プロローグ
本文中には、ちょっと特殊な職業が登場しますが、その制度、技能等はあくまでも架空のものです。実際に同じ呼称の職業が中世~近代には存在しましたが、丸々同じ形態だったわけではないです。
――たぷ、たぷ……
夢かうつつかの境目にあるこのとき、近くでもありそうで、また遠くにも感じられる世界の畔から伝わるような、かすかな水音を耳が捉えていた。だが、それをまだ俺ははっきりとは意識してはいない。
ただ寒かった。
体の芯から冷えてきている。指先が冷たい。手足が凍える。
「はぁ~」
俺は息を吐き出し、右手の甲を額に当てる。
冷え切った肌の感触が直に額に伝わり、思わず身震いをする。
「さぶっ……」
まぶたに手の陰が差し、すこし暗くなったようだ。とすると、今は太陽が出ているのか?
ゆっくりとまぶたを持ち上げてみた。
最初に目に入ってきたものは真っ白だった。真っ白な景色。真っ白な空気。
いや、これは…… 靄だ。一面に靄がかかり、視界がまったく利かない光景を目にしている。気が付けば、外気にさらされた肌もしっとり濡れている。
これじゃ、眼と鼻の先の距離でドラゴンの硫黄臭い顔が有ったとしても、気づくことすらできないだろう。ま、もともとドラゴンと出会う機会なんて、普通に暮らしているなら絶対にありえないのだが。たとえばある日とち狂って、東へずっと行ったところにある帰還不可能といわれる魔竜の塔にでも登らないかぎりは。
そんなバカなことを考えつつも、目の前のグラディエーションも何もない単色の真っ白な世界にようやく不安を覚えはじめた俺は、なにか他に見えるものはないかと首をめぐらす。
途端、後頭部に硬い感触。それだけでなく、首の後ろにも、背中にも、腰にも、そして、太ももの裏にも同じように硬いものがある。その上、体がその後方の硬いものに押し付けられている。重力だ。
そう、俺は今なにか硬い板のようなものの上に横たわっている。
「どこだ、ここは?」
視線を横に向けると、ようやく白以外の色が見えてきた。こげ茶色。使いこんだ木の色。木目。俺の視界を隠すように、木の板がそびえている。反対側にも視線をむけると、そちらも同様。
――たぷ、たぷ……
ふと、背中が軽く揺れたような気がした。地震か?
俺は慌てて上半身を起した。すぐに周りの風景が眼に飛び込んでくる。
「あっ……」
すぐに理解できた。靄がかかった中でも近くの景色ならなんとか見分けがつく。俺が今まで寝ていたのは、運河に停泊していた小舟の中だった。俺たちの街オリューエの中を縦横に走り抜ける運河の中に、どこにでもいくらでも見かけるごく一般的な荷物運搬用のゴンドラボートだ。
すぐそばには小さな桟橋があり、同じタイプの複数のボートとともにロープで舫われている。
「なんで、こんなところで寝ていたんだ?」
伸びを一つし、ボートの揺れを制御しつつ、さっと立ち上がる。オリューエの住民でない者がこのゴンドラボートの上でこんな急な動作をすれば間違いなくひっくり返り、運河に落ちてしまうだろうが、運河の街オリューエの庶民たる俺たちにとっては何でもないこと。そのまま、軽い身のこなしでボートから桟橋の上へ移動した。
硬い木の板の桟橋に立ち、まずは体を確認。
うむ、どこにも異状はないようだ。痛みも疼きもなにもない。正常そのもの。
それから、あらためて周囲を見回すと、運河沿いに植えられている柳の枝がしだれ落ちていて、ぴくりとも動かないのが見える。とすると、今は風のない朝か。
毎朝立ち込める運河からの靄が、風がないせいで吹き払われることなく溜まり、あたりを覆って今のように視界を悪くしているのだ。
だとすると、俺にとっては幸いなことだった。
朝の時間といえば、どこの運河沿いでも、気性の荒い荷運び人足たちがオリューエ河を海から遡ってくる大型船から荷物を受け取り、運河沿いの倉庫に運び込むため、ボートを使って頻繁に行き来し始める時間帯である。だが、この濃い靄のせいで、今日は仕事の開始が遅れているのだろう。
おかげで、俺はだれにも発見されずに、こんなボートの中でさっきまで平和に寝ていられたってことになる。
一瞬、寒さのせいでない身震いをしてしまう。
もし、今朝、風があって、靄を吹き飛ばしていたなら、朝一番に働きに来た血の気の多い人足たちに見つかっていて、眠っているうちに運河に突き落とされていただろう。
それがこの町の掟だ。しかも、もし万一、運悪く俺の素性を知っていたりするヤツがいたなら……
ゾッ。
ホント、今日は靄が出ていてラッキーだった。
俺は、ホッと息をつき、桟橋を土手に向かって歩き始めた。
ほどなく運河の土手にあがる。十三歩。近くの柳の幹に手をついて周囲を見回した。
幸いなことに、ここの景色には見覚えがある。土手のすぐそばに建っているのは、西地区のタッブスブラザーズ商会の倉庫。緑色のとんがり屋根が特徴だ。とすると、ここから俺の地元である南地区へ渡る橋までは八百歩ほど離れているはず。
俺はとんがり屋根の倉庫を右手に見ながら、ゆっくりとした足取りで歩き出した。
――しかし、なんでこんな西地区のボートの中でなんか寝ていたんだ?
