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第四章 めでたいことなんかあるかっ!

「めでたいことなんかあるかっ!」

 道の先でだれかが叫んでいる。どこかで聞いたことがある声だ。

 ここは近所の通り。俺の家から町の外周をぐるりと回って二二七歩目になる。あと二十歩ほどでリーデン一家の玄関先だ。

 まあ、外周ではなく、町内の路地をたどれば、俺やマリーの家からは五九歩でつく距離でしかないのだが。

 俺は毎朝散歩するのを日課にしている。

 他の人のように、日々の健康のためだとか、気分転換のためだけじゃない。もちろん、それもあるのだが、それ以上に、俺にとっては毎日の散歩であっても鍛錬の時間なのだ。

 考えてもみな。どんなときでも一定の歩幅で歩くようにしていれば、その歩数を数えるだけで歩いた距離が分かるだろう? 歩幅×歩数=歩いた距離だ。

 毎朝、散歩することで、俺が鍛えようとしているのは、まさにそんな能力。どんな時であっても一定の歩幅で常に歩き続けることができるようにしたいのだ。

 親父もこの能力を身に着けている。というよりも、世界中の徴税吏はおそらく同じ能力をもっていることだろう。そう、この能力こそが徴税吏にとっての必須技能なのだ。

 たとえば、商店などに課税するときには、通りに面した戸口の広さだとか、運河に面した船着き場の幅だとか、桟橋の長さだとかが法で定められた課税の基準になる。

 そういったものを一々メジャーを取り出して計っていたのでは時間がかかりすぎるし、商人たちの妨害工作にあいやすく、正確に測るのは困難になる。だから、簡単かつ素早く確実に距離を測るためには、こういった技能が必要になってくるのだ。

 この技能を身に着けていれば、商人たちに気付かれることなく、素早く測ることができるのだ。



 二四三歩目。

 五歩ほど離れた場所に、見慣れた背中が見えてきた。ジャックのだ。ジャックが盗賊団の何人かの若い衆を引き連れて、向かい会う男と睨みあっている。険悪な雰囲気だ。

 なにごとだろうか?

 さらに様子を確認しようと近づいて見ると、今ジャックの前に立って目を怒らせているのは…… ジェミン?

 なんで、ジェミンがここに?

 ジェミンも一昨日見かけた覚えのある何人かの男たちを引き連れている。

「だから、昨日、お前らが寄こした連中と逃げるときに、俺をあの商人の家に置き去りにしやがったんだよ! この落とし前をどうつけてくれるんだっての!」

 ジェミンは顔中に赤黒いあざをこしらえている。いや、顔だけじゃないな、首筋あたりにも。殴られたのか? でも、違うような。なんていうのだろう。もっとこう……

「まあ、いいじゃねぇか。そのおかげで大人の階段上れたんだろ?」

「……よくねぇよ!」

「まだ日中だっていうのに、体中にキスマークをつけてきやがって、モテモテじゃねぇか。うらやましいぜ」

「どこがだよ。そんなにうらやましいんなら、代わってやろうか?」

「ははは、冗談言っちゃいけねぇぜ。たとえ冗談でも相手に失礼だろ。第一、俺には心に決めたマヤちゃんという女性が」

「ハンッ! どうせゲテモノ食いのお前のことだ。へちゃむくれのデブかなんかだろうが!」

「へへへ。言ってくれるねぇ~ なぁ、一発なぐってもいいか?」

「何言ってやがる。てめぇをなぐりてぇのは、こっちの方だ」

「なにっ? やるってか?」

「ああん? やろうってか?」

 お互いに胸倉をつかみあって睨み合っている。当然、それにつられて、周囲の男たちも一触即発の態度で相手側を威嚇し始める。

――ったく! なにやってんだか、こいつらは。こんな朝っぱらから。



「てめぇら。朝っぱらから人の家の玄関先でなに騒いでいやがる。ご近所さんに迷惑だろうが!」

 突然、どすの利いた声がジャックの家の中から響いてきた。その場にいた全員が一瞬ビクッとなった。

「静かにしやがれっ!」

 その今息を引き取ったばかりの人ですら目覚めさせそうな大音声とともに玄関先にのっそりと巨体を現したのは、ジャックの父親でリーデン一家の頭、トムおじさんこと、トム・リーデンだった。

