三章39 退院
健吾が目を覚まして、既に四日が経過していた。不完全に再生した黒い腕との付き合いも四日間もあれば慣れて来るもので、失われた人間の腕の頃と同じ感覚で扱るようになっていた。腕に刻まれた蛍光緑色の紋様部分から竜力の粒子が湧き出すことがあるのと、逆に吸収しているのか、妙な圧迫感に襲われることがあるのを除けば、機能としてはただの腕だ。
日曜日の午後。健吾は一人、病室で物思いにふけっていた。
精密検査を受けてみても骨格や筋肉の構造は左腕と変わりなく、構成しているのが細胞からなる組織ではなく、竜力で構成された組織に取り替わっただけのこと。なのに。
健吾の心はずっと晴れずにいた。
さすがにもう自分が純然たる人間でないことは自覚を伴って理解した。長子のみに与えられた力である守護者を操り、弱者である年下の家族を守るために役割を果たす。人の姿を以て人間社会に溶け込んで文明の恩恵を享受し、いざとなればその文明を守るために力を発揮する。家族を守るという大義名分のためであっても、結果的に人間社会を守れればいい。
今回腕が竜力で構成されたことで、まだ試してはいないが竜力を操ることが容易くなったはずだ。そうなれば、今後は自分の力を使いたいように引き出すことが可能となる。万が一の時にかがみや暮月を守ることも、これまでと比較にならないくらい簡単に出来るようになるかもしれない。
だが、問題はそこではないのだ、と健吾は右腕に恨みがましい目を向ける。
「……なんで、こんな形で」
再生してくれるなら、元通りにして欲しかった。生えてこないなら義手を付けるなり出来たのに、中途半端に再生してしまったせいで、この異形の腕を受け入れるという選択肢しか残されていないというのが、なんとも不愉快であった。
いっそ、竜力が暴走して人間とも似つかない姿に変化した方が心が割り切れたかも知れない。この中途半端さが、どうにも気持ち悪かった。
病室のベッドの上で上体を起こしながら、健吾は小さく溜息を吐く。病衣の右肩部分を引っ張り、皮膚の色の境目に視線を落とす。散弾で斑状に引くが抉れたことを物語るように、橙色の肌と黒い肌が入り混じっている。まるで地理で習ったリアス海岸の陸地と海みたいだと思いながら眺めてると、病室のドアが急に開き、健吾を驚かせた。
「なんだ、穹良か」
入り口に立つ丈が長めのノースリーブとショートパンツ姿の少女を見とがめて、健吾は安堵とも残念さともつかない、中途半端な感情を抱く。
「なんだとは随分な言いようだな。私なんかより、暮月やかがみが来る方が良かったか?」
卑下、自虐、そんな風に受け取れる言葉を吐きだしながら、穹良は病室のドアを閉じる。
健吾が目覚めてからの穹良は暗く、春先に再会した時と似た雰囲気を纏っているように健吾には見えていた。無理もないのかもしれない。自分が怪我をしたことに対する責任を感じているらしいというのは分かっているし、そうでないと伝えたところで彼女の表情は明るくはならないだろう。
だが、彼女にはいつも通りでいて欲しい。不安になっているであろう暮月やかがみのためにも、いつも通りの穹良であって欲しい。そう思うのは、贅沢だろうか。
「……少し、散歩しないか」
ベッドの脇の椅子に腰かけた穹良からの思いもよらない唐突な提案に、健吾は目を丸くした。
「どうせ今日はずっとベッドの上だろう? 少しは体を動かした方がいい。今日は日曜日で人も少ないし、璃那がこんなものを作ってくれたから人の目を防げるだろう」
無言の意思表示を察して散歩に誘い出した意図を説明し、肩から掛けていたバッグから水色の布地を取り出す。穹良が広げたそれは、片腕を隠すためのマント状のものだ。首に紐を掛け、布を垂らすと片方の腕がすっぽりと隠れるという寸法らしい。二日前に真や雪灘と一緒に見舞いに来てくれた際に思いついたのだろう。
二日前の金曜日、穹良から事情を聴いていた璃那は真と雪灘を連れて放課後に見舞いに来た。当時の状況をあえて聞き出そうとせず、どうでもいい世間話だけして帰っていく彼らに元気づけられ、同時に感謝した。適度に放って置いてくれる距離感が、健吾には心地よかった。特別励ましもせず、早く学校に来いと急かすようなことも言わない。彼らからしてみれば、余計なことを口にしないことで自分たちが傷つくのを防ぐための、保身に由来する言動だったのかも知れない。だがそうであったとしても、純粋に健吾の身を案じてくれたにしても、健吾にとって救いになったことは事実だ。
