20. 彗銀竜
──《万尋峡谷》最深部。
最奥の大広間へと通じる細い洞窟は、緩やかにカーブしながらずっと先まで下り坂になっている。平坦とは言い難い足元に気を配りつつ、ランタンを片手に一歩一歩進んでいく。
水筒に口をつけ、額から流れる汗を袖で拭ったところで、さすがにこれはおかしいだろうと足を止めて振り返る。
「なんか、暑くない?」
「ふむ。言われてみれば、そうかもしれんが」
種族的な特性なのか、ワイスは涼しい顔をしていた。
腰の金鎚を壁に当てて、柄の先についている飾り紐の動きを確かめる。ふらふらとした、わずかな揺れ。下り坂の先から上がってくる熱気が、風の流れを作っているのか。
「んー……まあ、いいか」
熱気の原因は分からないものの、耐えられないほどではない。目的地のすぐ手前まで来ておいて、やっぱり暑いから引き返します、というわけにはいかないだろう。
金鎚を腰に戻して、歩みを再開する。それよりも、この先に本当に竜が居たとして。
「問題なのは、ちゃんと話を聞いてくれるかどうか、なんだよねえ」
「お前さんの腕の見せ所だな」
俺は護衛に専念するだけだしな、という背後からの丸投げ宣言に肩を落とす。こんな若輩者に交渉術とか、期待されても困ってしまう。
無理を言って引き受けた手前、なんとかしたいとは思っているので、皆様においてはぜひこの思いを評価してもらいたいところだ。
「とりあえず、力不足は気合で補う方向で、っとと?」
左手から、つるりとランタンが滑り落ちた。しっかり握っていたはずなのに、気が付けばかつんこつんと音を立てながら数歩先へと転がっていく。
とっさに踏み出しそうとした足は思ったように動かず、バランスを崩した体が傾いて──
壁と地面、続けざまに頭をぶつけて、視界に火花が散った。
変に勢いがついたのか、そのまま坂道を三回転。うつ伏せの状態でようやく停止する。
「──ッ」
「おい、どうした、ノッカ!」
いや、その、何がどうなっているのか、私の方が聞きたいんだけど。とにかく体が言うことを聞かず、返事もままならない。強く頭を打ったはずなのに、感じる痛みは思ったより鈍いものだった。
早足で近づいてきたワイスがさらに腰を屈めて、手を伸ばしてくるのをぼんやりし始めた視界の端に見ながら、なんとか動きそうな右手を《腕輪》に近づける。
「……こいつは、マズいな」
そんな呟きの後、ずしん、と相棒が膝をつく。杖を支えになんとか堪えているようだけれど、大鬼さんも敢え無く轟沈の模様。
震える指先でどうにか目当ての指令に触れることはできたものの、結果を見届けることはできそうになかった。視界が白く染まり、全身の感覚も薄れていく中で、かすかに何かの息遣いを聞いた気がした。
†
──覚醒する。ぼんやりとした思考のまま目を開けば、相棒のしかめ面が私を覗き込んでいた。
「気が付いたか。慌てて動くなよ」
「ええっと」
ゆっくり上体を起こして、周囲を見回す。相棒が持っていた予備のランタンが、狭い《執務室》を照らしている。どうやら、緊急退避の指令はちゃんと発動したらしい。
胡坐をかいて、左手を持ち上げてみる。親指から順に開いたり閉じたり、手の平を返してみたり。正面に座り直した相棒も、腕やら首やらを回して調子を確かめている。
「調子はどうだ」
「まだちょっと違和感というか、あちこち痺れみたいなのはあるけど」
一応は問題なさそうだ。相棒の手当のおかげか、したたかに打ったはずの頭も痛くない。
ワイスは頷くと、顎に手をやって思案し始めた。
「治癒功で治ったんなら、ありゃ毒の類だったってことだな」
「あんな通路の途中に毒ガスって」
罠だったんだろうかと考えて、それは無いかなと却下する。あの場所にだけ生きた罠が残っているとは思えないし、まだ自然現象だと言われた方が説得力がありそうだ。
「竜が原因だとか、そういうこともあったりかな」
「可能性は否定できんが」
奥から感じた熱気と、最後に聞こえた息遣い。まず間違いなく大広間にいるであろう何者かに、どうにかして会いに行かなければならない。
「それで、どうする? あの場所まで戻るだけなら大してかからんと思うが」