 トムおじさんは、通りがかりのついでのようにジャックの頭に拳骨をおとすと、ジェミンの前で腰を落とす。

「アラセルの坊っちゃんよ。昨日はこちらの不手際で不愉快な目に合わせたみてぇでもうしわけなかったのぉ」

 迫力のある声で詫びを入れるのだが、近くで見ているだけでも、直接には関係のない俺ですら正直すごく怖い。体が震える。圧倒される。

 離れた場所から聞いていてすら、そんな感想を持つのだ。当然、その正面に立ち、まともにプレッシャーを浴びせられている当のジェミンはというと、たちまち、

「あ、あうぁぅ。い、ぃゃ、そ、その…… ご、ごめんなさい。ごめんなさい」

 さっきの威勢はどこへやら。早くも涙目になって、しどろもどろだ。歯の根も合わない様子。

「ああ? アラセルの坊っちゃん、なんで謝りんなさる。こちらの方が悪かったんじゃなかったんかいのぉ?」

 底光りする眼でギロリとねめつけると、

「ひっ! う、も、もういいんです。もういいんです。ご、ごめんなさい」

「そうかいのぉ? じゃが、そちらさんにご迷惑をおかけしてばかりじゃ申し訳ないのぉ」

「い、いいんです。も、もう、本当に……」

「そうかいのぉ? まあ、そちらさんが、そう言うてくれるんやったら、そちらの顔を立てなしゃーないかいの。アラセルんとこも、いい跡継ぎがいて、うらやましいのぉ。なぁ、お前ら?」

「「「へぇ~ お頭」」」

 トムおじさんのどら声に合わせ、一斉にリーデンの若い衆も腰を落として、野太い声で同意する。

「ひぃ~!」

 途端にジェミンが顔をひきつらせながら二,三歩後退りした。アラセルの男たちも、それは同じで、それぞれに蒼白になり、ガタガタ身震いしているものまでいて。

 すでに勝負がついていた。格が違いすぎだった。

「お、お前たち、か、帰るぞ」

 最後にジェミンが震えを隠せない声でそう告げると、アラセルの男たちは一様に露骨にホッとした顔をするのだった。



「いってぇ~ なにすんだ、親父!」

「なにすんだじゃねぇ。なんてことをしてくれたんだ、お前は!」

 また、ジャックがトムおじさんに殴られている。

「あれほど、気をつけろと注意しておいたのに、お前は」

「だからって、殴るなよ。頭おかしくなったら、どうしてくれるんだ」

「はんっ! これ以上悪くなるほど出来のいい頭なんぞ、最初から持ち合わせていねぇだろうが! ああん?」

「なんでだよ。そんなこと言うか? 実の親がよ。まあ、そりゃ、俺は親父似だから仕方ねぇかもしんねぇけどよ」

「あははは。なるほどな。そりゃ道理ってもんだ。あははは」

 そう笑い声をあげつつ、トムおじさんは無数の古傷がある太い二の腕をジャックの肩に巻き付けた。

「って、く、苦しいって、首がしまってるって」

「あははは。一度、地獄ってものを見物してくるか?」

「お、親父、それジョークになってないって。ほ、ホントに息ができないって」

「えっ? なに? 天国に行きたいだと? そりゃ無理ってもんだ。俺たちの稼業にゃ天国なんざ鼻から縁はねぇ」

「お、親父。ぎ、ギブ。ギブアップ……」

 情けない声で降参して、ようやくジャックはトムおじさんの腕から解放されるのだった。

「ゲホッ ゼェ~ ハァ~ ゼェ~ ハァ~」

「これに懲りたら、二度と無責任な真似はするな。いいな?」

「わ、分かったよ、親父」

「なら、よし」

 そうして、トムおじさんは家の中へ戻っていこうとした。が、その背中を見送りながら、

「けっ。くそ親父めっ!」

 涙目になりながら毒づく子供がいたのだが。足を止め、振り返りざまに、また拳骨を一つ。

「いってぇ~」

「フン、あとでアラセルの親父の方にも酒でも下げて詫びを入れておいてやる。いいな?親にこれ以上もう恥と迷惑をかけるんじゃねぇぞ」

 それから、玄関に戻る前に俺の方へ体を向ける。

「ああ、そういや、マークスティンの坊っちゃん、久しぶりだね。トーマスは元気にしてるかい?」

 どうやら、トムおじさんは一部始終を俺が見ていたことに気が付いていたみたいだ。こちらを眺めて、眼を細めている。たぶん、本人的には笑顔を浮かべているつもりなのだろうが、どう見ても、どうやってなぶり殺しにしてやろうかと憐れな犠牲者を眺めている殺人鬼の眼なわけで。

