来てしまったという事は、心のどこかでおごりがあった証拠ではないか。
「代わりに、何だ」
見返りを要求してきたことに疑念を抱くような声音ではなく、単に疑問として聞き返してくる穹良の視線を受けて、健吾は全身から嫌な汗を噴き出す。
「代わりに」の先の言葉を言うか言わないか。今は言わずに、穹良との関係が改善してから言うという手もある。しかし、隣に住んでおいて毎朝素知らぬフリをしながら登校するのも、何か違うというもの。第一、こういうことは勢いも大事だ。幸か不幸か、今は失言によって自らを窮地に追い込んでしまっている。つまり、何が言いたいかというと。
――――ええい、ままよ!
覚悟を決めた健吾は、それでも押し寄せてくる恥ずかしさを紛らわそうと後頭部を掻きながら、吐き捨てるようにボソッと。
「明日、一緒に学校に行かないか? 行こう? 行ってください、お願いします」
――――なにこれ、告白か!?
頭を抱えたくなるほどの恥ずかしさと、賭けに出たはいいが勝てる見込みがあったのかという不安から後半部分は蚊の羽音のような小声になってしまったが、言いたかったことは伝わったらしい。
そして健吾は、今日一番の驚きと喜びを噛み締めることとなった。
おどおどする健吾が滑稽だったのか、言い淀んだ結果口にした「代わりに」の内容が意外だったのか、あるいはそれ以外の理由からか、穹良が小さく、ふっと笑ったのだ。
再会して以来初めて見た、穹良の正の表情。今日一日無表情だった穹良の顔を彩った、小さな笑顔。その笑顔は幼少期のクシャっとしたものとはほど遠いものだったが、名残りのある、まさに健吾が見たかった笑顔だった。
健吾がしばし穹良の顔に見惚れているのをよそに、穹良は小さく頷いた。
「いいだろう。七時半にここで待っている。少しでも遅れたら置いていくからな」
「七時半だな、分かった」
まさかあっさりと了承されるとは。勝手に緩んでいく頬の筋肉を一生懸命引き上げながら、健吾は穹良の言葉を脳内で反芻する。
「それでは、この辺で失礼させてもらう。かがみに、よろしく伝えておいてもらえると嬉しい。では、また明日」
「ああ、また明日。おやすみ」
――――また明日、か。いい言葉だ
既に身を翻していた穹良の背中に、健吾の声が溶けていく。一瞬穹良はその手を止めたが、すぐにドアノブを引いて耳障りな音を立てるドアを開けると、その奥に広がる闇の中に消えていった。
その背中を見送りながら、健吾は今日何度目になるか分からない、幼き日の穹良のことを思い浮かべていた。
小さい頃の、一緒に遊んでいたころの穹良はよく笑う、笑顔の似合う女の子だった。そして健吾はその笑顔に、五歳ながらに惚れたことをはっきりと覚えている。一緒に遊んで、近くで笑顔を見ているのが幼ながらに幸せだった。
だが今の穹良は表情と笑顔を失い、かつての面影はほとんど残していない。最後に見せた微笑だけが、かろうじて名残を感じる程度だ。
「……馬鹿か、俺は。まだ昔の穹良を見ようとしてるのか。今いるのは今のあいつだってのに」
穹良の、屈託のない笑顔が好きだった。でももう見られない。
だったら、穹良が笑顔になるようにすればいいだけだ。失われたものをいつまでも嘆くなど、愚かしいにも程がある。永遠に失われたモノなどではなく、努力で取り返せるモノなのだから。
どういう訳か穹良の新居は健吾の隣の家だ。家には暮月もかがみもいることを考えると、穹良との交流は学校内に限らない。その分、健吾自身が穹良に関与できることも増えるだろう。
それに、明日の朝一緒に登校する約束もとりつけた。明らかに嫌な相手とそんな約束をするとは思えないし、彼女の冷たい態度が本意でないことも分かった。それなら、きっとこれからの時間で関係性を良い方向に持っていける。根拠はあって無いようなものだが、そんな気がした。
「……戻るか」
いつまでも玄関先に突っ立っている訳にはいかない。自宅へ戻ろうと体の向きを変えた時、穹良との会話に一生懸命だったので忘れていた外気の肌寒さを思い出して、小さく身震いした。
――――穹良にも寒い思いをさせてしまっていただろうか。
「長話させちまって、悪いことしたな」
今の健吾はワイシャツ姿だが、穹良はブレザーも着ていた。だとしたら、健吾よりは寒くなかっただろうか。それとも、スカートを履いているがゆえに寒かっただろうか。男子の健吾には正直よく分からない。
散った桜の花弁を吹き上げる夜風に身震いして、思わず二の腕をさする。健吾はもう一度、穹良の家の玄関ドアに視線を向けてから、自分の家へと戻った。




