第1話:転生者殺し(1)
異世界―――それは数多の神々が創りたもうた、数多の世界に住まう人間の、それぞれの現世以外の別世界。
時に神々は、それぞれの世界の可能性を試すために、死者を現世への『輪廻転生』ではなく、『異世界転生』という形で別世界へと転生させた。
それは時に異世界に奇跡を発現させ、その転生世界の常識を打ち破る、新たな発展をもたらした。
だが、転生者がもたらすのは幸いだけではなく―――前世の記憶、知識、そして時に神より授かりし異能の力をもって、転生世界に災いをもたらす『ウイルス』となる者も存在した。
だが神の子たる人間を、神々はその手で成敗する事はできない―――ゆえに神々は、その使いたる『天使』たちに、異能の可能性を持つ『適正者』を現世より選ばせ、それを異世界に転移させる事で、『ウイルス』となった転生者を征伐させた。
天使と『血の契約』を交わし、転生者暗殺のスキルを持った適正者は―――その者が渇望する、たった一つの願いと引き換えに―――『転生者殺し』としての過酷な運命を背負った。
神々の実験たる『異世界転生』―――その副産物である『ウイルス』を葬るべく、今も一人の『転生者殺し』の少女が、転生者を追い詰めていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「はあっ、はあっ、はあっ!」
息を切らせ、しきりに後ろを振り向きながら逃げる男。
中世の欧州を思わせる街並み―――暗闇の中、男はその中を走り続けていた。
追手の姿は見えない。だが確実に自分は追われている―――その恐怖に怯えながら『転生者』の男は逃げ続けていた。
なぜ自分が狙われているのか―――男に思い当たる節はあった―――それは自分が『転生者』だからだ。
前世において不慮の死を遂げた男は、その前世の記憶を引き継いだまま、この新たな世界―――異世界に生まれ直した。信じられなかったが、理解はできた―――自分がこの文明が遅れた世界で、『知識』というアドバンテージを所有している事を。
男は成熟した知能を元に神童と呼ばれた。そして壮年に至る頃には、商人だった前世の知識を活かし、穀物の相場操縦、高利貸し、架空取引などの悪辣な手段で、この転生世界で、我が世の春を迎えていた。
過ぎた力は時として、野望を人間に抱かせる―――この男も例外ではなかった。
やがて男は、王位簒奪を目論む廷臣に目をかけられ、そのクーデター計画の一翼を担う様になった。そしてその資金調達のために、以前に増して悪辣な手段でもって人々を苦しめ、時には人の命さえ奪い取った。
事態が混迷を極めるにおいて、神々は判断した―――この転生者は、転生世界における奇跡ではなく『ウイルス』になったと。
そして天使、エマに命を下した―――男を征伐するべし、と。
神の命を受けたエマは、己が抱える血の契約者―――『転生者殺し』たちを異世界転移させ、男に差し向けた。
男を追っているのは、その中の一人―――日向という名の少女。彼女は、男にその姿を見せる事なく追跡を続けている。
「はあっ、はあっ、はあっ」
荒い息のまま、逃げ続ける男―――見えぬ追跡者の姿に、その恐怖は頂点に達していた。
目の前の暗闇―――そのいつ終わるともしれない先に向かって、走り続ける男の足が突然止まった。
「あ……あああ……」
たじろぐ男の声。その目に映ったものは、配下二人の立ち尽くした骸だった。
一人は首を、鋭利な刃物で貫かれた様な傷跡。もう一人は生気を抜かれた様に、ぐったりとしている―――いずれもすでに絶命しているのは明らかだった。
仲間の骸に直面したのもさる事ながら、何より男が驚いたのは、その骸を後ろで支えながら、自分に向かって突きつけているのが、女だった事だ。
首を貫かれた配下の後ろには、髪を束ねた、まだあどけなささえ残る十代らしい少女が、暗闇に浮き上がる様な黄色い装束に身を包み立っていた。この状況には、ただでさえ違和感の漂う存在なのに、その少女は骸をつかみながら、ニヤニヤとあざ笑う様な笑みを浮かべて、男を見ていた。
その視線に耐えかねた様に、男がもう一人の配下の方に目を移すと、その後ろには、白装束をまとった聖女の様に麗しい美女が、先程の少女とは正反対に、申し訳なさそうな視線を送ってきている。
どちらにしても不気味すぎる―――無意識に男は後ずさった。その歩みが数歩を超えると、男の体は何かに捕らわれた。
「な、なんだこれは」
背中全体を掴まれる様な感触。それでいて前にも進めない。男が顔を、上下に左右に動かしながら己の体のまわりを確かめると―――自分が巨大な蜘蛛の巣にかかっている事に気付いたのだった。
「無様ね―――気分はどう?」
後ろからかけられる声に、かろうじて動く首を後ろに向けた男の目に映ったのは、闇に溶ける様な濃紺の装束で顔を半分まで隠した女―――姿からその性別は分からなかったが、その声は間違いなく若い女のものであった。
「なんなんだ、お前たちは!?」
恐怖に震える男の声―――それに向かって、
「答える義理はないわ。でも最後だから教えてあげる。私たちは―――転生者殺し」
濃紺の装束の女―――日向は冷たくそう言い放った。
「て、転生者殺し!?」
男がそう言い終わらないうちに、日向が振りかざした左手から青い光の糸が放たれ、男の首に巻きついた。
「ぐえっ」と男が苦しみの声を上げながら振り返ると、日向の前に伸ばした左手の人差し指から、今、自分を拘束している蜘蛛の巣と、同じ糸が伸びている事が確認できた。