 あらら、俺の近くを歩いていた近所のおばちゃんが失神しちゃったよ。チビっ子が泣き出しちゃったよ。

 もう笑うしかないな。

 はははは。ぞぞぞ……



「ジャック、大丈夫か?」

「ああ、大丈夫だ。心配ない」

 ジャックはのどを抑えながら、げっぷを一つする。

「さっきのあれは?」

「見てただろ? ジェミンが昨日の商人の家からなんとか逃げてきて、早速、文句をつけにきやがったんだ」

「でも、あれは、あいつが」

「ああ。でもな、俺たちがあいつを置いてけぼりにしたのは事実だしな」

「ま、まあ、そうには違いないけど」

「親父が怒ったのも正直よくわかるんだぜ。たとえば、もしあの時捕まったのがあいつでなく、お前だったらなんて考えたら…… 震えがくるぜ」

「ジャック……」

 正直、すこし感動したのだが、

「マリーのヤツに俺八つ裂きにされるどころか、絶対、火あぶり水攻めだぜ。おお、怖っ!」

「って、そっちの心配かいっ!」

「ふふふ、まあな。けど、まあ、捕まったのが、お前やロムス、マリーでなくて、マジでよかったぜ」

 心の底からのホッとした笑顔を浮かべるジャックだった。

「あと、マヤちゃんが無事だったのが、一番だよな」

「ははは。そうだな」

「なぁ? 昨日の俺、格好よくなかったか? 活躍しただろう? マヤちゃん、惚れ直したかな?」

「さ、さぁ……」

「いや、絶対、惚れ直したに違いないね! だって、みんな騙されてたのに、間取り図をチラッと見ただけで、俺だけ隠し部屋のことをすぐに見抜いてみせたんだぜ。なっ? すげぇだろ。なっ、お前だってそう思うだろ?」

 すごい力で両肩をつかんでくる。

「って、顔が近いって! もっと離れろ。周りの人がヘンに思うだろ! それに、お前、歯ぐらい毎日磨けよ。臭いぞ!」

「はっ! に、匂う?」

 慌てて口元を抑えるのだが、

「って、言われなくても、毎食事ごとに歯ぐらい磨いてるわ! ボケッ!」



 そんな風にして、ジャックとふざけあっていると、すぐ横手の路地の方から声がかけられた。

「あら、エドにジャック、そんなところでなにしてるのよ?」

 小柄でスレンダーな灰色ローブ姿が現れる。もちろん、マリーだ。

「ああ、マリーか。そっちこそ、なにしてんだよ。こんなところで?」

「私? 私は、これからオスカーさんの店まで切れた薬草を買いに行くところよ」

 マリーは手に下げた空のバスケットを掲げて見せる。

「そっか。それは大変だな。がんばれ」

 なんて、手を振りながら笑顔で見送ろうとしたのだが、その声にかぶせて、

「そうね。そんなに言うのなら、ついてきてもいいわよ。ちょうど薬草とかできるだけたくさんほしかったから、人手が必要だと思ってたのよね。うんうん。エドが手伝ってくれるの? 助かるわ」

 いつだれがそんなこと言ったんだよ。ったく。人の言うことに耳も貸さず、勝手に話を進めやがって!

「そ、そうか、なら、俺はお邪魔だよな。ここは二人の邪魔をしないで……」

「なに一人だけ逃げ出そうとしてんだよ。聞いてただろう、人手がほしいって。お前も来いよ」

「はぁ? お前、なに言って……」

「ジャックって今忙しいのでしょ? 私たちのことは心配いらないし、どうぞ行って、ねっ? ねっ?」

 なぜかマリーが急に慌てた様子をみせるのだが。

――ん? なんでだ? 人手が必要なら、ジャックも連れていけばいいじゃねぇか? どうせ、こいつもヒマなんだろうし。

「いいじゃん、ジャックもヒマなんだろう? 一緒に来いよ」

「な、なんでだよ。俺は忙しいんだよ」

「いいじゃねぇかよ。手伝えよ。荷物運ぶのに人手が必要なんだしよ。人数多い方がマリーも都合がいいだろう、なぁ?」

「えっ? あ、う、うん……」

――って、なんだよ? なんで、そんな眼で俺をにらむわけ? ジャックもなんだよ? その呆れた顔は? 俺、なにか間抜けなことを言ったか?

