一章15 家路
「なあ穹良、ちょっと待ってくれよ」
建物から出て足早に歩を進める穹良に走り寄り、後ろから声を掛ける。だが穹良は一向に振り向いてくれる気配がない。あまりに反応がないので、もしかしてとんでもない人違いをしているのではないか、という疑念すら健吾の脳裏をかすめる。
が、空似の他人が零式を動かせるはずもなく、彼女が格納庫で「久しいな」と口にしたことからも、健吾の目の前を髪を左右に振りながら歩く少女が穹良であることに間違いない。
ではどうして振り向いてくれないのか、健吾には見当がつかなかった。
「なあ、穹良!」
無視され続けることにいい加減腹が立って、穹良の肩に手を掛けようと腕を伸ばす。すると穹良は、まるで腕が伸びてくるのが分かっていたかのように、素早く振り返って健吾の手を掴むと、一気に振り払う。
「……え」
少々強引な手段に訴えようとしたことは認めよう。だが。
――――そこまですることはないだろう。
振りかぶられた長髪の間から覗く穹良の視線に射竦められて、思わず健吾はその場で固まる。
本気で拒絶するような、冷たい怒りを宿したような目。
そんな目で睨まれるほど、何か悪いことをしたのだろうか。
「……穹良」
「ついてくるな」
健吾の目を真っ直ぐに見据えて、もう一度。
「私に、ついてくるな」
念を押すように、静かに言う。その場から一歩下がり、健吾が何も言ってこないのを確認すると、穹良は踵を返して再び歩き始めた。
「……どこに行くんだよ」
「帰るんだ」
振り向きもせず、ただそう答える。だが彼女が向かう先は、出口ではない。その答えに、健吾は一縷の望みを見出した。もしかしたら穹良は駐屯地内や周辺地域の地理に疎くて、健吾に道を聞きながらでなければ家に帰れないから、必然的に会話せざるを得ない状況を作れるのではないか、という望みを。
その望みを確かなものにするための一言を、呟く。
「そっちは戦艦の格納設備だぞ」
一歩、二歩、穹良、停止。
「……え?」
今度は穹良が疑問符を吐いて、健吾の方を振り返る。傾きかけた太陽に背を向けているせいで彼女の表情はよく見えないが、多少は困惑しているのだろう。その証拠に、穹良は急にソワソワと、周りを見渡し始めた。
やはりこの施設には詳しくないらしい。
呼びかけを無視された腹いせに、このまま困らせておこうかという考えが健吾の脳裏をよぎる。が、ただでさえ好感度ド底辺の穹良との関係を、無駄に拗らせたくはない。ここは助け船を出航させるとしよう。
「出口はあっちだよ」
言って、健吾は親指で自身の背後方向を指さす。すると穹良は健吾の目の前までつかつかと歩み寄って来て、上目遣いと共に健吾に対する無礼への許しと出口までの道の教えを乞う――――訳もなく、長い前髪の間から健吾を睨み上げるようにして、
「最寄り駅まで案内しろ」
出口どころではなく、駅までの案内を強要された。決して嫌、とは言わせないという気迫のこもった目を向けてくる。
――――まるで恐喝だな。
これでネクタイでも掴まれれば、百パーセント、カツアゲコースだ。
「分かった分かった、んじゃあ行こうぜ」
宥めるような口調でそう言ってから、穹良に背を向けて歩き出す。二、三メートルの間隔を開けて付いてくる穹良は、不満げだった。
「……で、どっちに乗るんだ?」
新琵琶駐屯地の最寄り駅である西湖線駐屯地前駅のホーム。駐屯地から駅までの道中、穹良は黙って健吾の後を付いてくるだけだった。無言のままなのはホームに上がってからも変わらず、かといって今どきの若者のようにスマホをいじるわけでもなく、音楽を聴こうとするわけでもない。ホームの黄色い線の上に立ち、ただ黙って線路を眺めているだけだ。