そして、璃那の手づくりと思われるこのマントも、健吾にとっては救いだ。
隠すという行為は、その意図が第三者に知られた時点で、「何かを隠している」というメッセージを暗に発することとなり、興味を引いてしまう可能性がある。マントという、明らかに何かを隠すためのものを使うというとは、そのマントの向こうに隠したい何かがあるということを周囲に伝えることになってしまう。
だがここは病院で、半竜の患者も多い。多くの人が隠したい何かを抱えている中で、他人の隠し事に興味を持ちそれを暴くことにエネルギーを割ける人は少ない。よって、あからさまに隠したところで好奇の目を向けられることは無いのだ。だからこそ、璃那のマントはありがたかった。
穹良から受け取ったマントを装着し、健吾はベッドから降りて鏡を見る。腕を覆い隠す布のサイズには余裕があり、多少腕を動かした程度では見られそうにない。
「紐の長さとかもぴったりだ。すごいな」
鏡の前で感嘆する健吾に、穹良が解説を付けくわえる。
「見舞いが終わった後、真を使って採寸したと言っていた。体格が近くてよかったな。影が薄いあいつも浮かばれるというものだ」
「それは言い過ぎだろ」
不憫な言われようの真を擁護しつつ、そういうことかと、健吾は納得して頷く。ほぼ同じ背格好の友人がいてくれたおかげで、璃那が手間を掛けて作ってくれたおかげで、そして穹良が誘ってくれたおかげで、健吾は自発的に病室のドアに手を掛けた。
「購買部に行こう。久々に、甘いものが食いたい」
大学病院クラスの規模を持つ自衛隊病院の購買部といえど、日曜日の昼下がりには来客はまばらで、健吾や穹良に関心を向ける者はいない。昼食を食べ終え、空腹だったわけではない健吾は抹茶味のカップアイスを、穹良はペットボトルのお茶を購入し、二人で屋上へと来ていた。
初夏の空には小さな雲が浮かんでいるが晴れ渡り、雲と同じくらい白いシーツが幾枚も風に揺らされている。洗濯された病室のベッド用のシーツがはためく音を聞きながら、二人並んでベンチに座り、各々が購入したものに口を付ける。こうして二人きりになるのは、健吾からしてみれば随分と久しぶりな気がした。
「ちょうど、一週間か」
健吾の呟きに、穹良は木製のスプーンを持つ健吾の右手を見ようと、左に視線を向ける。
「手の具合はどうだ」
「悪くないよ。昔っからこの腕だったんじゃって思うくらい、馴染んでる」
「そうか」
それは良かった、とは言えなかった。あの時、自分が油断しなければ健吾が右腕を失うことは無かっただろう。そのことを裕孝に謝ろうとしても、幸子に謝ろうとしても、いずれも受け入れてもらえなかった。幸子に至っては、健吾が怒っていないのだから怒らないと言っていた。
でもまだ、健吾本人には謝っていない。今日はあの事件があってからちょうど一週間の日だ。これ以上時間が経ってしまう前に、しっかりと謝っておきたかった。それが、散歩に誘い出した理由だ。その目的を果たすために、穹良は意を決して口を開こうとして。
「今更聞くのもおかしいんだけど、お前はお菓子とかアイスとか買わなくてよかったのか?」
「ああ、私はいいんだ。甘いものは嫌いだから」
「え、そうなの? なんで?」
言ってから、穹良はしまったと思った。甘いものが嫌いと言う余計な理由を口にしたせいで、健吾に余計な興味を持たせてしまっただけでなく、自分の意思を挫く結果となってしまった。これも自業自得かと思いながら、仕方なく理由を教えることにした。
「……昔の、トラウマがあるからだ」
「昔……。向こうでのことか」
十年前に巻き込まれた誘拐事件の後、穹良は東南アジアで戦力として扱われていた。その頃のトラウマだとすると、下手に聞き出せば嫌な思い出を思い起こさせることになってしまう。そうならないように、健吾は話題を転換しようと思ったが、一足遅かった。健吾の相槌に頷いた穹良が、再び口を開いてしまったのだ。
「あのころ、作戦を成功させると甘いものを食べさせてくれた。でも甘いものを食べる時は、私が大勢を殺した時だと気付いた。それからだ。嫌いになったのは」
太陽に雲がかかり、周囲に影が差す。一陣の風が吹き抜け、穹良の髪を大きく揺らした。刹那、前髪の隙間から見えた目が、寂しそうに俯いているのを健吾は見逃さなかった。
