1. 毒矢の罠
平均的な成人男性が両腕を左右に広げて、壁に両手がつく程度の幅を、この世界では「メーテ」と呼ぶらしい。
私にとって馴染み深い単位で言い換えるなら、およそ一メートル半といったところだろう。迷宮の管理者がよく使う言い回しだと、「ひとマス分」の長さということになるらしい。
そして、彼らの流儀に則って言うところの「ふたマス分」。およそ三メートル幅の通路の真ん中でひとり、ランタンを片手に屈み込んでいる人影があった。
短く切り揃えられた栗色の髪はくるくるとはねていて落ち着かない。十六歳にしては小柄な体格に合わせた軽い革鎧──元々そういうサイズの種族もいるため、特注ではない──を着用している。大きな背負い袋を背負い、腰には武器になりそうもない小さな金鎚がひとつ。
顔の下半分は、毒ガスやら埃やらを吸い込まないように、白い布で覆われている。美醜についてはノーコメント。自己評価は高くない。
えっと、つまり。今、この場所で片膝をついて、通路をあちこちねめつけている小娘というのは、私のことであった。
†
まあ、それはさておいて。
平らな石が敷き詰められた床をじっくりと調べていったおかげで、周囲にわずかな隙間が空いた、いかにも怪しげな石を無事に見つけ出すことができた。そこそこ注意力のある斥候であれば気付くであろうこやつは、当然ながら、罠のスイッチだ。
ランタンの灯りが照らす以上に長く、まっすぐに続いている単調な通路の途中である。慎重さや集中力に欠けた、あるいは大胆不敵な挑戦者たちが二列に並んで歩いていれば、十中八九踏んでしまうような配置になっているのが絶妙で、嫌らしい。
「……だけれど」
小声で呟きつつ、ランタンを脇に置く。さらに姿勢を低くして、スイッチに片足を乗せる。少しずつ体重を掛けていけば、平らな石がじわりと沈んでいって、わずかな抵抗と共に──
「不発、と」
本来ならば毒の塗られた矢が飛んでくるはずの壁の隙間は、その役目を果たすことなく沈黙を保っている。
原因はいくつか推測できた。スイッチ側の不備か、罠本体の方が機能していないか、あるいはその間を繋ぐワイヤーに問題があるか。
足を引いて、スイッチを観察する。沈んでいた床石はすぐに元の位置に戻り、かちり、と微かな音を立てた。見た限りでは、スイッチのバネは正常らしい。
こうなると、床の下や壁の向こう側まで調べる必要があるだろう。面倒だけれど、仕方ない。
腰のベルトから小さな得物──点検用の金鎚を引き抜いて、軽い力で床石を叩く。
両目を閉じて、静かな通路に反響する音から、不要なものを取り除いていく。頭の中に、床下の空洞を通る二本のワイヤーとスイッチの様子が浮かび上がる。
床石に擬装したスイッチの下には液体の入った平たい容器があって、上面に圧力がかかることで細長い筒の中のピストンが押され、その先に結び付けられたワイヤーが引っ張られる、という仕組みらしい。細かい部分まではともかく、繰り返し動作するように出来ていることは理解できた。職人の技に感心しつつ、今度はスイッチに足を乗せた状態で、もういちど金鎚を床に打ちつける。
──異常なし。ワイヤーが切れたり、引っかかったりしている様子は無い。
音が消え、脳内のイメージが薄れていったところで、ゆっくりと目を開く。感覚が切り替わる際の違和感が、目眩となって襲ってくる。
三半規管からの不調の訴えを無視して立ち上がり、今度は壁の方に向かう。形の整った石が積まれた壁面には、腰の辺りの高さに指三本分ほどの隙間が開いている。ちょうど壁面の窪みに隠れるような感じで、そこに罠があると分かっていても見逃しそうだ。
深呼吸して気持ちを落ち着かせ、再び目を閉じて、金鎚を振り上げる。
かつん、と響く音から、壁の奥の仕掛けを把握する。床下から続いているワイヤーは、据え置かれた弩弓の引き金を引く機構へと正しく繋がっている。
問題は毒矢の方にあった。装填されていた矢が壁の中で折れ曲がり、次の矢がつかえてしまっている。
「これは見事にジャムって……うぐ」
思わず漏れた呟きによって、頭の中に浮かんでいたイメージが乱れ、掻き消えてしまう。けれど、必要なものは既に見終わっている。
気持ち悪さを堪えながら薄目を開いて、背負い袋を床に置いた。その中から取り出すのは、厚手の布と二本の細長い針金である。
罠そのものが故障していたなら、壁を崩すとか大掛かりな作業が必要で手に負えなかっただろうけど、これなら私でもなんとかなるレベルだ。