「息を止めて突っ切るのは、無理だよねえ」
下り坂の途中で遭遇したのだから、あの毒ガスは大広間まで充満しているかもしれない。そもそも、どんな種類の毒なのかも分からない。吸い込みさえしなければ大丈夫とも限らないだろう。
「だったら、毒除けの《護符》みたいのとか」
「無制限の護りとなると、べらぼうに高い代物だぞ。賃貸にしてもな」
借金系女子にその一言は覿面である。ペコラスを甘味で釣るのも限度があるし、ほかの方法を考えた方が良さそうだ。
何か手がかりは無いかと地図を広げてはみたものの、最奥の大広間へと通じる道はひとつだけしか書かれていない。完全な袋小路で、隠し通路の類も見当たらない。
「こういう場所って、ほら、クリア後の脱出路くらいは用意して然るべきじゃないの?」
「挑戦者どもには《帰還》があるだろうが。……いや、脱出路、か」
単なる愚痴への正論に、何やら思いついた感じのつぶやきが続く。
どういうことかと顔を上げると、ワイスは真面目な顔で地図を睨みつけていた。
「どゆこと?」
「別の出入り口ならあるかもしれん、ということだ」
†
《市場》で準備を整え、丸太小屋でひと眠りしてから、私たちは再び《万尋峡谷》へと転移した。
《執務室》を出て数時間後、私を背負った相棒は、峡谷の岩壁をよじ登っている。地図に載っていた道は遥か下方に遠く、ここから落ちたらひとたまりもないだろう高さになっている。
時折、谷間を吹き抜ける風に煽られつつも、ワイスは危なげなく登攀を続けていた。どうしても足場となるが見当たらない場所では、予備の金鎚で崖に楔を打ち込んで、そこに足をかけて上へ上へと進んでいく。
「楔なんざ使わんだろうと思っていたが、どうして役に立つもんだ」
「合ってるんだけど違う……思ってたのと使い方ちがう……っていうか命綱いるでしょ普通……」
「まァ、ここまで来て《滑空》の《護符》を使う羽目にはなりたかねえがな」
最初から登り直しは勘弁だとか、そんなことを話しながら、相棒の背に揺られること数十分。
狭い岩棚で何度かの小休止を挟んで、ほぼ垂直に数百メートルを登っていった末に、私たちは岩壁に開いた大きな裂け目へと辿り着いた。
どうにか一休みできそうな平らなスペースに降り立って、周囲を見回してみる。
裂け目は幅も高さも十メートル以上はあるだろうか。これだけの広さがあれば、竜が出入りするのも難しくなさそうだ。
「さて……かなり急だが、降りれんことも無いか?」
「いや、これはちょっと厳しいんじゃないかな」
昼を過ぎて傾いてきた太陽の光が、ちょうど裂け目の奥まで射し込んでいた。照らし出された急斜面は、風化して崩れた岩で一面が埋め尽くされている。
こいつはいったん足を滑らせたら、底までノンストップで行ってしまいそうだ。なんなら一歩目から滑りそうな予感もある。
地図を取り出して、位置を再確認する。角度からして、この横穴が途中で途切れていなければ、おそらく目的地である大広間に通じているだろう。
「そろそろ《指輪》の出番だろう」
「あ、うん」
毒除けの《護符》はやはり高価で手に入れられなかった。代わりに入手した《害毒検知》の《指輪》を、手袋を外した右手につけて、《合い言葉》を告げる。
《指輪》にはめ込まれた宝石が淡く青色に光り始めて、この場に危険がないことを教えてくれる。
「この高さなら、ロープの長さは足りそうだな」
「大広間まで下りてくくらいなら大丈夫だと思うけど、固定する場所がなくない?」
そう答えつつ、背負い袋の中から縄巻枠を引っ張り出し、伸びてきたごつい手に差し出す。
リールから手際よく引き出されたロープは私の腰に回され、革鎧の金具を通されて、しっかりと結びつけられた。
「えっと、これはつまり?」
「二回引っ張ったら一旦止める、三回引っ張ったら引き上げる。半刻のあいだ反応が無かったら問答無用で引っ張り上げる」
いやいや、なんだか私ひとりで降りていくような雰囲気ですけど。腰のランタンも勝手に点灯されて、すっかり準備が整った感があるんですけど。