彼女は健吾が想像もつかないような過酷な体験を、多感な幼少期に強いられてきた。そんな彼女のことを理解することはきっと叶わないし、彼女が抱える思いを肩代わりすることも出来ないだろう。でも、だからと言って放っておけるほど、健吾は器用ではない。
そして過大な偏見を含むが、女の子には甘いものが好きであってほしい。可愛い属性からクール属性になってしまった今の穹良にはジュースやミルクティーよりもコーヒーが似合いそうな気もするが、時には甘いものも食べて欲しいという、どんな感情に由来しているのか自分でも理解しがたい自分勝手な欲望が湧き上がり、健吾の口を突いて出た。
「でも今のお前は誰も殺しちゃいないし、味が嫌いなわけじゃなかったら、美味いと思うかも知れないだろ?」
食べかけの抹茶アイスを掲げて見せると、穹良は驚いたような表情をして、それから抗議の声を上げた。
「それは結果に過ぎない。この前も殺していたかもしれないし、間接的にお前を殺したかも知れないんだぞ」
「それだって、今となっちゃ仮想の話だろ。それにあの時俺は、囮にでも使ってくれって言っただろ? 今考えれば無謀なことしたと思うけど、あの時は必死だったし、こんな腕が生えてきたことには不満もあるけど、自分の行動が間違っていたとは思ってないし、お前のせいだとも思ってない。俺だって、お前に何かあったらかがみに顔向けできないんだから」
健吾の真っ直ぐな瞳に見透かされているような気がして、穹良の心が揺らめく。だが、まだ確かめた訳ではない。確かめもせずに引き下がるくらいなら、今日呼び出した意味がない。
「私の思いを聞いてくれる気はないか」
「父さんの竜力を介して何となく察しは付いてる。謝りたいってんなら、お断りだ。謝られる筋合いはないし、そんな事をずっと気にしていて欲しくない」
「……お前、私が気にしていることを、そんな事って言うのか。お前の父親も、母親も、聞き入れてくれなかった私の思いを、お前も、そんな事って言って拒むのか」
僅かに震える声音に、穹良が抱えている感情が乗せられているのを感じ取る。すこし言い方が悪かったかも知れない。彼女の抱える思いを軽視したような発言をしてしまったかもしれない。それは謝る必要がある。
「そんな事って言ったのは、悪かった。でもお前は、後ろを向き過ぎている気がするぞ。反省するのは大事かもしれないが、それを活かすためには前に進まなきゃならないだろ。俺は生きてる。かがみも無事だ。今回はそれでよしとしようぜ」
健吾の諭すような言葉を聞き、穹良は自分の中で戦いを繰り広げる。過去と決別出来る訳じゃないし、辛い日々は消えない。消すわけにはいかないと思っていた。自分と向き合うためには、自分の行いからも目を背けてはいけないと思っていた。でもそうして得た教訓を生かせないのなら、得た意味がないという健吾の意見も真っ当なものだ。
それに、当の本人が謝罪を求めていないのなら、自分の気を済ませたいだけの我儘なのかも知れない。
……否。物事にはけじめというものがある。健吾への謝罪は、彼に拒まれてもしなくてはいけないものだ。
健吾の意見を受け入れつつ、自分の意見も押し通す折衷案を思いついた穹良は、健吾の手から抹茶アイスをひったくり、驚きの声を上げる健吾を一瞥した。
「……お前が望むとおり、少しだけ前を向いてやる。これはそのための贄だ」
そして健吾が使っていたスプーンで溶けかけのアイスを掬い、口に運ぶ。
冷たさと、あとから優しい甘さ、茶葉の香り、抹茶のほろ苦さが口いっぱいに広がる。食事の中で甘みを感じることはあったが、おやつやお菓子を十年以上口にしてこなかった穹良からしてみれば、感動できるレベルの美味しさであった。甘みと心地よい冷たさが全身に行き渡るような気がして、健吾に許可を求めることなく二口目を運ぶ。
「あ、おい!」
と抗議の声を上げて見たものの、その幸せそうな表情を見れたことは、アイス二口文分に比べられないほどの価値があるように思えた。
「……美味いじゃないか」
結局五口食べた穹良が、礼なのかただの独り言なのかよく分からない言葉とともにカップを返してきた。一口が大きかったせいで半分以上が無くなっているが、文句は口にしなかった。
「済まなかった」
「アイスについての、だったら素直に受け取ってやるよ」
「想像に任せるとしよう」
少し晴れやかな顔で口角を上げる穹良の表情が、青空の中で印象的に輝いて見えた。
翌水曜日の夜、健吾は退院して帰宅した。




