善と悪のマリオネット
誰が描いたシナリオだろうか。
舞台衣装のようにきらびやかなドレスに身を包んだレティシアを、孤児院の子供たちが出迎た。花のようなオレンジ色の衣装は、公爵令嬢レティシア本人の為に誂えられたもの。なのに、どこか浮いている気がして落ち着かなかった。
でも、ここでは私が主役だ。凛と張った声を意識する。
「皆さん、ご無沙汰しておりました。今日は私が焼いたクッキーを持ってきたのよ。みんなで食べてね」
白く美しい手で、少々不格好なクッキーが並べられた籠をシスターのカルメラに手渡す。
貧乏は、人の心を荒ませる。そのせいで虐めが起き、子供も暴れていた。それを見ているシスターもかんしゃくを起こし、子供を殴る。レティシアの寄付により心の平穏を取り戻した孤児院は、幸せな空間となったのだ。
《レティシア・パロモ嬢は、慈善活動に心血をそそぐ人格者である》
レティシアが領民からそう言われるようになって、季節がひとつ廻った。
欲求が満たされている。羨望の眼差しを受け、レティシアは顔を紅潮させた。
「また来たのね、パロモ家の偽善者が」
わざと聞こえるように、修道院のシスターがつぶやく。それを聞いて、他のシスターもくすくすと笑った。
貧乏を理由に子供たちに暴力をふるっていたような人間の気持ちがそう簡単に変わるはずもない。
手に力が入り、思わず震える。ふざけないでと大きな声を出したくなる。
「あなたたち、レティ様になんてこと」
カルメラがシスターを叱責する。思わず止めていた息をふぅっと吐き出した。握り拳を作る事が癖になっているが、その一声で緩んだ。手をあげそうになるほどの衝動は収まる。
レティシアは自分の趣味とは違う衣装をまとう。それは感情的にならない為、自分を騙す為のもの。けれどここにはカルメラがいる。レティシアを理解してくれる人がいる。
「申し訳ありません、レティ様」
「いいえ、気にしていないわ」
カルメラが孤児院への寄付を求めて、単独で晴れの日も雨の日も、何度もパロモ家を訪れた。荒んだ孤児院を助けてほしい、と。
その熱心さに心を打たれ、レティシアは慈善活動への関心を持つようになった。幼いころに母を亡くしているレティシアにとって、彼女の温かさは新鮮なものに感じていた。
レティシア様、と声がかかる。カルメラがしわだらけの顔をくしゃくしゃにして、笑顔を見せていた。
「子供たちからお歌のプレゼントがあります。どうぞ中へ」
カルメラに笑みを返す。子供たちの歌は大好きだ。上手じゃなくても、気持ちが伝わる。あの子たちはまだ、偽善者という言葉も概念も知らない。本当の意味で感謝を受け取れる相手だ。
ボリュームのあるドレスを手で掴み、大仰に振り返った。
「ありがとう」
今日も演じるのだ。似合わない色のドレスを着こなして。
「お前か、偽善者のレティシアはとは」
公爵令嬢であるレティシアに対し、このような口をきく人間はそういない。陰口ならいくらでもあるが。
自宅の台所にパンのレシピを考えていた最中に無礼な声をかけたのは、どこかで面識のある男だった。身なりもしっかりしているから不審者ではない。誰だっけ、とまじまじ顔を見ても思い出せない。濃い茶色の髪と瞳、特別美しい顔立ちでもないが、高身長は華があった。
「こんな所で粉まみれになって」
意地の悪い笑みを向けられ、レティシアはうつむいて自身の姿を見る。エプロンはもちろん、薄紫の飾り気のないドレスも汚れている。慌ててぱたぱたはたくと、雲のように白く舞った。
「どなた?」
「将来の夫だよ、顔も粉まみれの不器用さん」
「将来の夫だなんて。あなたの事なんて知りません!」
尊厳を守る為わざと声を荒げるが、男は愉快そうに笑って不出来なパンを口に運んだ。不器用なりに頑張ったとはいえ失敗した試作品だからおいしくないのに、と止める間もなく。
もぐもぐと口を動かし、少し眉をしかめたがもう一つ手にとった。
