8. 過日の記憶
あの日の放課後、私はいつも通りに学校の図書館に立ち寄って、何か面白そうな、読み応えのありそうな本は無いかと探していた。
気になる本はなかなか見つからなかった。ぶらぶらと書架の間を物色して回っているうちに、ふと、黒い背表紙に金文字で、ラテン語らしきタイトルの書かれた分厚い本が目に留まった。
他の本と違って、背表紙には図書館のタグが貼られておらず、恐らくはそれに引っかかったのだろうと、そのときの私は考えた。誰かが置いていったものだろうかと気になりつつも、私は視線の先にある本を手に取った。
窓際に並ぶ机には、度のきつそうな眼鏡をかけた男子生徒がひとり座っていた。どうやら勉強中であるらしい彼の邪魔をしないように、少し離れた場所に座って、改めて本の表紙を観察した。
「『四王国年代記』……?」
タイトルの綴りから意味を推測しながら、なんとなく漏らした呟きは、静かな室内に思ったより大きく響いたように思われた。
ちらりと視線だけを男子生徒の方に向けてみると、彼は目の前の本に集中しているようだった。
著者名も無く、題名だけが書かれた黒い表紙を開いて、その内容がちゃんと読めることに私は安心した。
──それが日本語で書かれていたかどうか、その辺りの記憶は曖昧だ。
†
四つの王国と、大昔に滅んでしまった西方の帝国の話。
はるか東方の奇妙な風習、南方の恐ろしい疫病、長く続いている戦争の話。
類稀なる実力を備え、月の加護を受けて、霊峰を越えて異形の軍勢と戦った英雄の話。
いくつもの幻想的な物語の中で、何より心惹かれたのは、世界に根差すいくつもの迷宮の話だった。
富と名誉、力を求める挑戦者たちのために用意された、魂を研鑽する試練場。
いつからか現れたそれらは冒険の舞台であり、その場所そのものが、ひとつの物語であった。
地下墓地、要塞、竜の寝床。ページをめくるたびに現れる迷宮たちに、私は心を躍らせた。
ここで、ちょっとだけ私の話をしておこう。
私は、物心ついた頃にはダンジョンが好きだった。霧ふり山脈の黒き坑に思いを馳せたり、何度も死のパラグラフに飛ばされながら暗黒城を探索したり、押入れにあった古いパソコンで悪の魔術師の地下迷宮を攻略したり。
高校に入ってからも、私はインドア派を貫いて、ゲームや小説に没頭し続けていた。
だからこそ、私は時間が経つのも忘れてこの本に読みふけり──
†
下校を促すチャイムの音に、いきなり意識を引き戻された。窓の外を見れば、いつの間にか空が青く染まり始めていた。眼鏡の男子生徒は既に席を立っていて、受付で本の貸し出しカードに名前を書いているところだった。
この本は図書館の蔵書では無さそうだけれど、借りていっても大丈夫だろうか。覚めていく心の片隅でそんなことを考えながら立ち上がったとき。
──みしり、と建物が軋んだ。
一体何事かと思う間もなく、目の前の机が裂け、周囲の景色が捩れ、歪んでいった。黒表紙の本や裂けた机が、床の上に広がる暗い裂け目へと吸い込まれていった。
身をすくませ、ただ立ち尽くしていた私に向かって、誰かの大声がかけられた。
「逃げろ、馬鹿!」
声の方に顔を向けると、眼鏡の男子生徒がこちらに走ってくる姿が見えた。次の瞬間、私は彼に突き飛ばされ、本棚に背中を強くぶつけてしまった。
尻餅をつき、背中の痛みで動けない中、どうにか顔を上げ、視線を動かした。
急速に広がっていく真っ暗な裂け目に足を取られた男子生徒と、慌てて逃げていく図書委員らしき女子の姿が見えた。
それからすぐ、本棚から崩れ落ちてきた何冊もの本に視界を遮られ、私の記憶もそこで途切れてしまった。
†
どれだけの間、気を失っていたのかは分からない。全身の痛みで再び意識を取り戻すと、私は仰向けの状態で瓦礫の山に埋もれているようだった。
目を開けば、外からわずかに差し込んでくる光があった。故障してしまったのか、両耳の補聴器はずっと耳障りな騒音を流し続けていた。
かろうじて動く左手で補聴器を取り外し、静かになったところで目を閉じた。耳が使えないのは問題だけど、どうしようもなかった。
「何が、あったんだろ……」
自分の声に違和感を覚えながら、薄暗がりの中で思案した。あの裂け目は、真っ当な自然現象とは思えなかった。
近くに人が居るだろうか。大声を出して助けを呼ぶべきだろうかと考えていると、遠くから誰かの声が聞こえてきた。