 一人で首をひねっていると、

「行こ、速く行かないと売り切れちゃいそうだし。ほら、ジャックも」

「って、いいのかよ? 俺も行って?」

「いいわよ。ジャックも来たかったら、来ればいいわ」

 どこか投げやりにマリーに促されて、俺たち三人はマリー行きつけの薬種問屋へ買い出しにいくことになったのだ。



 三人そろって、両腕に様々な薬草がいっぱいに詰まった紙袋を抱え、薬種商オスカー商会を出て、運河沿いの道を歩いている。

 運河にはさざ波がたち、太陽の光をキラキラと反射させ、土手の補強のために植えられているしだれ柳の枝が、かすかな風に吹かれてそよいでいる。眠気を誘うのどかな眺めだ。思わず、あくびをしたら、たちまちそれが伝染して、ジャックやマリーも大きく口を開いていた。

 だが、そんなのどかな眺めにそぐわない光景がしばらく歩いた先に展開されていた。

――カキーンッ

――シュバッ!

「やっちまえ!」「オオッ!」

「フンッ!」

 人通りがすくない道の先、何人もの男たちが輪になって、何者かを取り囲んでいる。

 っていうか、その男たち、すごく見覚えがあるのだが。しかも、ついさっき見かけたばかりのような気が……

「行くぞ」

 両手に持った袋を近くの柳の根元に放りだすと、ジャックが男たちに向かって駆けていく。

「マリーはここにいて、俺たちで見てくるから」

「うん、気を付けてね」「ああ」

 俺もジャックの真似をして、柳の木の根元に荷物を投げ出し駆けていく。

「お前たち、何してやがる! ここは南のリーデン一家の縄張りだぞ!」

 ジャックが吠えながら飛び込んでいった先の男たちとは、さっきトムおじさんの迫力に負け追い返されたはずのアラセルの男たちだった。もちろん、その中にはジェミンの姿も見えている。

「ふんっ、また、お前か。こいつはお前たちには関係のない話だ。すっこんでろ!」

「なにをっ!」

 近づいて見ると、男たちに取り囲まれるようにして立っているのは、ロムスとマヤだった。二人とも簡素な旅装をしている。どこかへ旅立とうとしていたのか?

「これはどういうことだ?」

 俺の声にロムスが振り返って、ニッコリと微笑んだ。だが、すぐに表情を引き締め、男たちに油断のない目を走らす。

 代わりに質問に答えたのはジェミンだった。

「こいつらは、一昨日、俺たちが取り逃がしたばかりの東地区を荒らす賊だ。さっき俺たちが橋を渡って東に戻ろうとしたところを反対側から渡ろうとしてきやがったんだ。へへへ、運の悪いやつらだぜ。そんなわけで、こいつらを捕まえる権利は俺たちにある」

「はぁ~? なに言ってんだ? そいつらは……」

 ジャックが不意に口をつぐんだ。確かに、理屈の上ではジェミンの主張が正しい。東地区で犯罪行為があり、その犯人をまだ南地区に入っていない段階で見つけ、追いかけたのなら、たとえこの場所が南地区であってもリーデン一家の縄張りを荒らしたことにはならない。

 だが、あの時は、ジェミンがロムスたちに因縁をつけてきただけで、別にロムスたちに非があったってわけじゃない。あったわけじゃないのだが、じゃあ、それを証明できるかというと、そうするわけにもいかない。もし、それを言い立てたりすると、あのときの覆面男たちは俺たちだとバラさないといけなくなるわけで。そんなことをすれば、リーデン一家の方が先にアラセルの縄張りを荒らしていたってことになってしまう。

――くぅ~ なんてこった。このまま、俺たちは手をこまねいて、ロムスたちを見捨てなきゃいけないのか?

 だが、反論途中で言葉を詰まらせてしまったジャックの様子に不審げな眼を向けていたアラセルの男たちの間で、ヒソヒソとなにごとかが囁き交わされ始めたのが聞こえてきた。

――なぁ? こいつら、あのとき飛び込んできたやつらに似てないか?

――ああ、声だとか、体つきだとか。

 くっ、こ、これって、なんかやばくねぇか?

 背筋に冷や汗が流れおちていく。それはジャックの方も同じようで、露骨に顔をしかめてさえいる。

 そうして、迫りくる危機的状況をヒシヒシと感じていると、

「トゥー!」

 突然、白刃がきらめき、男の一人が倒れた。つづいて、もう一人が倒され、さらにもう一人。男たちが割り込んできたジャックと俺に気を取られている隙に、ロムスが背後に回り込んでいた三人の男たちを峰打ちで倒し、逃げ道を作ったのだ。

 その空いたスペースにマヤの手を引きながら飛び込んでいく。けど、その先には道なんてない。かまわずロムスたちは、そのまま運河の中へ身を躍らせるのだった。

「逃げたぞ! 追え!」

 ジェミンがそう命じる中、男たちがロムスたちを追って次々と運河に飛び込んでいく。

 ドボンッ、ジャボン、バシャーン

 次々と上がる水しぶき。

――あれ? けど、ロムスたちが飛び込んだときには、水音なんて全然しなかったのに?