「じゃ、また後で」
唖然とするレティシアはお構いなし。勝手な振る舞いをされ、気持ちのやり場がない。
そこへ侍女がやってきて、来客なので身支度を整えるように、と告げた。
来客。彼の事だろうか。身支度をする前に見られてしまっては意味がない。
来客はフリアス侯爵とその息子だという。身支度をしながら侍女に聞いた名前だけでは、レティシアは相手を思い出せなかった。一体なんの用だろう。重い足取りで応接室へ向かう。
「お待たせいたしました」
「遅いぞ、レティ嬢」
謝罪を言い終わる前に、あの男が憎たらしい口を開いた。
「こら、そんな口をきくんじゃない」
親であるフリアス侯爵が諫める。ずいぶんとおだやかそうな侯爵だ。一方、生意気な口をきいた息子は返事もせずレティシアを見つめている。
視線を感じながら、父の隣に着席する。あの男の前だ。
「お父様、どういうことですか?」
「フリアス侯爵と、そのご子息のエドアルド卿だ」
そういう事を聞きたいのではない。
「エドアルド卿は……」
「エドでいい」
挑戦的な瞳と物言いで思い出した。彼とは王宮でのパーティーに参列した時に会った。正確には「悪名高いフリアス家」と噂話の餌になっていたから見ていただけだが。年頃は確か、十七、八歳だったはず。レティシアは年下の男を観察した。
「お噂は聞いておりますよ、エド」
フリアス家は良くないことで稼いだ金で爵位を買ったのでは、と評判だ。具体的にはどこまでが真実かわからない。
人のよさそうなフリアス侯爵を見ると、眉を下げて困ったような顔をしていた。悪い事を言ってしまったかなと反省する。
レティシアの事など構わず、エドアルドは口を開いた。
「レティ嬢にまで噂が及んでいるとは、光栄だな」
本当に光栄だと思っていないだろう、という皮肉な笑顔を向けてきた。
「レティで結構」
普段ならば、呼び捨てなんて認めない。けれど、売られた喧嘩は買わなくては。
二人は、口を開くことなくにらみ合いを続けた。
「おいおい、いい加減にしないか。見合いの席だぞ」
レティシアの父であるパロモ公爵が、呆れたように口をはさんだ。
やはり見合いだったか。その前に人にちょっかいをかけるとは、しつけのなっていない息子だ。レティシアにとっては何も面白くはない。
パロモ家の末娘として生まれ育ち、結婚もある程度は自由にできるものと思っていた。知り合う男性も似たような世界にいる方ばかりだし、親に反対されるような身分の人間など相手にしない。
なのにこの生意気な年下の侯爵子息を連れてくるなんて。評判の悪い男と、なぜ見合いなど。
エドアルドとのにらめっこを止め、父を見る。昔ながらの貴族とはいえ、有り余るほどお金があるわけではない。生活は質素なものなのに、レティシアには自由に使えと言ってくれる、心が大きくて優しい父だ。
そんな人がどうしてフリアス家と婚姻関係を結ぼうだなんて思ったのだろう。何か利点でもあるというのか。
「目をそらした。レティの負けだ」
突然の勝利宣言。ちらりと父を見たせいで、エドアルドとの勝負に負けたらしい。
「待ちなさい。にらめっこしようなんて言っていない。やるならもっと公平にしなくてはいけないわ」
意地になって言い返すと、両家の父は小さく笑いを噴出した。
「やっぱり、お似合いだな」
父に言われ、あっけにとられる。どこが、と言い返す事はしなかったが、勝ち誇ったエドアルドはまんざらでもなさそうだった。
「私はこんな子供じみた方、いやです。どうしてこんな縁談をお持ちになったの?」
娘から非難され、父はたじろいだ。ぐーに握った手で父の脇腹を軽く叩いている。すぐ手をあげる娘に対し苦笑いを浮かべるものの、その手を優しく包んで押し戻し、まっすぐに目を見て微笑んだ。
「今すぐ返事をしなくていい」
その後、フリアス侯爵とパロモ公爵はお互いの趣味である狩猟について談笑し始めた。それがきっかけで仲良くなったらしい。