そして日向が、その光の糸を掴むために右腕を上げた。その右手に付けているグローブの赤い色が、暗闇と濃紺の装束の中で、まるで血の色の様に鮮やかだった事が、男の恐怖をさらに煽り立てた。
「死になさい―――転生者」
無表情にそう言いながら日向は糸を手繰り寄せる―――右手、左手、また右手、と糸を絡め取るたびに、男の体は背中の蜘蛛の巣に引きつけられ、ギリギリと骨のきしむ音を立てながら首が絞まっていく。
「―――!―――!」
もはや呻き声も上げられなくなった男。それに日向が赤い右手で、張りつめた糸に、キュッと最後のひと引きを加えると―――ガクリとその首がうなだれて、男は絶命した。
そして、表情を変えないまま日向が、糸にフッと息をかけると―――男の首を絞めていた青白い光の糸が消え、同時に蜘蛛の巣も消え去り、男の骸がバタリと地に倒れた。
その一連の暗殺行為が終わると、わずかの静寂の後―――空から白い二枚羽の女天使―――エマが現場に舞い降りてきた。
「終わったわね」
標的であった三人の骸を確認すると、エマは自分でそれを指示したにもかかわらず、憐憫の情を含んだ様な、複雑な表情を見せながらそう言った。
それに対して日向は何も答えない―――その代わりに、仕事が終わったとばかりに、顔の半分を隠していた布を下げて、短い髪を風になびかせながら、その顔をあらわにする。
その小さく真一文字に結ばれた唇は、日向の冷静さをさらに引き立たせ、その姿はとても十七歳の少女とは思えない佇まいを見せていた。
殺しに対して、何の感慨も抱かない日向の態度に、エマがさらに悲しそうな目を向けようとすると、
「エマー!―――ルー、頑張ったよー!」
と、殺しの現場におよそ似つかわしくない、明るい叫びがエマに向かって投げかけられた。
声の方向にエマが顔を向けると、首を刺し貫かれた骸を放り投げながら、ルーと名乗った結び髪の少女が駆け寄ってくる―――標的を仕留めた釵を黄色の装束にしまいながら、溢れんばかりの笑顔を見せる彼女は、あまりにも可愛らしく、かつ無邪気であった―――彼女も日向と同じく『転生者殺し』である。
「ご苦労様、ルー」
「あのね、あのね、エマ―――今回の『ウイルス』は、すっごく弱かったよ。スキルを使わなくても、すぐに死んだんだよ」
エマからの労いにルーは、こちらも十七歳の少女とは思えない、常識で考えれば唾棄すべき言葉を、いとも簡単に吐きながらニコニコと笑っている。
「そう……」
それにエマは苦笑の様な、苦しい笑顔でルーに応えた―――それはまるで、無邪気な子供の期待を裏切れない、母親の様な表情であった。
そんなエマの視線の先に、もう一人の『転生者殺し』である白装束の女の、手を合わせる姿が映り込んできた。
歳の頃なら、二十代半ばといったところであろうか―――長い髪を地に垂らしながら膝をつき、己が殺めた標的に対し深々と頭を下げている。
「マリア……」
その女の名前を呼びながら、エマはやはり悲しい目を彼女に向けた―――だが矛盾している。骸となった三人の男たちの抹殺を命じたのは、他ならぬエマである。それでも悲しみを抑えられないのは、天使たるエマも神の意思には逆らえないという事を意味していたのである。
「マリアは真面目だなー」
殺めた標的に手を合わせ、頭を下げるマリアに、ルーがそれを茶化す様な言葉を浴びせた。
一瞬、マリアの顔が曇る―――だが、すぐにそれを収めて、
「ルー、あなたも祈りなさい―――神の子として」
と、ルーに対して死者への祈りを、諭す様に要求した。
「えー、やだよー。ルーは神の子でも、信じているのはエマだけだもん―――そのエマが、殺せって言った相手だよ?なんで祈りを捧げる必要があるのー?」
無垢な容姿とは裏腹に、ルーは年長者のマリアを、まるで小馬鹿にする様にそう言ってのけた。
「ルー……!」
聖女の様な顔を、怒りではなく悲しみに震わせながら、マリアが立ち上がった。
「マリア!」と言いながら、エマが二人の間に割って入ろうとする―――だが、
「仕事は終わったのよ―――長居は無用よ」
という日向の無感動な一言が、場を一瞬で収めた―――日向の言う通りである。彼女たちは暗殺を遂行したのである。それが終わったのなら、その現場に長く留まるのは下策極まりなかった。
「そうね、早く宿に戻りましょう」
日向の言葉を受けて、エマが皆に撤収を促した―――ルーもマリアも、それが正しい事と理解しているので、ここは互いに矛を収めて、その言葉に従った。
三人の女と、一人の天使が闇に溶けながら逃走する―――その最中、日向が言った。
「マリア、ルー……私たちは、たった一つ願いのために『転生者殺し』になった―――人殺しなのよ……」
核心を簡潔に指摘する日向の言葉に、もっとも胸をえぐられたのは、マリアでもルーでもなく、神の使いたる天使のエマであった。
特に他意はなかった。ただ日向は事実を言っただけである。だがその真実はあまりに残酷であった―――『たった一つの願い』と引き換えに、この若き乙女たちは天使と『血の契約』を交わし、その眷族となる事で、暗殺者に仕立て上げられたのだから。
それがエマには悲しかった。そんなエマの気持ちを知ってか知らずか、日向は言葉を重ねる。
「私たちが殺した『ウイルス』も地獄行き……それを殺した人殺しの私たちも地獄行き……とどのつまりは、みんなまとめて地獄行き―――私たちは、みんな同じなのよ」
悟りきった様な日向の言葉に、エマやマリアだけでなく、傲岸不遜なルーさえも目を伏せて、何も言う事ができなくなったまま―――ただ闇を走り続けた。