 ふと見ると、ロムスとマヤが水面上に両足で立っている。アメンボかなにかのように、そのまま滑るように運河の上を移動していく。

「なっ! なんだ、あれは?」

「どういうことだっ!」「なぜ、あいつらは水の上をっ!」

 ジェミンやアラセルの男たちが驚きの声をあげ、ロムスたちをあきれ顔で見つめている中、いつの間にか、ジャックがジェミンの背後に回り込んでいた。

 ザバーンッ!

 一連の水しぶきの中で一番大きなのが立ったのだが、結局だれも、そんなことを気に留めてすらいなかった。



「悪い、助かった。ありがとうな」

「ううん。それより急いでここを離れた方がいいかもね」

「ああ」

 俺とジャック、それにロムスとマヤ、マリーは運河の傍を離れ、街中へと走り始める。

 さっき、ロムスたちが水面の上に立つことができたのは、マリーのアメンボの魔法のおかげ。

「ふふふ。昨日の姿を消す魔法といい、今回といい、面白いことを体験させてもらったわ。お礼を言うわね」

 マヤが愉快そうな顔でマリーに礼を言っているのを聞きながら、やっぱり彼女は全然驚いてなんかいないんだなということを再確認する。

――魔法に慣れている。

 隣の家が魔術師で魔法医、魔法薬の調剤士の一家だから、俺たちは子供のころから魔法には親しんできたが、一般の人間にとっては魔法に接する機会なんてほとんどありはしない。よほど重い病気にかかって、彼らの魔法や彼らが作る薬のお世話になるしか助かる道がないっていうような時ぐらいだろう。

 日常生活を送っているだけならば、魔術師との接触を極力避け、魔法を忌み嫌うのが普通なのだ。

 なのに、魔法に慣れている様子。一体、彼女は……?

 ともあれ、俺たちは、そのままジャックの家に飛び込み、しばらく匿ってもらうことになった。



 安全なジャックの家で、全力で駆けてきたせいで乱れた息を整えていると、ほとんど息を切らせてもいないジャックが、ジロジロとロムスとマヤの様子を眺めている。

「で、お前ら、その格好はなんなんだよ? どこかへ出かけるつもりか?」

――そういや、ロムスたち、なんで旅装なんだ? 昨日は一度もどこかへ旅に出るなんて言っていなかったはずだが?

 マヤの姿は最初に会った時と同じゆったりとした白のシャツに膝丈の地味な緑色のスカートとタイツの格好だったが、ロムスの方は厚手の麻のシャツの上にレザーアーマーの胸当てをつけ、なめし皮のズボンに幅広のレザーベルトを巻いていて、腰に長剣をさしている。さらに、足元は皮のブーツの格好だった。その上に二人ともマントを羽織っている。

 二人とも動きやすい格好で、街中を歩くためというよりも、どこか遠くへ出かけるための服装だ。

「ああ、ちょっとな」

 ロムスが口を濁しつつ、マヤの眼を覗き込む。なにかのアイコンタクトが成立したのか、やがて、俺たちを見返してきた。

「これからちょっと行かなくてはいけない場所ができてな」

「行かなくちゃいけない場所? どこだよ? 遠くか?」

「ああ。そんなところだ」

「って、どこだよ!」

「ねぇ? それって、もしかして、昨日ザイン大公の日記に書いてあったこととなにか関係があるの?」

 ずっと黙ってジャックとロムスの会話を聞いていたマリーが口を挟んでくる。

 一瞬、ロムスとマヤが驚いた顔をしたが、黙ってうなずいた。

「そっか、やっぱり。羽トカゲがどうとか言っていたから、古代の森あたりまで行くつもりだね?」

「古代の森? すげぇ遠くじゃねぇか!」

 ジャックが驚きの声を上げる。と、そこへ、家の奥からトムおじさんが現れてきた。

「お前たち、古代の森へ行くつもりか?」

 力のこもった声。家の中だというのに、壁が震えそうなほどの声量だ。

「は、はい」

 怯えた眼をして、小さくそう答えたのはマヤだった。

「そっか。だが、あの辺りにはあまり近づかねぇ方がいいぞ。今は日照りで大変な上に、もともと日中でもモンスターがでやがる場所だからな」

「ああ、そうだったな。そういや、最近、ワッチクのキャラバン隊があの辺りで襲われたとかいってなかったか、親父?」

「ああ、先月、荷馬車が途中で故障したとかで、日の出までにチェッレにたどり着けなかったキャラバン隊が運悪く羽トカゲの集団に襲われて、荷物ごと何匹か馬をかっさらわれたって話だ」

