一章17 拒絶
「お茶、はいったんよ」
台所に置かれた四人掛けのテーブルに、暮月がお盆を運んでくる。その上には彼女が淹れた茶の入った湯呑が四つ。緑茶の芳醇な香りと湯気を放つ湯呑を暮月は丁寧にテーブルの上に置いていき、お盆をシンクの横の棚に片付けてから席に着いた。
「ありがとう。んじゃ、頂くかな」
完全に間が持たなくなった健吾が、目の前に置かれた湯呑を手に取り、その香りを胸いっぱいに吸い込む。確か緑茶にはリラックス効果があったか。不確かな記憶ではあったが、少なくとも今はその効果を実感できる。逆に言えば、効果を実感できるくらい、今の健吾は落ち着けていないという事だ。
テーブルは、妙な緊張感に包まれていた。健吾の隣に穹良、その前にかがみが座り、暮月は健吾の正面に座っている。しかし誰も反すことはなく、先程の健吾の一言が虚しく響いただけだ。
どうしたものかと思案しながら、健吾はお茶を一口啜る。
やはり暮月が淹れる茶は美味い。茶葉の雑味を出さないように七〇℃前後で淹れられたお茶は熱すぎず、五臓六腑に染み渡る。同時に体の内側がじわりと暖まるのを実感する。
春の夜はまだ肌寒い。自覚はしていなかったが、思ったより体が冷えていたのだろう。
喉を流下するお茶の適度な熱さを感じながら、健吾は横目で穹良を見た。会いたいといった妹の前で俯く穹良の表情は、垂れた髪に阻まれて健吾の位置からは確認できない。
俯いている時点で良い表情はしていないだろうが、かといってこのまま無意味に時間を費やすわけにもいかない。
では実の姉を前にしたかがみは何をしているのかというと、彼女は片足を座面の上に持って来て片膝を抱えるようにして、明後日の方を向きながらお茶を啜っている。
そしてこの件に無関係な暮月はというと、湯呑を両手で持ったまま穹良とかがみの両方に視線を交互に向け、二人の出方を眺めている風だ。
「ほら、穹良も飲んでみろよ。暮月の淹れるお茶、美味いんだぜ」
暮月はともかくとして、当事者二人が沈黙しているのに耐えられず、健吾はとりあえず穹良に茶を勧めてみる。反応が欲しいわけではなく、ただこの沈黙が精神的につらい。
「……頂くとしよう」
そう言って穹良は湯呑に手を伸ばし、一口啜る。表情に変化があったかは分からないが、穹良の肩が小さく上下したところを見るに、少しは落ち着いただろうか。小さく息を吐く音が聞こえた。
「で? 健吾はあたしたちに心配掛けさせるような電話の切り方をしておいて、一体今までどこで何してたの?」
手にした湯呑をテーブルに置いて、かがみが視線を健吾に向ける。心配が安堵から怒りへ変貌したのか、その声は静かで冷たく怒気をはらんでいるが、この件は健吾が全面的に悪いので、素直に謝るしかない。
「ほんとに悪かった。でも今は一旦置いといてくれないか」
その一言で、かがみの視線が健吾から穹良へと移される。かがみの視線を感じた穹良はゆっくりと顔を上げると、
「かがみ、私のことを覚え――――」
「今更、何しに来たの」
電流が走ったかのように、穹良の両肩がビクッと震えたのが分かった。
横目で穹良を見ていたかがみの視線が、明後日の方向へ戻される。そしてこれ以上は興味ないというように、かがみはわざとらしい音を立ててお茶を啜った。
再び俯いた穹良の膝の上で拳が小さく握られるのを横目で見て、健吾はかがみを咎める。
「かがみお前、そんな言い方は」
――――そんな言い方は、まるで拒絶じゃないか。
「せっかくねえね来たのに、それはないん」
暮月も健吾に同調する。
だがかがみは鼻を鳴らして、もう一口お茶を啜る。
「今更と思われても仕方がないのは分かっている。でも私は」
「お生憎様、あたしは兄妹には困ってないんだよね」
かがみは大仰に座り直すと、テーブルの上に肘を乗せて手を組み、その上に顎を乗せる。
「あたしには優しい兄もいるし、可愛い姉? 妹? まあ今はどっちでもいいや。も、いるし。だからこれ以上姉妹が増えても困るって言うか」
「お前なあ」
何とか穹良と話をさせたい健吾に、かがみはあくまで冷静に返す。
「だってそうでしょ。今まで何の連絡もなくて、それで今日いきなり来ましたって言われて、あたしはどうすればいいのさ」
「事情があって連絡できなかった。そのことも謝る。だから少しでいい。私の話を」
「あたしを見捨てた姉の話なんて、聞くと思う?」
「……え?」
――――ん?
穹良が絶望したような声を漏らした隣で、健吾はかがみの言葉が頭に引っかかっていた。
かがみは穹良のことを行方不明の姉と認識しているものだと、健吾は思っていた。普段かがみは穹良について口にすることはほとんどなかったので健吾の認識と差異があったのかも知れないが、見捨てられた、という認識をしているとは思わなかった。
――――いや、待てよ?
