描画されたテラリウム
―――特A級と赤い印鑑が押されている。
財団の内部にいる人間でも、帯出厳禁の重要書類の原本をこうもあっさり持ち出せる者はいないだろう。
「これは?」
「立川地区の基地跡に収監されているルナティストだ。そいつが、羊歯狂いに関する何らかの情報を握っている」
書類には、その人物の写真と共に名前や体躯などの基本情報が印字されている。
「それでな、虜囚の王―――このルナティストの許に、ある人物を連れていって欲しい。聞き出したいことが山ほどあるんだ」
「羊歯狂いとどんな関係があるんですか」
「それはわからん。しかしそいつと羊歯狂いはたしかにつながっている」
ナンバー665は書類を手にとって流し読みをする。
写真は老齢の男。白髪が肩まで伸びている。収監所で義務づけられている水色の衣服。不敵に笑い、目は落ち窪んで瞳の色すら見えない。
力を失いつつあるルナティスト。創作への意欲を失ったルナティストはもはや狂人となるしか道はない。そんな典型的な終を迎えた芸術家の一人にも見えた。
「稀代の贋作家、フェイクポップ。それがそいつの名前だ。あらゆる作品の模倣を繰り返したルナティスト。
全盛期には、ドゥベイア聖教会の宝物庫から賢者の石を贋作とすり替え盗み出した、特A級芸術家だ。最高位は8位、こいつにはオリジナルがないため参考レベルだがな」
稀代の贋作家、フェイクポップ。
まだキュレーターになって日が浅いナンバー665には聞き覚えがなかった。
過去50年のランカーは記憶しているが、そこにも載せられていないのは、贋作家であるせいだろう。あくまで参考記録として名前が残るだけ。組織としての価値が低い種類の芸術家とも捉えられる。
「フェイクポップに、誰を会わせればいいんですか?」
「お、やってくれるか。それは明日来ればわかる。それからせめて過去10年分のそいつの作品は頭に叩き込んでおけ。面白いことがわかる」
源蔵は年波でやや下がってきた口角を持ち上げて、笑んだ。立ち上がる拍子にナンバー665の肩に手を置いて、
「そこに、そいつと羊歯狂いを結び付けるヒントがある」と耳元で呟いた。
片方のポケットに手を突っ込み、手を振りながら靴音を響かせた。
手前の書架を曲がる源蔵の背中を見送り、書類に目を落とす。
ナンバー665は書庫の掛け時計をちらりと見上げた。まだ30分残っている。特A級のルナティストの情報ならば、羊歯狂いを調査する際に何度も見ているはずだ。書庫の位置も記憶しているため、調べるのに30分とかからないだろう。
チェアーから勢いよく立ち上がると、早足で最奥の書架へと向かった。
最下段の大判、年代は西暦一九〇〇年の後半に絞る。あの年齢ならば、全盛期はその辺りのはずだ。大判書籍を3冊抱え込み、デスクに積み上げる。
ナンバー665が所属する組織―――守護聖人財団の前身、国立芸術研究所の資料だった。端末に未登録の資料。書籍に辺りをつけたことが正解だった。一九九五年の大判資料、その索引にフェイクポップの名前が載っていた。
古い書籍のために、両手で丁寧にページを開く。
フェイクポップの項は三ページに渡って記載されていた。これほど情報が豊富なルナティストも珍しい。立川区の基地跡収監所で、よほど尋問されたのだろう。閉庫準備が進んで、電灯が中央燈を残してすべて消える。薄明りの中で、書籍の文字を指で追う。
どうやら、作品群は別冊になっているようだった。ナンバー665は端末に書籍名を打ち込んだ。
『狂人芸術家作品 ふ~ほ』
「……C級?」
特A級のルナティストならば、個別に作品集が編集されているはずだ。しかし実際に列せられているのは、C級以下作品群。どうも能力と作品の価値が比例しないタイプのルナティストらしい。
番号を記憶して、書架に向かう。C級以下の芸術作品は、中流階級にも普及している。
世間一般的に、高名な芸術家と言えば、ほぼB~C級に限られる。
A級クラスになれば、その名も作品も知られることはない。あまりに、危険だからだ。特A級になればもはや人外。加工が施されていなければ、およそ普通の人間が直視できるものですらない。
書籍を開いて、フェイクポップの作品群を眺める。
ミュシャ、レンブラント、ダリ、ゴーギャン、あらゆる芸術家の模倣が並ぶ。それを高値で売買している。ルナティストの贋作も製作していた。作品にはまるで一貫性がない。筆致も時代も場所もばらばらだ。何かそこに意図があるとは思えない。
―――そこに、羊歯狂いと結びつくヒントがある
この事件を請け負ったことに、源蔵はそう最後に呟いた。
それはおそらく羊歯狂いと何か関連があるのだろうと思っていたが、この作品群のどこかに手がかりがあるとは思えなかった。何か見落としている。最後の作品を観終わっても、ナンバー665は最初に戻ってまた見直す。
ハイヒールの音が聞こえる。そう言えば、調べ始めてからそれなりに時間が経ったようにも思える。
ガス燈を下げて、見回りにきた女性の地下書庫員が、ナンバー665に気がついた。
「あの、そろそろ閉庫時間ですので」
「ああ……」
全身を黒の夜外套で覆ったナンバー665を、書庫員は不審な眼で見つめた。
唯一、見える顔の半分はタトゥーで占められ、その目は暗く虚ろだ。
色の抜けた髪の毛に端正で整った顔を包帯で覆っている。唯一、表情の読み取れる右側には片眼鏡をかけている。
キュレーターに許される入庫証を持ってはいるが、閉庫まで滞在するその男が気にかかっていたのだ。
ナンバー665は書庫員が立ち去るハイヒールの音を気にかけることもなく、ページをめくる。
やがて、ルナティストの模倣作品に共通点を見出した。ほぼすべてが、一八世紀末から一九世紀のロンドンを題材にしている。そのキャンパスの隅に、ほんの小さなガラスケースが描かれていた。縮小印刷では見落としてしまうほどの、ガラスケース。
「テラリウム……これか」
別称ウォーディアンケース。
植物をガラスケースに入れて鑑賞用に邸宅に並べる。これが当時のイギリスで大流行し、絵画の寓意として用いられることも多い。しかも中身には羊歯植物が好まれていた。その紋様が、羊歯狂いの筆致と恐ろしく似ている。
現存する羊歯狂いの作品はナンバー665の肌に描かれているものだけ。キュレーターでさえも、その作品を一度も見たこともない者がいる。
その贋作としての精巧さから、フェイクポップは少なくとも羊歯狂いの作品を何度か見ていることは間違いないだろう。
しかもこの描き方。まるで羊歯狂いを知っているという顕示欲を隠しきれていないようにも捉えられる。小さな手がかりだが、現時点で羊歯狂いの足取りはまったくつかめていない。賭けてみるのも手だ。
ナンバー665は羊歯のタトゥーに彩られた口元に、ほんのわずかな笑みを讃えて、作品集を書架に戻した。