「「……」」

「カッセルの坊っちゃん、悪いことは言わねぇ。もう一度言うが、あの辺りには近づかねぇ方がいいぜ」

 トムおじさんは、じっとロムスの顔を覗き込む。そして、すっと視線をその隣で唇をかんでいるマヤに滑らせると、すこし不思議そうな表情を浮かべた。だが、すぐにまたロムスに視線を戻し、

「なおさら、そっちの嬢ちゃんと二人連れなんざ、死にに行くようなもんだぜ」

「そ、そうですか……」

「け、けど、私たちはどうしても行かなくてはいけないんです」

「それはどうしてもなのかい? 他の奴らには任せられないような、あんたらじゃなきゃいけないことなのかい?」

 マヤが顔を上げ、トムおじさんを強い視線でまっすぐに見つめ返す。

「はい」

 二人は視線を戦い合わせるように見つめあった。ややあって、トムおじさんが力強くうなずいた。

「よし、分かった。なら、俺に任せておきな。今晩、南方へ向かうキャラバン隊の護衛の仕事が入っているから、その中に交って出発しな。そうすれば、少なくとも古代の森の近くのチェッレの町までは無事にたどり着けるはずだ。そこで日が暮れるのを待って、夜になってから森に入るなら安全だったはずだ。羽トカゲは夜目が利かねぇし、デカい翼をもっていやがるから森の中には降りて来られねぇからな」

「えっ? いいのですか?」

「ああ、構わん。その代り、道中ではいろいろ手伝ってもらわにゃならんけどな」

「あ、はい。構いません」

「そっか。分かった。じゃ、今回の護衛隊リーダーのギャレンのヤツに伝えといてやる。そうと決まれば、出発までまだ時間がある。しばらく、うちの二階でゆっくりしていきな」

 トムおじさんはそれだけ言うと、家の裏手にある作業場へ向かうのだった。

「あ、ありがとうございます」

 マヤたちの感謝の声を背に聞き流しながら、トムおじさんは去って行った。

 ドアが閉まって、その背が見えなくなったところで、ようやくジャックに促されて、ロムスとマヤは階段を上がっていった。



 体にぴっちりとしたシャツにズボン、頑丈なブーツを履き、何枚か着替えの入った背負い袋を担いで、俺は裏の木戸を抜けた。

 辺りは日が暮れたばかりで、まだ上空には光が残り、周囲の物体を見分けるのも容易だが、間もなく真っ暗になり、輪郭すら確認するのも難しくなるだろう。

 俺は木戸を抜け、そのまま路地を進んでいく。やがて、五一歩目、ジャックの家の裏手の木戸の前に立つ。

――ギィイイイ~~~~

 きしむ音をたてて、木戸が開いた。できた隙間から中をのぞく。

――うん、だれもいない。

 ホッと息を吐き出した途端だった。突然、何もないところから腕をつかまれた。

「もう、なにしてたのよ。遅いわよ」

 マリーだ。マリーが姿の消える魔法を使って、木戸のすぐ裏の茂みに隠れているのだ。正直なところ、こうなるのじゃないかと予想していなかったわけじゃないから、さほど驚きはしなかったが。

「わ、悪い。けど、出発まで、まだ時間があるのだろう?」

「うん、そうだけど、でも……」

 改めて魔法をかけ直し、姿が見えるようになったマリーの頭のてっぺんからつま先まで眺めまわす。

 相変わらずのフードつきの灰色ローブを着こんではいるが、前が開いていて、その下には、クリーム色のワンピースを着込み、へそのあたりで幅広のベルトを巻き、腰に小さな杖をさしている。足元は、ひざまでのソックスで、ローファーを履いている。とても動きやすそうな格好だ。いつもきっちりと前までボタンが留められたローブか、たまに着ている魔女っぽいゴテゴテした姿を見慣れているだけに、すこし見とれてしまう。

「な、なによ? ヘン?」

「いや、全然。むしろ似合ってると思う」

「なっ……」

 俺がほめると、なぜが絶句して耳まで赤くなった。けど、なにか俺、ヘンなこと言ったか? 素直な感想を伝えただけなのだが。

 首をひねっていると、

「って、お前ら、なにしてるの?」

 気づいたら茂みの向こう側にジャックが立って、俺たちを見下ろしていた。

――って、あれ? さっき俺たちマリーの魔法で姿を消していたはずなんだが?