そんなこと、レティシアには関係ない。エドアルドとはそれからもにらみ合いをしつつ、一言も言葉を交わさなかった。
まったく、気の強い男だ。
エドアルドと見合いをさせられてからひと月あまり。あれから連絡はない。
それならそれでいい。あんな奴の顔なんて見たくない。でも、あっさり引き下がられて腹立たしいのも事実。怒りに任せてパンを調理台に叩き付けた。
手紙のひとつも寄越さないとは気が利かない。勝手にかき回して音沙汰なしって! 呼吸を荒くしながら作った甘いパンは、練習の甲斐あって見栄えも味もいいものになった。
領地内から、寄付の依頼が絶えることはない。
しかし限りあるお金。すべての人を救ってあげたいけれど、思うだけでは無理だ。カルメラの修道院に、今月は寄付ができない。せめてものお詫びとして、パンを持っていくと伝えてあった。子供たちの様子も見たい。
ドレスは、花柄が刺繍された黄色のもの。一度着ていったものだが、新調する余裕はない。
主役のように登場し、崇められる快感。そうでもしないと騙せない薄氷の偽善。姿見にうつる自分を操る魔法の衣装は、やっぱり似合わなかった。
侍女を連れず、馬車にゆられ修道院についた。時間より早かったせいで、出迎えはない。
しかし勝手知ったる場所だ。寒い寒い、とレティシアはパンの入った大きな籠を抱え、孤児院へ足を向ける。正面玄関に行く前に、庭園を覗いてこよう。
冬になり色とりどりの花はなくなったけれど、冬野菜が育つ庭園に目を細める。修道院では自給自足が基本だ。
子供たちも、レティシアが持ってくるクッキーやパン以外、甘いものは口にしておらず、どれだけ持ってきても足りないくらいだ。今日はさすがに歌のプレゼントはないだろうけど、甘くふわふわのパンをあげたらどれだけ喜んでくれるかな。
子供たちの笑顔を想像していると、窓の外に、シスターたちの笑い声が届いた。すっかり雰囲気がよくなった、とレティシアも笑みを浮かべるが、話の内容に表情は固まった。
「今月は寄付なしだって。あれだけいい暮らしをしていてケチなこと」
「毎回、派手なだけで趣味の悪いドレスよねぇ。見せつけているのかしら」
「人格者だと言われて、主役にでもなったつもりなのよ」
辛辣な言葉に、持っていた籠をただ力強く握りしめるしかできなかった。
別に、構わない。役にたつことをしているし、僻まれるのも当然。陰口を叩かれる事には慣れている。今更落ち込む事じゃない。
暖かに輝く太陽の下、冷たい空気を吸って落ち着かせる。そこへ、カルメラの声が聞こえてきた。
「あなたたち、そろそろレティ嬢が来るわよ」
ほっとした。カルメラは、こんな陰口の輪に入ることなんてない。彼女は心優しきシスターだ。噛みしめていた唇を開放すると同時に無意識に涙が浮かんでくるが、レティシアの安らぎは一瞬で終わる。
「美味くないもん持ってくるってさ。あんな偽善の塊より、金が欲しいもんだね」
あざ笑うシスターたちの声とともに、カルメラの言葉が頭の中で何度も蘇る。
信じていた、優しき老女。偽善者でないと言ってくれたカルメラに救われてきたのに。
「許さない」
籠をそっと置き、レティシアは修道院の中に足を踏み入れた。
大きな音をたて扉を開き、部屋に足を入れる。甘ったるい匂い。どこで買ってきたのか、カップケーキが並んでいた。レティシアが作るものなんて、足元にも及ばない美しい見た目をしている。
怒りを持って睨み付けるレティシアの姿を認めたシスターたちから、小さな悲鳴が漏れる。
「言ってくれるじゃない」
会話を聞かれていたと悟り、シスターはバツが悪そうにしていた。けれどカルメラは開き直った顔で、口元に笑みさえ浮かべていた。
「偽善者のレティ様じゃないですか。お迎えもせずすみませんね」
さらに怒りがこみ上げるが、一度奥歯を噛み、衝動を抑えた。