隙間に針金を差し込んでから、もう一度金鎚の音を響かせる。目を瞑ったまま針金を動かして、曲がった先端で折れた矢を挟み込む。それから、ゆっくりと矢の向きを調整して、少しずつ手前に動かしていく。
矢の先端が見えてきたところで、鏃に塗られた毒に触れてしまわないように、厚手の布を巻き付けてから手で引っ張り出す。検分は後回しだ。
他に矢の破片やゴミなんかが残っていないのを確かめてから、再度スイッチを作動させてみる。風を切る音と共に矢が通路を横切り、反対側の壁に当たって床へと落ちた。《矢筒》から次の矢を再装填する流れも、正しく動作している。
「よし、完了」
鼻と口を覆っていた布を引き下げ、背負い袋に針金と毒矢を放り込んで背負い上げる。最後にランタンを拾い、余計な痕跡を残していないかどうか周囲を見回した末に、私は長い通路を後にした。
†
複雑に入り組んだ通路を、地図を見ながら歩いていく。
あちこちに仕掛けられた罠や、小部屋の中に潜む怪物の存在を把握しているからこそ、すんなりと通過できているけど、何も知らない挑戦者はさぞ大変だろう。これでまだ地下二階だというのだから、彼らの行く末が思いやられる。
そんなことを考えながら歩いていると、奥の方から近づいてくる足音が耳に入ってきた。
ずしん、ずしんと、一歩ごとに音は大きくなってくる。そのたびに、緩やかなアーチ状の天井からぱらぱらと砂粒が降ってくる。通路の先にいるのが誰なのか分かっていても、心臓によろしくない状況だと思う。
しばらくして、ランタンの光が大きな人影を照らし出した。
天井に頭をぶつけないように、少しばかり身を屈めつつ曲がり角から顔を出したのは、カーキ色の外套を身に纏った大男である。肌は浅黒く、髪は銀灰色。厳めしい面構えに加えて額に生えた二本の角が、昔話に出てくる鬼をなんとなく連想させる。
右手に持っていた、捻じ曲がった長い丸太の先を、がつんと床に叩きつけ、目を細めて私の方を見下ろして。
「おう、ノッカ。終わったか」
「ん、どうにか直ったよ。ワイスもお疲れさま」
「まったく、つまらん連中だった」
ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らして、彼は窮屈そうに回れ右をした。かすり傷ひとつ負っていないことが、どうにも気に食わないらしい。手応えのある勝負をしたい、という気持ちはいまいちよく分からない。
「さっさと報告しちまおう」
「了解。晩御飯どうしようか」
「疲れてるんなら《市場》で適当に食うか?」
「んー、それもありかな」
ときおり短い言葉を交わしながら、私と相棒は迷宮の奥へと戻っていくのだった。
†
地下二階に長々と居座っている厄介な挑戦者の撃退と、そのついでに動作不良を起こしている罠の調査、可能であればその修理もやってくれ──
というのが、相棒のワイスとそのおまけで召喚された私に対する、この迷宮の管理者からの依頼だった。
つい先程、どちらの依頼も滞りなく完了して、ワイスと私は近道の階段を使って迷宮の最深部にある大広間へと戻ってきたところである。
三十メートル四方の広間の片隅には、金銀財宝がいくつもの山を作り上げている。撃退された挑戦者が装備していたものと思しき品々も、山の中に見え隠れしている。
片付いていない感じがどうにも落ち着かないけれど、ワイス曰く「最終決戦の演出の一環だ」とのことらしい。大ボスに勝てたらこれだけのお宝が手に入りますよー、ということなのか。
私たちが喚ばれたときには何も無かったはずの広間の中央には、どこから持ってきたのか、テーブルと椅子が用意されていた。
迷宮の管理者である牛頭の御仁は、ぴっちりとしたワイシャツにネクタイ、茶色のベストと黒のズボンで身を固めていて、ワイスと同じくらいの背丈がある。当然ながら、テーブルも椅子も、私の身の丈に会わない大きさのものだった。
そんなわけで、私は巨大な椅子に腰掛けて足をぶらつかせ、十歳ほど若返ったお子様気分でふたりの会話を聞くことになった。
「いやあ、助かったぜ。業者を喚ぶと、部品交換だの分解検査だのって、いろいろ言ってきやがるからよ」
「あいつらはがめついからな。それに比べたら、俺たちは良心的だろう、なあ」
「はン、ちゃんと追加報酬は払うってェの。手前じゃなくて、こっちのおチビちゃんにな」
「言ったな。よし、ふっかけてやれ」
「えっ」
ジョッキみたいな湯飲みを両手で抱えてちびちびと渋い薬草茶を飲んでいたところに、鬼さんと牛さんの視線が集中する。条件反射で身がすくむ。