「フン、あんだけ大きな音立てて、木戸開けたり閉めたりしてりゃ、だれだって気づくだろ、そんなもん」

 あはは、そうだった。



 バツの悪い顔をして、二人とも姿を現す。

 だが、見直してみると、ジャックはいつもの服装。もちろん、この格好でも旅には十分なはずだが、でも、あまりにも普段と同じ格好だ。

 もしかして……?

 疑念が一瞬頭の中を駆け抜ける。だが、急いで頭を振って、その疑念を追い払う。

 ジャックは姿を現した俺たちのいつもと違う格好を一瞥しても何も言わず、そのまま、指をくいくい曲げてついてこいという合図。俺たちは、その後ろを素直についていった。

 やがて、案内されたのは、三階のジャックの部屋だった。

 着替えが何枚か入っているだけのタンスと机とベッドだけで構成された基本的に何もない質素な部屋。俺たちが入ってきた裏庭に面した窓からは、半分欠けた月がのぞいている。

「しばらくここに隠れてな。出発の時間になったら呼ぶからよ」

「えっ? いいのかよ?」

「はぁ? あたり前じゃねぇか。お前らだって、あいつらが心配なんだろう?」

 そうして、ジャックはウィンクを一つ俺たちに向けてから、

「お前ら、お茶でいいよな? 下で淹れてくるわ」

 さっさとドアを閉めて廊下を階段の方へ歩き去っていった。



 しばらくして、ジャックが湯呑みを三つもって戻ってきた。順番に俺たちの前に置いて行く。

「冷めないうちに飲めよ」

 勧められるままに、まずマリーが口をつけた。それから次に俺が自分の前の湯呑みに口をつける。

「そういや、珍しいな。ジャックがお茶を淹れてきてくれるなんてな?」

 子供のころから今まで何度もジャックの部屋に遊びに来たことがあったが、お茶もお菓子もでたためしがない。

 珍しいことがあるものだと思いつつも、湯呑みの中のお茶を全部飲みほし下に置くと、すでに隣のマリーの湯呑みも空になっていた。

 次の瞬間だった。マリーの体がぐらりと大きく傾く。そして、そのまま床に倒れ込んだ。

「ま、マリー?」

 驚きつつ、マリーの肩をゆすろうと腕を伸ばすのだが、その腕は空中で力が抜けたように垂れ下がり、そのまま俺も重力に引っ張られて傾いていく。そうして、床の上に寝転がった俺たちは、もうすでに寝息を立て始めていた。

 そんな俺たちをずっと黙って眺めていたジャックが、やさしい声でぽつりとつぶやくのが耳にはいってくる。

「悪いな。けど、今晩はこのままおとなしくここで寝ていてくれ。頼むな」

 そうして、俺たちを跨ぎ、ベッドまで移動して傍にかがみこみ、ベッドの下から隠してあった荷物を取り出す。それから、中折れ帽をかぶりなおし、明かりを消して、部屋を出ていった。



 寝息を立てながら、ジャックが後ろ手に部屋のドアを閉めるのを、目を細く開け盗み見ていた。

 頭の中でゆっくり二十を数え、俺が体を起こすと同時にマリーも起き上がる。

「バカね。ホント、ジャックの考えることなんて、こっちはお見通しなんだから。何年一緒に過ごしてきたと思ってるのかしらね」

「ああ、だな」

 俺たちはジャックがお茶を取りに行っている間に、マリーから手渡された薬包を飲み下しておいたのだ。眠り薬の効果を打ち消す予防薬。

 だから、ジャックが入れた眠り薬入りのお茶を飲み干しても全く効果なんてなかった。

「ははは、ホント、バカなんだから」

 そうして、二人それぞれに倒れた時に体についたホコリを払い、立ち上がる。窓から入る月明かりの中で、お互いにうなずき交わした。

「そんじゃ、行こうか?」

「うん」

 俺たちが実は眠ったフリをしていただけで、本当は起きていたなんて今はジャックに知られるのはまずい。だから、慎重な足取りで床板をきしませることがないようそろそろと出口へ向かう。

 たっぷり時間をかけてドアにたどり着いた。そうして、ゆっくりとノブを回し、ドアを細く開ける。

「よぉ。起きたか?」

 目の前の壁にもたれかかり皮肉な眼で俺たちを見下ろしていたのは…… 腕組みした盗賊団の頭の息子だった。

「「ジャック!」」

 驚きで言葉がでない。ジャックは先に行ったのじゃなかったのか?