「きっちり支えといてやるから、さっさと行ってこい」
「そんなー」
ぽんと肩を叩かれ、私は出荷された。
†
足を踏み出すまでもなく、急斜面をざりざりと滑り降りていく。尻餅をつかないようにバランスを取りながら、眼下の暗闇に向けられたランタンの具合を確かめる。
吊り下げられた光源はふらふらと揺れてはいるものの、足元から先をしっかり照らしている。ちらりと頭上を窺えば、裂け目から差し込んでいた陽光はさらに傾いて、遠く小さくなっていた。
目測だけれど、もう百メートル以上は降りてきているはずだ。底の方から暖かい空気が流れてきているようにも感じられる。そろそろ大広間が見えてきてもいい頃合いじゃないかと考え始めたところで、それらしい岩肌の地面がうっすらと見えてきた。
さらに数メートル進んだところで、斜面に大きく突き出た岩を足場にして立ち止まり、緩んだロープを二回引く。
「さて、ここからどうするか、だけど……」
《指輪》を確かめると、宝石の色が青から緑に変化していた。一応、まだ安全域ではあるけれど、このまま降りて行くのは危険らしい。
手近な小石を拾い上げ、思い切り放り投げてから目を閉じる。斜面を跳ね落ちていく小石の響きは起伏の激しい壁面に吸い込まれていき、わずかに戻ってきた音を頼りにして脳内にイメージを作り上げる。
地図に記されていた通りの円形に掘り抜かれた大広間に、巨大な何かが鎮座している。岩に当たって大きく跳ねた小石が、その「何か」の尻尾らしき部位に当たり、それは結構いい感じの音を立てて、
「何奴か」
空気がびりびりと震え、熱風が吹きつけてきた。大広間のイメージがかき消され、眩暈にふらついて足を滑らせそうになる。腰を落とし、片手をついて目を開けば、暗がりからまっすぐこちらを見つめる銀色の輝きと視線が合った。
地面が揺れ、ランタンが照らすわずかな範囲の中に、鉛色の巨体が姿を現した。白い牙、黒い爪、銀の瞳に、長く捻じれた二本の角。全身を覆う鱗は流線的で、揺らめく光を反射して濡れているようにも見える。
自分の方が上にいるのに見下ろされているような重圧感に思わずつばを飲み込んで、あーこれ死んじゃうかもなーと覚悟を決める。
「……えっと、その、お休みのところすいません。いまお時間よろしいでしょうか」
「ふむ」
黙っていては不味かろうと適当に口を開いてみれば、私を捉えていた竜の瞳がわずかに開かれた。一歩、二歩と斜面に近づき、首を伸ばして私との距離を少しばかり詰めて、顔を上下に動かした。
「釣り餌にしては、まったくもって貧相であるな」
「ええ、もう、まったくもって食用に適してませんです」
一口サイズにも足りないくらいですよと言葉を返せば、笑うように吐き出された熱気が昇ってきた。これ、毒ガスじゃないといいんだけど。
「冗句である。その聞き慣れぬ言葉遣い、渡界人であるな、貧相なるものよ」
「ノッカです」
「貧相なるノッカよ」
その修飾語いる? いらなくない? と言いかけて口を閉じる。いつの間にか、息苦しさがさっぱりと消えていた。
どうやら目の前の竜は対話に応じてくれるらしい。鉱妖精と間違われなかったのもなかなか悪くない。
「えっと、それで、そちらさまは何とお呼びすれば?」
「余であるか。あれやこれやと多くの名で呼ばれてはいたが、其方の舌に適うものとなると」
竜の顎がむにゃむにゃと動いて、いくつかの名を紡いでいく。
「彗汞、ステラ=ル=ギュルム、宙掃くしろがね。こんなところであるが」
「じゃあ、フイコウさん、で」
「……よかろう」
彼女に悪気は無いんです、普通に呼び難くて噛みそうだっただけなんです。心の中で自分を擁護しつつ、さっきからちょいちょいと引っ張られているロープの方に意識を向ける。
やっと自己紹介を済ませたところだけれど、相棒にも状況を説明しておかないと。
†
《万尋峡谷》と呼ばれるこの地域一帯は、協会が管理する迷宮のひとつであり、現状においてフイコウは外部からの侵入者扱いとなっていること。
協会としては別に占有権を主張するわけではなく、そのまま居住してもらって構わないのだが、迷宮の住人として登録させてもらいたいこと。