過去にかがみから、穹良はどこに行ったのかと聞かれたことがあった。例の事件があった直後くらいだったはずだが、その時に答えた内容を思い出して、健吾は取り返しのつかない誤解をかがみに与えていた可能性に気付いた。
そんな健吾の焦りをよそに、穹良は縋るような声音で、かがみとの会話を継続させようと必死になっていた。
「待ってくれ。私はかがみを見捨てたことなど一度もない!」
「嘘! あたしたちを置いて居なくなったくせに。今更どの面下げて戻って来たのさ!」
「ちょっと、そういういい方はないんよ」
語気を荒げるかがみを、暮月が諫める。
「……違う。私は、見捨ててなんか、ない」
ゆっくりと肩を落として、力なく頭を振る穹良。その声は細く、今にも消え入るようだ。
そんな穹良の様子を見て、かがみは一つ息を吐きながら。
「もう帰って。今はこれ以上あんたの顔を見たくない」
そう言っておもむろに席を立つと、中身がなくなった湯呑を流しに運び、暮月に「つっきー、お茶、ご馳走様」と一声掛けてから、台所を出ていこうとする。
「あ、おい! まだ話は」
「あたし、宿題あるから」
呼び止める健吾の声に、立ち止まったかがみは振り返らずに答える。そして廊下へ出て、二階へと上がっていってしまった。
「あいつ……」
出ていく背中を目で追って、健吾は嘆息する。同時に頭の中に、どうせ宿題って今日配られた教科書に名前書くくらいのもんだろ、という妙に冷静なツッコミが浮かんできて、健吾は自身に嫌気がさした。
自分の何気ない一言が、安曇野姉妹の仲を違えさせたかも知れないというのに。
「あの様子じゃ、無理なんな」
かがみが出ていくときに開けっぱなしにした戸の向こうを見つめながら、暮月も不安そうな表情をする。
「それもそうだけど」
そこには、かがみに全く相手にしてもらえなかった穹良が、力なく座っている。闇でも背負っているのではないかと思えるほど沈鬱な雰囲気を醸し出す穹良からは、駐屯地の帰りに健吾の手を振り払ったり、商店街で健吾のネクタイを掴んできたときのような覇気は微塵も感じられない。
抜け殻にでもなってしまったかのようなその姿は不憫で、健吾はもっとうまく話を回せなかったものかと自問する。自分のコミュニケーション能力がもっと高ければ、違った結末になっただろうか。
「……健吾、礼を言う」
おもむろに立ち上がり、穹良が二人の視線を集める中で口を開く。
「かがみが元気そうでよかった。その姿を見られただけでも、来た甲斐があったというものだ」
そう言う穹良の目元には、影が差している。その影は、前髪が目元に掛かっているから、という理由だけで差すものではない。
「お前も、そんな言い方するなよ」
まるでもう二度と会わないみたいじゃないか。と付け加えようとして、健吾は言い淀んでしまった。今の穹良の雰囲気を見ていると、「二度と会わない」などという言葉を口にしたら、本当にそうなってしまうような気がする。そんなことには絶対になってほしくない。
かがみだって、離れ離れになっていた穹良と会えてうれしかったはず。やっと、肉親の一人と再会できたのだから。ただきっと、唐突な事過ぎて理解が追い付かなかっただけかもしれない。
「にいにの言う通りなんよ、ねえね。かがみんはきっと、ねえねが急に来て、びっくりしちゃっただけなんよ」
思いを代弁してくれた暮月に、健吾は内心で手を合わせる。ナイスフォローだ。
「そうだよ。今日会ったばっかりなんだし、これから距離を縮めていけばいいじゃん。俺だって、小さい頃の記憶に有るか無いかの人に、君の家族だよって言われたらびっくりするだろうし、その人の話を疑ってかかるのも無理はないよ」
半分自分に言い聞かせるように、健吾は思いを口にする。
そうだ。穹良とは今日再会したばかりなんだ。幸いにして同じ高校に通っているんだし、交流する機会はこれからいくらでもある。その中で、あの頃のようにとはいかないだろうけど、また親しくなれたら、それでいい。
「……そういうものか。そうだな。これから、な」
二人の言葉が響いたのか、穹良は小さく息を吐きながら目を瞑る。そしてその目を開けた時には、少し落ち着きを戻したように見えた。
「暮月、お茶、美味かった。ありがとう」
「お粗末様。いつでも来るんよ。うち、ねえねとお話したいこと、沢山あるん」
暮月がにこっと笑うのを見て、穹良も少しだけ表情を崩した。そして暮月の頭に手を伸ばし、ゆっくりと撫でる。
かがみともこんなふうに接せられるようになるといいなと、二人の様子を見ながら健吾は心の中で呟く。そしてそのためには自信が橋渡し役として頑張らなくてはと、決意を固めた。
「さて、私は行くとする。邪魔したな」
「あ、送ってくよ」
台所から出ていく穹良の後を追って、健吾も廊下に出る。
「暮月、悪いけど、湯呑片付けといて」
出ていく際、健吾はのけ反るような形で、台所に残った暮月に声を掛ける。暮月がこくんと頷いてのを見てから、健吾は一足先に靴を履こうとしている穹良を追って玄関に向かった。