「私は偽善者よ。でも、本当に子供たちの笑顔が見たかった。あの子たちが楽しそうに歌ってくれるのが幸せだった」
こんなことで泣きたくはない。性格に合わない派手なドレスを視界に入れる。そして糸で引き上げられたかのように再び顔をあげ、乾いた瞳を向けた。
主役は、私だ。
「寄付は子供たちにしているの。けして神の名を借りて好き放題しているあなた方ではないわ」
修道院内で跳ね返る声は、レティシア本人にぶつかってくる。
「では、どうなさいます? この孤児院に寄付することをやめますか?」
「やめない。でもそれでは私の気が済まないから、全員殴らせて」
握り拳を作ったレティシアに、さすがのカルメラも目を見開いた。
ああ、ダメだ。糸が切れていく。ぷつりぷつりと、音をたてて。
「何をおっしゃいます……」
「いいから全員整列なさい!」
偽善者の糸が切れ、レティシアは自由に動いた。その結果が暴力的な事になるとわかっていたから、自分を偽っていたのに。
激昂して理性を失っているレティシアを見て、カルメラはかえって余裕を取り戻した。
「そう言われて、おとなしく殴られるとお思い?」
おお怖い、と肩をすくめると、周りのシスターもつられて笑い始めた。
悔しい。こんな時、怒りに任せて行動するしかできないなんて。もっと頭のいい解決方法があるはずなのに。
背中を震わせるレティシアの後ろから、コツコツと靴音が響いた。
「レティはバカか」
いつか聞いた声に振り返る。久方ぶりに会ったエドアルドだが、なぜここに。手には、先ほど庭園に置いていった籠があった。
「そんなやつら放っておけ。子供たちにこれをプレゼントするんだろ。孤児院はどこだ?」
忌憚のない言い方に圧倒され、レティシアは握り拳を開き、孤児院の方向を指さした。
「行くぞ」
さっさと後ろを向いたエドアルドに吸い寄せられ、足取りもままならないままついていった。
誰かのシナリオの上を歩くような気持ちで。
「詳しい話は、これを届けてからだ」
振り返りもしない。長身な上に黒いコートを着ているから威圧的だ。でも、その後ろ姿には温かみを感じた。
いつものように、子供たちはパンを喜んでくれた。冷たくなってしまっても、心の底から喜んでくれている。
「レティさま、おいしいよ」
輝く瞳をまっすぐに向けられ、レティシアはつい顔をそらしてしまった。
大きくなれば、レティシアを「偽善者」と呼ぶのかもしれない。けれど今だけは、いい人だと思って欲しい。
レティシアが乗ってきた馬車を返し、自分の馬車に乗って帰ろうと言われた。今日は何も反論せず、その指示に従った。敗北者に発言権なんてない。
「すっかり糸が切れて、しょぼくれたな」
向かいに座るエドアルドは、愉快そうに言う。
「ひと月も放っておいて、今日はどうしたんです」
皮肉を込めた言葉に、エドアルドは腕を組んで笑う。
「寂しかったか」
「違います! 調子に乗らないで」
「すいませんね。筆不精で、直接会わないと気が済まない。とんでもなく忙しい合間に、せっかく時間を見つけて会いに来てみたら、修道院に行ったと聞いてわざわざ、わざわざやってきたらこれだ」
繰り返される恩着せがましい物言いにも、怒る気力がわかない。そうでしたか、と盛大な溜息で返事をした。
「シスターだって、普通の人間です。わかっていたけれど、彼女は違うって思ってました」
カルメラへの信頼が裏切られた。それと同時に、そんな事も見抜けなかった自分が情けない。勝手によりどころにしていた。
「そうは言っても、まさか殴ると言い始めるとは思わなかったな」
冷静になると恥ずかしくなる。
「それは、その……。すみません、喧嘩っ早くて」
「やりかねないけどな。父親すらグーで突いていたのを見た」
その時は嫌われたってかまわないと思っていたから。
「エドアルド卿は……」
「エドでいいって」
優しいのか、意地が悪いのかわかりかねる笑顔を向けられ、レティシアは渋々あだ名で呼びかけた。