それから、フイコウの元にあるらしい「竜玉」を狙って侵入者がやってくるかもしれないことを、順に伝えていく。
「なんか毒ガスが溜まってるっぽいんで、無事に下の広間まで辿り着けるかどうかは微妙ですけど」
「成程、其方がわざわざ吊られて降りてきたのは、酔狂ではなかったのであるな」
竜の瞳が大広間の暗がりに向けられる。どうやらその奥に本当に「竜玉」があるらしく、暫くは動かす訳にはゆかぬのだが、とフイコウは漏らした。
「旧い竜の躯体に遺された力が、新たな竜の糧となるのである。幾らか漏れておる毒気は、余禄であるな」
「この場所が都合がいいってコトですか」
「余所を当たるとなれば……この星では無理であろうな」
天井を見上げた竜につられて、私も上を向く。駄目なら別の星に行くって、思ったよりスケールの大きな話だった。
いろいろと詳しく聞いてみたい気もするけれど、今は我慢だ。まずは仕事を片付けなければ。
「えっと、それで、侵入者についてはフイコウさんも気を付けておいてもらえればと」
「余に用心を説くか」
「万一ってこともありますし」
目を細めて私を睨んできてはいるものの、どうやら怒るというより面白がっているように見えた。うっかり卵を盗られてドラおこモードな事態は可能な限り回避したいのだけど、これで本当に大丈夫だろうか。
「それほどに気掛かりであるならば、其方が何とかすればよかろう」
「私が、ですか」
「此の地の管理者なのであろう?」
本来の私はしがない罠師であって、管理者は一時的な肩書なんですけど、と訴えると、フイコウは不満げに鼻から熱気を吹き出した。
「協会からの依頼は達成しちゃったんで、これでお役御免かもですね」
「久方ぶりに話が通じる者と出会えたというのに、つれない奴であるな」
そないに言われましても、私の一存ではどうにもならないですし。
とはいえ、フイコウが万尋峡谷から離れないなら、この休眠迷宮を再整備しようという話が出てくるかもしれない。そうなれば、また私にも出番がありそうだ。
──なんて、気軽に考えていたのが悪かったのかもしれない。
†
フイコウと対話した岩場を新たな転移ポイントとして設定して、相棒と共に協会での報告を終えた翌日。
一息つく間もなく、私はアグラの呼び出しを受けて、また協会の会議室を訪れていた。
「ノッカくんも知っていると思うけど、万尋峡谷は管理者のなり手がいなくてね」
「だからって、実績なしの新米罠師に任せるのはまずいんじゃないですか」
普通はどこかの迷宮の補助から始めるんじゃないかと指摘すれば、白妖精は苦笑しながら頷いた。
「確かに、本来なら職員の誰かがやるべきなんだけど、どうやらノッカくんは件の竜に気に入られたようだしね」
「いろいろと失敗しそうな気がしますけど」
「そこはそれ、ご機嫌取りさえ上手くやってくれれば問題ない。そのための支援は惜しまないよ」
そんな言葉と共に渡された書類に目を通してみる。元々あの迷宮に付帯していた債務は協会が肩代わりし、加えて迷宮の整備費用も援助してくれるらしい。大規模な改修に事前の報告義務があるのと、迷宮から得られる利益に関して、協会の取り分が多くなっているのは、私の実力と実績を考えれば妥当なところだろう。
「えっと、整備は指定の業者じゃないとダメ、みたいなのはないんですね」
「必要なら業者の選定もできるけれど。それで、できそうかな?」
細々とした条項を流し読みしながら思案する。どうもこうも、悪い話じゃないのは分かる。あの脳筋ダンジョンの改善案もいくつかある。だいたい、モンスター配置しときゃいいなんて怠惰の極みじゃないか。私だったら、もっと、こう。
「即決できるような内容じゃないからね、答えは後日でも構わないよ」
「いえ、大丈夫です」
いきなりの話で面食らったけど、これはいい機会だ。本来なら借金を返済して、十分な貯えを用意した上で実行しようとしていた長期目標が、この手の上で署名を待っている。失敗したっていいじゃない、汎人だもの。
どうせやらかすなら、あいつとかあいつとかを巻き込んでしまおうか。




