2
引きずられるように役所に連れて行かれた花純は、石造りの大きな建物の前で立っていた。
花純の手を握っていた女性は、何の躊躇もなく扉を開けて建物の中へと入って行く。
「ニールさん、いる?」
女性の声に奥から一人の男性が出てくる。
「おや・・・、ロマさんじゃないですか」
「この子、落ち人だと思って連れてきたのよ」
ニールと呼ばれた男性は、そこでようやく花純に気付き目を合わせてきた。
二十代後半に見える男性だった。薄い茶色の髪に緑の瞳。そして、眼鏡をかけていた。
ニールが花純を見て、柔らかく微笑む。
「どうぞ、こちらにお座り下さい」
玄関を入ってすぐの場所に受付がある。そこに座っている女性もこちらに注目していた。
中は花純が思っていたより広い。いくつか椅子があり、奥にはカウンターがある。そのカウンターの前にある椅子を花純は勧められた。
「私仕事の途中だから、後はお任せしてもいいかしら?」
「はい、ご苦労様でした。後はお任せ下さい」
ロマという女性は花純ににこりと笑んでから、ここを出て行った。
お礼を言う間もない。
というか、あまりのことに激しく動揺していた。
ここは本当に異世界なのだろうか?
夢でも見ているのではないか? と疑ってしまう。
「さぞ不安でしょうね。でも大丈夫ですよ。この国ダコタでは落ち人はよく来るんです。落ち人は我が国では保護対象ですので、何も心配ありませんよ」
まだ椅子の背を持ってくれているニールに、花純は恐る恐る近付く。
花純が座ったのを確認してから、彼は横にあった扉からカウンター内に入る。
「貴女は日本人ですか?」
「は、はい・・・」
何故自分が日本人だと解かったのか。アジア圏だと見分けが難しいと聞くけど。
「ここ最近二回続けて来た落ち人が、偶然なのか何なのか解かりませんが日本人だったんです。この王都にも一人いますから会えるか訊ねてみましょうか?」
日本人がいる。それは是非会いたい。
「お、お願いします」
ニールはうんうんと笑顔で頷いて、一枚の紙を差し出した。
「これに記入お願い出来ますか? 日本語で書いてあるのでご理解出来ると思いますが・・・」
目の前に差し出された紙にさっと目を通すと、確かに日本語だった。
ニールは花純の心を気遣うように見詰める。
「・・・解かります」
「ではご記入下さいね。お茶を用意してきますので、ゆっくりどうぞ」
羽にペン軸がついたペンを差し出されて、少し躊躇う。インク壺も添えてから、ニールは席を立った。
それを不安そうに見送る花純。
(・・・上手く書ける自信がない)
万年筆でさえ使ったこともない花純だ。これは難易度が高そうだ。
そして何故羽なのだろう? 棒に突き刺した方が絶対書きやすいのに・・・。と心の中で秘かに思う。
「日本語で書いてもいいのよね?」
聞くを忘れたけど、こちらの言葉で書けと言われても無理なので日本語でいいだろうと思うことにした。
名前、住所、年齢、性別、学歴の五つ。
学歴をどう書いていいのか解からないが、いま大学に通っていることを書いた。
カチャという音と共に、紅茶の美味しそうな匂いが湯気と共に届く。
「どうぞ」
お砂糖の可愛らしいデザインの壺も置かれて、ちょっとだけ気持ちが浮上した。
「ありがとうございます」
書き終えた紙をニールに渡し、花純はお砂糖を入れて混ぜた後口に含んだ。
「・・・・・・美味しい」
こんなに美味しい紅茶は初めてかもしれない。紅茶が好きでよく専門店に行っていた花純だったが、自分の好みに合う店を捜すのはなかなか大変だった。見つからないなら自分で淹れればいいと、茶葉を買っていろいろ試したりしてた。
温かいものが胃に入って、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「貴女も黒い穴に落ちたのですか?」
「はい、そうです」
自分の他に誰も落ちて来なかった。あんな穴が通り道にあったら、複数人落ちるのが当たり前のように思う。だからあの穴は普通の穴ではなかったということなのだろう。
でも何故自分なのだ? 何故自分がこの異世界に引き寄せられたのだ?
「王都にいる日本人は今騎士団に勤めています。何でも大変戦略に長けていたらしく、今では騎士団の参謀をしているんですよ」
頭のいい人のようだ。自分の前に来た日本人は。
「男性で確か今二十七歳だったかな?」
資料なのか、紙を見ながらニールが報告してくれた。
「そうそう、二十七歳。名前はアキラ・ナガヤマ」
ながやまあきら。どんな文字を使うか解からないが、確かに日本人のようだ。
「彼は好奇心旺盛な方だから、すぐに会いに来てくれますよ」
会えるという言葉に、花純はほっと息を吐く。
「もう一人も男性でね。今は結婚して隣町で日本食の店をしています。彼はちょっとすぐには会えないかもしれませんね」
日本食が食べられるかもしれない。それは本当に有り難い。
「あ、あの・・・。私日本に帰れるのでしょうか?」
これだけは聞いておかないといけない。
ニールは浮かべていた笑みを消して、真剣な表情になった。
「申し訳ないけど、それは解からないんです。こうして落ち人の記録を取り始めてからは、行方不明になった人はいません。記録を取る以前の人が行方不明になったかどうかは定かではないので・・・。もしいたと仮定して、その人が帰った場合もあるのかもしれませんが、帰った人の話を聞いたこともないので確かに元の世界へ戻ったという確証はありません」
それはそうだろう。この世界とは別のところへすでに行っている人の話は聞きようがない。
「記録を取り始めたのはいつからですか?」
「・・・およそ、八百年前からです」
八百年の間、落ち人の行方不明者はいない。ということは、もう元の世界に帰れないと思った方がいい。
花純はニールにそのことを告げられて絶望した。