「フン、だれがバカだよ。大体、俺もお前たちと何年付き合ってきたと思ってんだよ。お前らの考えることぐらい手に取るように分かるってぇの!」

「ぐぬぬぬ……」

「じゃ、じゃあ、さっきのお茶は?」

「俺が眠り薬なんざ、お前らに使うわけねぇっての。そんなもったいねぇことするかよ!」

「「……」」

 見つめあったまま、なにも口にすることができなかった。やがて、自然とそれぞれの口から、抑えきれない笑い声がこぼれるのだった。

「……ふふふ」

「ぐふふふふ」

「あははは」



 裏庭の中、今回のリーダーのギャレンさんとその配下の若い衆が整列してトムおじさんと向かい合っている。全員が動きやすそうな旅装であり、護身用の武器を身に着けている。

「それじゃあ、お前ら、気を付けて行って来い。くれぐれも体を大事にするんだぞ。それと、命を粗末にはするな。危なくなったら、構わねぇから荷物なんざほっぽっておいてすぐに逃げろ。いいな」

「へぇ。お頭」

「「「へぇ~ 分かりやした。お頭」」」

 ギャレンさんに遅れて男たちが一斉に頭を下げる。そして、

「それでは、いってめぇりやす!」

「「「いってめぇりやす!」」」

「おお、行って来い、行って来い」

 トムおじさんの声に送られて、男たちはぞろぞろと木戸を後にするのだった。

 もちろん、それらの男たちに交って、フードを目深にかぶり俯けて顔を隠しているロムスたちもいる。

 木戸を抜ける瞬間、ロムスがトムおじさんの方をふり仰ぎ、感謝の目礼を送った。その返事は眼を細めて、深く大きくうなずき返すだけだった。



 ギャレンさんたちが見えなくなるまで、その場で腕組みして仁王立ちのまま見送っていたトムおじさんだったが、ようやく踵を返して家の中へ引き返す。だが、部屋に入ってすぐのところで立ち止まった。

「さて、それじゃ、お前らも行くのか?」

 独り言のようにつぶやく。声量があるので、つぶやいていても大声なのだが。それでも、普段よりいくぶんか声は抑えめ。

 もっとも俺たちは姿を消す魔法のおかげで誰にも見えないはずなのに……

 一瞬、三人して息を飲んだのだが、そのまま返事なんてしなかった。無視して柱の陰に隠れ続ける。

 その気配を察したのか、トムおじさんがにやりと笑った。

「気を付けてな。マークスティンやローの家には、後でこっちの方からお詫び方々、挨拶に寄せてもらうからな。後のことは心配するな。それと、ジャック。お前は体を張ってでも、友達を守らにゃいかんぞ。特に嬢ちゃんはまだ嫁入り前の体だ。傷一つつけるんじゃねぇぞ。いいな?」

 そう言って、カラカラと声を上げた。

 と、不意に真顔になり、

「ああ、それと、マークスティンの坊っちゃん。悪いが、あいつらに合流するならパニレモの町からにしてくんな。さすがに、キャラバンに参加する商人たちは、マークスティンの人間が河からの荷揚げに立ち会うのを嫌がるんでな。申し訳ないが、外してくんな。それじゃ、お前らも気をつけてな。この幸運石にお前らの無事もついでに祈っててやるぜ。ああ、それと、ギャレンたちはパニレモには明日の昼までには到着するはずだ」

 そう言いたいことだけを言って、胸から下げた黒い石のペンダントを光らせ、トムおじさんは奥の扉へ歩いて行った。その間、一度も俺たちの隠れている柱の方を見ようとはしなかった。

 トムおじさんの言いたいことは分かる。なにしろ、俺の家の家業は徴税吏なのだから。南へ向かうキャラバン隊のために、河船から荷馬車などに荷物を移し替える場面に俺が立ち会ったりすると、個々の商売の実状を把握されかねないと商人たちは警戒するに決まっているのだ。下手すると、そのせいで来年からの課税額がアップしかねないのだから。だから、トムおじさんは俺にはその場に近づかないでくれと頼んできたのだ。もちろん、俺もその申し入れには素直に従うつもりだ。徴税吏の息子としては、物陰にでも隠れて一部始終を観察していたいところなのだが……

 緊張を緩めホッと息を吐き出した。それから、感謝の気持ちを込めて、トムおじさんの去って行った方向へ深々と頭を下げた。

「親父もああ言っていたし、そろそろ行くか」

「ああ、そうだな」

「街の外へ出るまでは、このまま姿を消しておいた方がいいかしらね」

「ああ、頼む」

 そうして、俺たちは木戸を抜けて歩き出すのだった。まずは街のすぐ南を流れるオリューエ河の渡し舟を目指して。


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