「こりゃまた大量に落ちてきてるじゃねえか。こんなことなら、荷車でも持って来れば良かったぜ」
「でもよう、ココってあの大鬼の家だろ? 勝手に庭に入ったらマズいんじゃねえか?」
「だから、金になりそうな物だけ適当に拾って、さっさとずらかるんだよ。ほら、行くぞ」
私の戸惑いはさらに大きくなった。補聴器を外しているはずなのに、はっきりと聞こえてくる会話。おまけに、話している言葉は覚えの無い言語であるにも関わらず、その意味はちゃんと把握できていた。
その上、近づいてくる足音から会話の主たちの背格好──ひとりは大柄、もうひとりは随分と小柄で、私と同じくらいの背丈だろうか──までイメージできてしまう、というのはどう考えてもおかしかった。
「明晰夢とか幻覚とか、そんなチャチな……」
思わず漏れた呟きは、ごそごそと瓦礫の山を漁り始めたらしき物音に掻き消された。考えるのは後回しにして、私は大きく息を吸い込んだ。ちょっと胸が苦しいのは我慢した。
「すいませーん! 出してくださーい!」
私の声が届いたのか、外の物音が止んだ。慌てた様子で離れていく足音の後、小声での会話が始まった。
「女の声だったよな。一緒に落ちてきたのか?」
「落人を見つけたら、協会に知らせろって話だったよなあ」
「まあ、待てって。埋まったまま出て来れないんなら、大してヤバい奴じゃないだろう。だったらよ……」
声はさらに小さくなり、さすがに聞き取れなくなった。しばらく待たされるかと思ったものの、すぐにふたりの足音が戻ってきた。
「なあ、アンタ、まだ生きてるか?」
「あ、えっと、はい」
「よし、すぐ出してやるからな!」
いろいろと物色していた先程までとは違って、勢いよく瓦礫をどかしていく騒がしい音が聞こえ始めた。
覆い被さっていた建材やら本棚の残骸やらが見る見るうちに取り除かれていき、外の様子が私にも段々と見えてきた。
目の前には、茜色の空が広がっていた。夕焼け色に染まったような薄い雲の向こうに、太陽の光が三つほど見えて、それは後で考えようと意識から排除した。
視界の片隅には、避暑地の別荘っぽい丸太小屋が見えていて、その奥には深緑の木々が生い茂っていた。学校の近くに、こんな場所は無かったはずだ。
それから、せっせと瓦礫を放り投げている緑色の肌の男がふたり。これが夢じゃないとしたら、壮大なドッキリであるか、強く頭を打ちすぎたか──
「よう、動けるかい」
大柄な方の男が足の上に乗っていた本棚を持ち上げて運んでいくと、その横から小柄な方の男が話しかけてきた。たぶん笑顔なんだろうけれど、緑色の肌に、口の端から見える尖った犬歯が危機感をひどく募らせた。
左手を支えに上体を起こして、足を動かそうとしたところで、右足がずきりと痛んだ。そんな私の様子を見て、男たちは目配せを交わした。
「おい、ホブ。お前ちょっと術師を呼んでこい」
「お、おう……上手くいくのかよ?」
「いいから早く行けって」
手を振って大きな方の片割れを追い払うと、小男はまた私の方へと向き直った。彼は腰を落として、私と目線を合わせてきた。
「俺はヨブってんだ。アンタ、名前は?」
「えっと、あの、ここは?」
「……まあ、その辺は追い追い説明してやるからよ」
じっと私の目を見たまま、彼は「名前だよ、名前」と言い募ってきた。
小男から目を逸らすこともできず、笑顔の圧力から逃れるべく、私は口を開いた。
「わ、私は、えっと」
仕方なく名乗ろうとしたそのとき。私の言葉を遮るように、小男の背後でどすん、と何かが落ちたような大きな音がした。
驚き振り返ろうとした小男の頭が、大きな手に掴まれ、持ち上げられていく。私の視線もつられて上へと動いて、カーキ色の外套を羽織った大男と目が合ってしまった。
肌は浅黒く、髪は銀灰色。厳めしい面構えに加えて額に生えた二本の角が、昔話に出てくる鬼をなんとなく連想させた。
角の生えた大男はすぐに視線を逸らして、彼の手からなんとかして逃れようと暴れる小男を睨みつけた。
「あァ、ヨブって言ったか? ここが誰の家だか知らんようだから、教えてやろうじゃないか」
「し、知ってますぜ、ワイスの旦那ァ! これにはちょいと、ワケが」
「そうかそうか。生きてたら聞いてやるよ」
ワイスと呼ばれた大男は、言い訳をぶった切って片足を引き、半回転した勢いに任せて小男を放り投げた。