「エドは、私の事をご存知なのですか。なんだか馴れ馴れしくて戸惑っております」
馴れ馴れしい、という表現にエドアルドは肩をすくめた。何も答えず窓の外を見る。閉じた空間で二人きり。なんだか落ち着かない。
「ここで止めてくれ」
うつむくレティシアを見る事なく、エドアルドが御者に告げたその場所はさびれた修道院だった。
蔦の絡まる塀と教会。汚れていて人が生きる気配のない空間だが、畏怖の念は沸いてこなかった。
「ここは?」
馬車から降りる。冷たい風は優しくレティシアの頬を撫でた。
「俺がいた修道院だ」
フリアス家の人間ではないのか。言葉の続きを待つと、エドアルドは少し照れくさそうに頬を人差し指でかいた。
「元は孤児でね。引き取られるまでここにいたんだ」
あまり似ていないフリアス侯爵の優しい困り顔を思い浮かべる。
「それはいい。父について狩猟に出て、君のお父上に会った。色々聞いたよ」
勝手な事を。不服に思う気持ちが顔に出ていたのか、エドアルドはレティシアを見て小さく肩を揺らした。バカ正直に、と思ったのだろう。それには構わず、エドアルドは小動物が穏やかに暮らしていそうな庭園を進んでいく。冬場だから緑は少ない。レンガで足元は固められていたが、手入れをしていないからか汚れていた。
「話を聞いてみたら、慈善活動に心血を注いでいると言う。君のお父上は嘆いていたよ。いつか人に裏切られた時、活動をやめてしまうのではないかと」
ついていった足を止める。父は、こうなることがわかっていたのだ。長く生きていれば、人に裏切られる事もあるだろう。レティシアは、まだそういった経験がなかった。慣れていると言いながら、あの人は美しいと信じて疑わなかったのだから。それをわかっていながらレティシアに任せてくれた父を思い、初めて、悲しい気持ちになった。
詳しく話したことはない。けれど、末娘のあぶなっかしさを心配してくれていたのだろう。
「昔から、母がいないことをからかわれたり、人のいい父をバカにされたりすると意地になってやり返していたのです。喧嘩っ早いのはその時から直らなくて」
すると、エドアルドはなぜか柔らかい笑みを見せた。不審に思って黙って見返すと、小さく肩をすくめて真顔に戻る。
「君は誰かの為に怒るんだな」
そんなことはない。本心からそう思ったけれど、エドアルドの言葉を噛みしめたくて口を開けなかった。
誰かの為に怒るって、まるでいい人みたい。
「どうした? 歩かないのか」
いぶかくみるエドアルドに対し、首を振って再び足を進める。
「それで、どうしてエドが私に興味を?」
わざとそっけなく尋ねる。そうだな、と言いにくそうに生返事をして、エドアルドは足を止めた。庭園の真ん中。元は噴水でもあったのだろう。枯れ落ち葉が溜まっているだけで、水気はまるでない。
「ここの空、キレイじゃないか? 俺が子供の頃好きだった場所だ」
顎をあげ、空を見上げた。つられて見上げるが、どこにでもある、いつもの冬の青空にしか見えなかった。そうですね、と軽く返事をする。
「思ってないだろ」
上を見たまま心を読まれ、レティシアは思わず喉のつまる音を出してしまう。
「思い出とか、思い入れの違いだよ。俺にはある思い出も、レティにはない。感情なんてそんなもんだ。分かり合えない奴とは分かり合えない。気にするな」
励ましの言葉だと気が付くには、少し時間がかかった。
「見せに来てくれたの?」
「俺がわざわざそういう事をする人間に見えるか」
吐き捨てられたセリフに、レティシアは思わず噴き出した。
「何がおかしい」
「おかしいです。私の知るフリアス家の印象とはだいぶ違うようですね」
むっとした顔が、一瞬にしてほどける。言葉の意味を慎重に探っているようだ。
「それは……人のよさそうな父の顔だって、真実ではないかもしれない」
口を尖らせる。確かにすぐ信じるのは危険だ。けれど、長く付き合った所で見抜けない事もある。