その佇まいが、線路に飛び降りでもするのではという不安を健吾の中に掻きたてるものであったことと、いい加減無言の沈黙に耐えられなくなったことが、健吾の口を開けさせる。
「……、下り」
――――今度は素直に答えてくれた。
「へえ、じゃあ同じ方向なんだな」
他の線が乗り入れているわけでもなく、上りか下りしかないので同じ方向に行く確率は二分の一なのだから特別驚くことでもないが、なぜか少し意外な気がした。そして少しだけ、残念に思った。
あれだけ再会を待ち望んでいた穹良と二人で過ごせる時間が増えて嬉しいはずなのに、素直に喜べない負の気持ちが健吾の胸中を支配して、複雑な感情に浸かる。沈黙は苦手ではないが、今の状況は健吾の精神衛生によろしくない。
『間もなく、一番線に――――』
構内アナウンスが、列車の接近を知らせる。非常警戒警報の発令によって地下シェルターに退避していた西湖線は、件の戦闘による線路等への影響がなかったため、現在は正常に運行していた。
風を纏い、甲高いブレーキ音を響かせながら、列車がホームへ滑りこんでくる。列車は健吾たち二人と仕事終わりのサラリーマン数人を吸い込むと、ゆっくりとホームを後にした。
列車に二十分ほど揺られた二人は、天智駅の改札を抜け、駅前のロータリーに出ていた。時刻は午後六時半を回り、日が落ちた空は西から夜が押し寄せつつある。家路を急ぐ学生やサラリーマンが往来する中、健吾の数歩先を歩いていた穹良が不意に立ち止まり、唐突に口を開いた。
「さっきは済まなかった」
気温が下がりひんやりとした春の夜風が、穹良の長い髪を揺らす。吹き流された桜の花弁が一枚、健吾の視界を横切った。
すっと、気にしないで、と言えればよかった。だが今の健吾は、たとえ器が狭いと思われても、そう言えるほどの余裕はなかった。穹良がその先の言葉を口にするのか、それとも今の一言だけで終わるのかが気になって、健吾は様子を伺うことにした。
押し黙る健吾の方へ軽く振り返って、穹良がその先を口にする。健吾の位置からは、髪の隙間から覗く白い頬が見えるかたちだ。
「長らく会話らしい会話をしてこなかったから、人との接し方を忘れていた。不快な思いをさせたと思うが、許してほしい」
人との接し方を忘れるなど、これまでどんな生き方をすればそんな事態になるのかは理解できなかったが、まさか謝ってもらえるとは思っていなかったので、健吾は内心ほっと息を吐く。今なら、少しは会話らしい会話が出来るかも知れない。
「気にしないでよ。俺も、ちょっと声の掛け方が強引だったし」
その言葉を聞くと穹良はもう少し振り返り、健吾と目を合わせてきた。だがすぐに前に向き戻ると、
「道案内、感謝する。もう結構だ。帰ってくれ」
突き放すような口調でそう言うと、穹良は歩き始めた。
「あ、おい!」
健吾の声に振り返ろうとはせず、つかつかと歩いていく穹良の背中が、どんどん遠ざかっていく。その背中からは、駐屯地であった時のような、他者を寄せ付けない威嚇のオーラが醸し出されていた。
おごりであることは重々承知の上だ。ただ、自分がどれだけ穹良のことを探し続けてきた来たのか、そんなことは彼女には関係ないのかと思うと、心の中に今感じている冷たい風が吹き込んでくるかのようで、無性に寂しくなる。
探し続けると言っても健吾が自分の足で稼いだわけではないし、穹良に対する感情は客観的に見れば“気持ち悪い”の部類に入るものだが、思ってしまったのだから仕方がない。そんなこと、誰に言われるまでもなく健吾が一番よく分かっている。
気が付くと健吾は、穹良の背中を追って駆け出していた。
「おい、穹良ってば!」