絶叫しながら遠くへと──丸太小屋の建っている丘の中腹から、ずっとずっと下の街並みの方へと──飛んでいくヨブを見送って、大男はふん、と鼻を鳴らした。
「さて、どうしたもんかな」
そう呟きながら振り返った大男の外套は、まだらに赤く染まっていた。どうかこれが夢でありますようにと願いながら、私はまた気を失った。
†
残念ながら夢では無さそうだと諦念したのは、次に目が覚めたときだった。
丸太小屋の中、大きなソファに寝かされていた私は、慎重に起き上がって周囲を観察した。どうやら居間であるらしい部屋の中には、簡素な机と棚が置かれているだけだった。
両足をソファから投げ出したところで、全身の痛みがほとんど消えていることに気がついた。右足に感じる違和感は、添え木によるものだった。
ソファは大きく、足が床につかなかった。無理に立ち上がらない方がいいだろうかと迷っていると、部屋の外から近づいてくる大きな足音が聞こえてきた。
反射的に耳へと手をやったものの、そこに補聴器は存在しなかった。
「何だろ、もう」
これはもう、ひとりで考えていても埒が明かない。小さく首を振って、大人しく足跡の主を待つことにした。
大きな扉を開けて隣の部屋から入ってきたのは、やはり角の生えた大男だった。
どうやら着替えたらしく、今は小奇麗な服装になっていて、その手には茶器らしきものを乗せた丸い盆が乗っていた。彼は黙ったまま盆を机の上に置き、ソファの向かいに置かれている椅子にどかりと座り込んだ。
そのまましばらく、私を観察するように見つめていた彼が、ゆっくりと口を開いた。
「……処置はしたが、どこか痛くは無いか」
「えっと、はい、大丈夫です」
厳めしい顔つきではあるけれど、視線は優しそうな感じだったからだろう。お礼の言葉がすんなりと口から出て、私は頭を下げた。
「助けていただいて、有難うございました。正直、何がなんだか分かってないですけど」
「いや、十分理解している方だと思うが」
私の返事を聞いて、大男も肩の力を抜いたように見えた。
大きな湯飲みに薄い色のお茶を淹れて私の方に差し出すと、彼は自身を親指で指し示した。
「俺はワイス。ここの家主だ」
「えっと、私は野塚──」
「ああ、待った!」
大声で遮られて、思わず私は身を縮ませた。バツが悪そうに顎を掻きながら、ワイスは声を抑えて話し始めた。
「いきなりで、すまんな。だが、真名は──お前さんの本当の名前は、こっちじゃ絶対に名乗らない方がいい」
彼の話によれば、真名を知られるということは、行動の自由を奪われるというのと同義であるらしかった。《秘術》なるものを使われれば、存在そのものを支配されかねないのだと言い含められ、どうにか理解した私ははたと首を傾げた。
「えっと、それじゃあ、私は何て名乗ったらいいんでしょうか」
「お前さん、適当なあだ名は無いのか」
「いえ、特には……」
狭い交友関係の中では、苗字か名前をそのまま呼ばれていたので、これと言った偽名なんて思いつかなかった。
長考タイムに入った私の様子を見て、それならば、とワイスが口を開いた。
「ノッカ、というのはどうだ。聞こえちまった真名の一部をもじったものだがな」
「そんなのでいいんです?」
「うむ」
覚えやすいのがいいんだと頷かれて、とりあえず私は納得した。
この決断が、いろんな人から余計な一言を貰ってしまう原因になるのだとは、あのときの私は考えてもいなかった。
……それはまあ、大した話ではないのだけれど。
†
私がノッカと名乗ることにした後、テーブルに移動して食事を頂きながら、ワイスから色々な話を聞いた。
世界を繋げる裂け目によって、ときどき上の世界から様々なモノが落ちてくること。私もその一例であり、落人と呼ばれていること。
元の世界に戻る方法はあるものの、時期を選んで高度な(そしてとても高価な)《秘術》を使う必要があること。
一緒に落ちてきた物品は、ひとまず私に所有権があり、不要なら協会が買い取ってくれること。
丘の麓にある市場のこと。私の耳に宿った《恩寵》なるもののこと。
ダンジョンのこと。ダンジョンの話を聞いて、置かれている状況を忘れて興奮したせいで、話が大幅に脱線したこと。
被召喚者のこと。腕輪のこと。三つの太陽と十二の月のこと。
それから、外の瓦礫の山には、一緒に落ちてきた人は見当たらなかったこと。
ずっとそのことが気に掛かっていた。少なくとも、私以外にもうひとり、巻き込まれた人がいるはずだった。