「教えていだだけませんか。どうしてフリアス家が悪く言われるのかを」
覗き込んでねだると、エドアルドは居心地が悪そうにそっぽを向いた。
「詳しくは言えないような事を知ってしまい、その隠ぺいに係わったんだ。その見返りとして爵位を……」
そこまで言い、口を閉ざした。
本当なら、軽々しくレティシアに教えてはならないだろうに。以前、王室内で汚職事件があったと噂されたが立ち消えになっていた。それと関係あるのだろうか。
「申し訳ありません。踏み込んで聞いてしまって」
「いや。父はあの通りの人だ。面倒ごとにも巻き込まれやすい。新しい面倒ごととして、俺とレティとの縁談まで断れずに受けた」
「父が迷惑をかけてしまったようですね」
自分で結婚相手くらい決めると言いながら、一向に相手を見つけようとしないレティシアに業を煮やしたのだろうか。
「いや、そうではない」
続きを口にしようとして、少しためらう。豪胆な印象とは違う、少し繊細な表情で下唇をかんだ。
「どうして君に興味が沸いたのか、との質問に答える。レティは孤児院に援助していると聞いた。俺は孤児だったから、世の中いいやつもいるもんだと感心した。だが本人は熱に浮かされたように毎日子供たちの事を考え、そんな自分は偽善者だと責めているという」
父の前で弱音を吐いたつもりはないが、いかんせん顔に出やすい。恥ずかしくなってうつむいた。
「面白いじゃないかと思った。だから、俺が会わせてくれと頼んだ。断れなかったのは、俺の頼みだ」
「私に、会いたかったと?」
男性に、会いたいと言われた経験はない。その言葉を冷静に振り返り、顔に血が上っていく。思わず、手で頬をおさえた。冷たい手に血が巡るようだ。
「でも、実際どうです。負けず嫌いで勝気で手も口も出すのが早い。酷い偽善者でしょう」
カルメラの声がまだ残る。自分で口にして、落ち込んだ。
「人間、いい面だけじゃない。悪い面だけでもない。どちらかに傾くかもしれないが、君はずっと、善に傾いているだけだ。まったくもって想像通り」
褒めているのか慰めているのかわからないようなそっけない口調だ。でも、レティシアの事を思って言ってくれていると感じられた。
「エドも、秘密を守っているせいで悪い噂にさらされている。きっと皆、勘違いしていることでしょう。私から言わせれば偽悪者です。お国の誰かの秘密を守るための悪い人です」
「なるほど。それなら悪くないかもな」
エドはようやく、顔をほころばせた。この人が、心の底から大笑いする姿を見てみたい。その感情は、子供たちの笑顔に囲まれて満足するものとはまるで違っていた。
「二人でいたら、ちょうどいいかもな」
「そうですね。いい塩梅になりそう」
同調してしまった。まるで「将来の夫」と名乗った事を承諾したようなものではないか、と照れくさくなる。
初対面の時は親同士の決め事で見合いをするから、嫌々の皮肉で「将来の夫」と名乗ったのだと思った。それは、もしかして本心? 確認をするのは恥ずかしい。
レティシアは、気持ちを隠して強い言葉を放つ。
「私はまだまだ、偽善者で居続けます。父のお金を使うだけじゃなく、もっと広く、長く続けられる方法を考えなくてはいけません」
「頼もしいな」
気が付けば、太陽は傾き始めていた。寒さで冷えた手をすり合わせる。帰ろう、とエドアルドに差し出された手を自然と握ろうとして、やめた。
「調子に乗らないで」
顔は見られなかったけれど、エドアルドはやれやれと肩をすくめているだろう。
これからは、似合わないドレスを着なくても大丈夫。
切れかけた糸は、エドアルドのおかげでまたつながっていく。誰に感謝されなくても見ていてくれる。それだけの見返りがあれば十分だ。偽善者だから、見返りが欲しい。
これからシナリオを描くのは、自分。舞台にエドアルドと一緒に立つような、そんな物語になるかもしれない。
了