Ⅰ 王都陥落
柔らかいレーシャの唇の感触が忘れらない。ディールは共に行くレーシャの横顔をじっとみつめた。
ふたりは無言のまま、王都へと馬を走らせた。
王城アルセドが確認できる距離にくると、レーシャの顔がみるみる青ざめた。
ところどころから煙があがり、ちりちりと炎がはぜている。
城下町に入ったレーシャの顔は血の気を失っていた。
街は、異常に静かだった。悲鳴すら聞こえない。
帝国軍はもう引き上げてしまったようだ。
「約束したのに……」
レーシャが声を震わせる。ディールは何もいわない。
民家やありとあらゆる建造物が破壊され、兵や民の屍がそこかしこに転がっていた。
女や幼子も例外はなかった。
レーシャは城を見上げた。
「おのれ! オルドス」
王城は陥落した後であった。ダルティーマの軍勢は撤収していた。
残されたのはラヴィスニアの民と兵の屍ばかり。
その惨状はすさまじく、見るに堪えないものであった。
瓦礫の山と化した王城内をレーシャはひたひたと歩いた。
***
玉座の間には父や弟の姿はなく、見慣れぬ男が一人、
「待ちわびたぞ。レーシャ」
朽ちた玉座に腰をかけていた男が、哄笑する。
レーシャは怒りで全身を震わせて、進み出た。
「わたくしがアーヴァテイルを手に入れるまで、待つと約束したではありませんか」
「俺は気が短い男ではない。おまえたちが遅すぎた」
ある程度は待った、と詫びる気もない様子で、オルドスは冷たく言い放った。
「わたくしは約束通りアーヴァテイルを持ち帰りました。なのに、なのに……」
アーヴァテイルを握りしめたレーシャは、唇を噛んだ。
下腹が痛む。憎しみの波動が、アーヴァテイルと共鳴しているのだ。
レーシャは低くうめくように喘いだ。
「弟達も手にかけたというのですか」
「おまえ以外の人間を生かしておく必要などあるまい」
オルドスは冷たく笑うだけだった。
「信じられぬというならば、亡骸をみるか」
「やめろ外道」
ディールが吼えたが、オルドスは見向きもしない。
「リシテアを返して!」
レーシャが剣をふりかざしながら、叫んだ。
「アーヴァテイルを手に入れ、俺にふさわしい女になったか」
「うぬぼれるな」
レーシャは美しい顔をゆがませた。
「俺のヘカテゲインがおまえを欲している。少し吸わせてみるか、穢れなき乙女の生き血を」
「させるか」
レーシャの後ろに控えていたディールが飛び出した。できるだけ彼女の想いを尊重して、耐えていたのだが、もはや限界だった。
「邪魔をするな。異国の剣士よ」
ディールが繰り出した渾身の一撃をオルドスはあっさりと切り返した。
「それがクィヴィニアか」
オルドスの関心がはじめてレーシャから離れ、ディールをみた。
「だが俺のヘカテゲインの敵ではない」
弾き飛ばされるディール。
続けてレーシャが、剣をふりあげた。
「死ね! オルドス!」
「女の身の上で、ついに魔剣を操るか。その心意気やよし。だが弱い」
オルドスは軽く身をかわすと、アーヴァテイルを構えたレーシャの腕をつかんだ。
「は、放せ」
「レーシャ!」
瓦礫の破片で足を切ったディールはすぐに動けずにいた。
オルドスの魔剣ヘカテゲインがレーシャの二の腕を切り裂いた。
レーシャが小さく悲鳴をあげた。
血が流れ出る腕をオルドスは非情にも天高く掴み上げた。
「痛いか」
オルドスは目を細めて、愛おしそうに、苦痛に耐えるレーシャを見つめた。
「……」
みるみるその傷が修復していく。かすり傷ひとつ残さず、滑らかな白い肌があらわになる。
「アーヴァテイルの力か」
皇帝は、冷笑を浮かべた。
「女神の剣のなかで最強の治癒能力を誇るアーヴァテイル。使いこなせれば、無敵となろう」
オルドスは小さく唸った。
「惜しいな。レーシャ。おまえはすでに魔剣と同化しているにも関わらず、その力を十分に発揮できていないようだ」
オルドスはレーシャを放り投げた。床にたたきつけられるまえに、かろうじてディールが受け止める。
「かかってこい。もう少し、遊んでやる」
***
その後、闘いは長く続かなかった。ディールとレーシャが肩で息をし膝をつく一方で、皇帝は汗一つ流さず余裕の笑みを浮かべている。
「我がアーヴァテイルとディールのクィヴィニアをもってしても倒せぬとは、オルドス、なんという男」
レーシャは崩れ落ちた。
「わたくしの負けです」
「ラヴィスニアは滅んだ。おまえはどうする」
皇帝は、レーシャに考える間を与えない。
「さて、どうするか」
オルドスは意地悪く笑みを浮かべた。
「この勢いでバロムアを血祭りにあげるのも悪くないか」
血の気のないレーシャの顔がさらにこわばった。
バロムアの宝刀バニアスシュリンガーでも皇帝のヘカテゲインには、太刀打ちできないであろうことをレーシャは察知した。
「やめて! やめてください。」
「愛する男のために身を捧げるか」
オルドスは嘲笑する。
「偽った心で俺のそばにいることは許さぬぞ。レーシャ」
レーシャは手で顔を覆った。
「アーヴァテイル。わたくしから心を奪いなさい。あの方への想いをすべて、放棄します」