もう我慢が出来なかった。一度でいい。ちゃんと向かい合って、言葉を交わしたい。
それでだめなら、諦めもつく気がした。いや、その前に諦めなければならないようなものなのか、まだ希望が持てるのか、その判断材料すら今の健吾は持ち合わせていない。だからこそ、ちゃんと話がしたい。
駅前の交差点を渡る穹良に追い付き、再び名を呼ぶ。だが穹良は振り返ろうとせず、ただ黙って人混みの中を進んでいく。
そして駅前の商店街に差し掛かったところで、ようやく穹良が口を開いた。
「帰れと言ったはずだが」
「俺んちもこっちなんだよ」
「見え透いた嘘を」
「嘘じゃねえ」
健吾は小生意気な義妹とわがままな義妹の二人と生活していることもあり、堪忍袋の緒は人よりも切れにくい自身があった。だが今の穹良の態度には、思うところがある。
つい先ほど駅で見せた態度の軟化は何だったのか。一瞬たりとも、話が出来るかも知れないと思った自分がバカだったのか。謝りはしたから、これ以上関わるなとでも言う気なのか。
不快な思いをさせて申し訳ないと本当に思っているのなら、まさに今がその不快な思いの真っただ中だ。
こうも話してくれないとなると、健吾も意地になる。何とか穹良を振り返らせてやろうと考えを巡らせると、一つの邪な考えが浮かんできた。餌にされるかがみに小さく謝ってから、前を行く穹良の背中を見据える。
「かがみを覚えてるか」
一瞬両肩をビクッと震わせて、穹良は歩みを止める。そしてゆっくりとこちらを向く穹良の顔には、驚きに似た表情があった。それは駐屯地で会ってからこれまでの間で健吾が目にした、初めての表情だ。
「……かがみを知ってるのか」
案の定、食いついてきた。
「知ってるも何も――――」
足早に近づいてきて懐に入られる形になった健吾が、穹良に気圧されて一歩下がる。すると穹良はそれに合わせるように踏み込み、健吾のネクタイを掴んで自身の方へ引き寄せた。
下手をしたら引き込まれてしまいそうな、闇を宿した双眸が健吾の目を見上げてくる。
「かがみは、どこだ?」
商店街のど真ん中で、彼女の押し殺した声のみが健吾の鼓膜に届けられる。先程まで聞こえていた、夜の商店街の賑やかさだけがミュートされたように思える。そんな中で、健吾は初めて本気で人を怖いと思った。怒りや憎しみといったような明確な感情を読み取れないことが、恐怖を上乗せしている。
長い前髪の奥から覗く眼光に射られて、健吾の全身から嫌な汗が噴き出す。地雷も地雷、対戦車地雷クラスだったらしい。
「……俺の家に居る。一緒に暮らしてるんだ」
健吾は観念したように肩を落とすと、小声でそう告げる。その言葉がどうやら感情を煽ったらしく、穹良は更に声を低くした。
「無事なんだろうな」
「どういう意味だよ。無事じゃなかったら、一緒に暮らしてるなんて言わないだろ」
「……だって、同棲」
「そういう言い方はやめてくれよな」
穹良の言わんとしていることを察して、健吾は声の調子を落とす。
かがみを含めたあの二人は、身寄りがないからと幸子が施設から引き取り、健吾の妹として今日まで暮らしてきた。同棲と言われれば間違いではないが、未成年となると、その単語に良い印象を持たないのも事実だ。
すると穹良は多少の申し訳なさを感じたのか、一歩下がり、掴んでいたネクタイを手放した。そして小声で、
「そうだな、済まない」
と謝罪の言葉を口にする。ネクタイを放してくれたのはありがたい。周囲の目が気になってきたところなので、これ以上好奇の目に晒される心配がなくなったことに一安心する。
しかしながら、健吾にはどうにも府に落ちない点がある。