しかし、ふっかけろと言われても、この世界の相場だとかはまだ勉強中だし、ここは笑って誤魔化すしかない。
「えっと、その、お任せで……」
「ほら、誠意を見せろって言ってるぞ、オゥミよう」
言ってないし、と視線で抗議するものの、ワイスは笑って取り合わない。オゥミと呼ばれた牛頭の管理者の方も、冗談と受け取っている様子なのが救いだった。
そもそも、罠についての報告がまだ終わっていない。折れた毒矢を包んだ布を取り出して、テーブルの上で広げて見せる。
「こんな感じで、壁の中で挟まってたんですけど」
「ふゥむ」
「矢が折れた原因が分からないと、同じことが起きるかもしれなくって」
心当たりは無いだろうかと訊ねてみると、オゥミ氏は「そうだなァ」と腕を組んで考え込み始めた。
よほど頻繁に調子が悪くなるのでなければ、定期的に見て回るくらいでいいとは思う。だけど、再発を防げるならそれに越したことはない。
ぐるぐると首を捻っているのをじっと見守っていると、やがて何か思い出したのか、唸り声が小さくなっていった。
「ひょっとすると……アレか?」
「アレとか言われてもわかんねえぞ。とうとうボケたか」
「阿呆抜かせ。いいから待ってろ」
オゥミ氏はやおら立ち上がり、広間の片隅へと歩いていく。あの雑多な宝の山から目当ての物が見つかるのだろうかという心配を余所に、彼はすぐに取って返してきた。
無骨な手からテーブルの上に放り投げられたのは、細い鎖のついた小さな丸いメダルだった。
「何日か前にやってきた連中が持ってたんだが、そういや罠が動かなくなったのもその頃だったな」
「《護符》か。効果は?」
「矢に特化した《偏向》だってよ」
なるほどなあ、とワイスは納得しているものの、私には馴染みのない単語の連発だ。単語の意味から、ふたりの会話の内容を推測する。
「えっと。そのお守りのせいで、矢が上手く発射されなかったのかも、ってことですか」
「そういうこった。《護符》くらいならよく見かけるけどよ、特化してるのはちょいと珍しいだろう」
「はあ」
どの程度の希少度なのかはよく分からなかったものの、オゥミ氏の言わんとすることは理解できた。しかし、そうなると。
「同じお守りを持ってる人が来たら、また罠が動かなくなったりとか……」
「あり得るな。だが、罠ひとつで《護符》の力を削げるんなら良かろうさ」
どうやら《護符》とやらの効果には限りがあるらしい。もともと毒矢の罠も挑戦者を消耗させるのが狙いで、その目的が果たせるなら別に当たらなくても問題無いのだろう。
ひとまずは様子見ということで落ち着いて、ワイスと私は湯飲みを置いて立ち上がる。それに合わせて、オゥミ氏はテーブルの上の《護符》をつまみ上げ、私に向かって差し出してきた。
「今回の追加報酬、こいつでどうだ」
「あ、えっと」
思わず受け取ってしまったけど、いいんだろうか。ワイスの顔を窺ってみると、なんとなく意地の悪い表情を浮かべていた。
「あと何回使える?」
「いまは一回だけだが、満月の光で三回分まで充填できるんだとさ」
「満月なんざ、しばらく先じゃあねえか。報酬で渡すならもっといいモノにしとけっての」
在庫処分じゃないのかとか、口では文句を言いながらも、ワイスは背中に回した手でこっそりサインを出してくる。
貰ってしまって、問題ないらしい。《護符》を首にかけて、一歩前に出る。
「あの、オゥミさん。これで構いません」
「そうかそうか、おチビちゃんはいい子だなァ」
感心したようにうんうんと頷いている牛頭の管理者に若干の後ろめたさを覚えつつ、私はワイスと一緒に、床の上に展開された《送還陣》の輝きの内側へと移動する。
オゥミ氏も近くにやってきて、私と目線を合わせるように腰を屈めてきた。
「腕は悪くないし、業者の連中よりは気が利くようだ。また何かあったら、喚んでも構わんかな、ノッカ君」
「あ、はい、ぜひ」
慌てて返事をしたのと、《送還陣》が起動したのはほぼ同時だった。
†
白くなった視界はすぐに色を取り戻していく。こじんまりとした丸太小屋の一室は、召喚される前と変わった様子は無かった。
部屋の隅に背負い袋を置き、革鎧を脱ぎ捨てて、両手を上げて伸びをする。
ワイスの方はと顔を向けると、左手の《腕輪》を操作して状況を確認していた。まだ無名の私とは違って、彼はあちこちの迷宮から声がかかる立場なのだった。
「……指名の喚び出しは無いな。荷物の整理は後にして、とりあえず飯食うか」
「そだね」
オゥミ氏がお得意様になってくれるといいんだけど、なんて皮算用をしながら、私は扉を開けた。