かがみの所在と無事を健吾から聞き出すために恫喝するくらいなら、どうして今まで会いに来なかったのか。少なくとも、あの事件後すぐには、まだ健吾もかがみも施設にいた。あの森から穹良が姿を消さずに施設に帰ってくれば、かがみと離れ離れになることはなかったはずなのに。
だがそれはきっと、今考えるべきことではない。
「なあ、俺んち、この先を少し行ったところなんだけど、寄って会っていくか」
「……会わせろ」
口元に手を当てて少し考えてから、穹良はそう答えた。ならば決まりだ。
「分かった。付いてきて」
穹良は黙って頷く。健吾が歩き始めると、駐屯地を後にした時のように、二、三メートルの間隔を開けて付いてきた。
商店街を抜けると、緩やかな上り坂がその先の丘陵地へと続いている。広い歩道には等間隔に街灯が設置されているので足元まで明るく、歩きやすい。そんな歩道を、相変わらず距離を開けた二人が歩いてゆく。
「かがみは、元気にしているか」
「え?」
唐突に切り出してくるので、健吾は少し驚いて反応するのにタイムラグが生じてしまった。
質問してくる声に張りがないのが気になって、同時に今穹良がどんな顔をしているのかが気になって、健吾は少しだけ振り返って彼女の顔を見ようと苦心する。だが上から街灯に照らされていることに加えて俯いているせいで、彼女の顔は影の向こうだ。
ふと通りかかった対向車のヘッドライトが、風で大きく髪を吹き乱された穹良の顔を照らし出す。そこに見えた彼女の表情は、ひどく疲れたような、物憂げなものだった。
かと思うと、今度は後ろから来た車のヘッドライトが彼女の輪郭だけを金色に染め、残りを闇に沈める。そして通り過ぎ去る時の風圧で穹良の髪を大きく乱し、歩道に吹きたまっていた桜の花弁が盛大に舞い踊る。その瞬間が別の対向車によって鮮明に照らし出され、健吾はその光景に心臓を掴まれるような、哀愁に似た感覚を覚え、思わず立ち止まってその姿に見とれた。
「……なんだ」
健吾に見つめられていることに気付かずに保っていた距離を縮めた穹良が、ようやく見つめられていることに気付いて立ち止まり、健吾を見上げる。
やはり、その表情は長い前髪と陰に阻まれて、伺い知ることは叶わない。
だが、先程の商店街での激高が嘘に思えるほど、今の穹良の声には棘がない。今なら少しはまともな会話が出来るかも知れないと、本日二度目の淡い期待を抱くが、健吾は即座にそれを否定する。
――――今はだめだ。何を言ってもきっと伝わらない。またあんな風に、拒絶されたくない。
先刻の反省を活かして、健吾は穹良から視線を逸らしながら、彼女の問いに答える。
「いや、何でもない。かがみは元気にしてるよ」
「そうか、ならよかった」
穹良の元気のない声音を聞いて、健吾は眉間にしわを寄せた。もっと違う答え方が出来れば、穹良の返事もこんな素っ気ないものではなく、違う表現を引き出せたのではないか。無性にそんな気がして、健吾は自身のコミュニケーション能力の低さを呪う。
貴重なチャンスをみすみす逃した。そしてもう二度と訪れない。
健吾は両手をスラックスのポケットに突っ込むと、黙って歩き始めた。その後ろを穹良が付いてくる。そこから数分も経たないうちに、健吾の家もある丘上の住宅街の明かりが見え始めた。その明かりを認めて、健吾は沈鬱な気分になった。
ただでさえ自身の不甲斐なさとやるせなさに辟易しているのに、これから穹良とかがみを会わせなければならない。自分で言い出したことなのでそうするのだが、今の穹良を会わせてもいい結果に繋がらない気がして、心の底に鉛でも沈んでいるかのように気が進まない。だが健吾の足は着実に自宅へと向かっていく。
健吾は内心で盛大に嘆息してから、観念することに決めた。