改めて記憶を探ってみた。だが、あんなところで横になったどころが、西地区へ移動してきた記憶すらないのだが?
帰り道を急ぎながら、もう一度昨日の記憶を探ってみる。
ボートの中で目覚める前の記憶といえば……
昨日の昼、領主の館などがある中央地区のオリューエ中央市場へ買い出しにきていた。
最近、国のあちこちで起きている日照りや長雨のせいで、モノの値段は上がり始めてはいるが、オリューエ河をつかった水運や南方への街道の起点になっているここオリューエにはそれでもたくさんの物資が集まり、市場ではまだ十分にいろいろなものが安く手に入る。
しかし、王都の大神殿で奇跡の力をもった大司祭様が、日々、国を守る祈りを捧げているはずなのに、なぜこうも異常気象が頻発するのか。なにかよくない前兆なのだろうか?
神話にもある英雄神によって倒されたはずの悪魔や大魔王が復活する兆しってことはないだろうか?
どこか不穏なものをそこはかとなく感じつつも、だとしても、一地方都市の庶民にすぎない俺になにができるというわけでもないのだが。
心配しても仕方がないような考えを軽く頭を振って追い出し、俺は中央市場の中をすすんでいった。
なじみの店でいつもの干し肉を買い、その隣の果物屋で親父の好物のベリーやアップルを買った。それから、その近くの軒先で店を広げている露店をいくつかのぞいてまわり、甘いジャムパイを買って、それを齧りながらめぼしいものはないかと市場の中をぶらぶらしていたはずだ。
だから、昨日は朝起きてから、五,七三四歩目で市場に入り、その後三〇五歩分、市場の中をぶらぶらしていた。
それから……
そうそう、次の三〇六歩目を踏み出そうとしたときに、俺は前を歩いていた少女にぶつかったのだ。
その前からオリューエの街には不案内なのか、俺の前を歩きながら盛んにあたりをキョロキョロ見回しながら歩いていた少女。豊かな金髪を後ろでひっつめに束ね、白のゆったりとしたシャツを着、印象の薄い緑色のスカートを幅広の茶色のベルトで締め、厚手のタイツを履いて、足首までの短いブーツを履いていた。一言で言えば、動きやすい格好だといえる。ただ、シャツを下から盛り上げる胸は、首元まで止められたボタン同様、とても窮屈そうだ。そういう物堅そうな格好でありつつ、服の生地はかなり上等なもののように見える。どこかの金持ちの使用人だろうか?
少女は旅の途中なのか、バックパックを背負い、全身に軽くホコリをかぶっていて薄汚れている。そんな少女が人ごみであふれかえった市場の交差点の真ん中で突然立ち止まったのだ。
一方、そのすぐ後ろを歩いていた俺の方はというと、手元のジャムパイに気を取られていて、前を歩く少女が立ち止ったことに一瞬だけ気が付くのが遅れた。そのせいで、食べかけのジャムパイに齧りつこうとした体勢のまま、胸部や腹部に柔らかく軽いショックを受け、危うくジャムパイを取り落しそうになった。それでも、なんとか踏ん張り、幸いにして手にしていたものを地面に落とさずにすんだのだが、俺の一歩先では、前を歩いていたはずの旅姿の少女が地面に倒れていたのだった。
地面に手をついたまま、少女はなにが起こったのかわからない様子で周囲を見回す。が、すぐに背後に立つ俺に気が付いて、ようやく事態を理解したようだ。途端にきつい目をして俺を睨みつけてくる。
このままだと、少女が文句を並べ立ててくるのは確実だ。なら、その前に、機先を制する必要がある。
「あ、ごめんなさい。君が急に立ち止ったから避けられなかったよ。ごめんね。怪我とかなかったですか?」
俺はできるだけ親切な笑顔を浮かべて、今回のアクシデントの原因はあくまでもその少女自身にあることを強調しつつ、その少女に手を差し伸べた。
出かけるときに確認したが、その時の俺はそれほどひどい格好ではないはずだし、いやらしい笑顔を浮かべていたわけでもないはずだ。真摯に誠意をもって、表情に謝罪の気持ちを込めていさえしたと思う。実際、どういう理由にせよ、ぶつかって転倒させてしまったのは俺の方なのだし、申し訳ないと思っていたのは本心だ。だが、その少女は青い瞳でジッと俺の手を見つめながら、
「痛いわね。どこに目をつけているのよ。気をつけなさいよね、まったく!」
などとその物堅そうな格好には似あわない気の強い口調で返してくるだけ。決して俺の手を取ろうとはしない。むなしく差し出したままの手がマヌケに思える。
少女は俺の手を無視して立ち上がり、パンパンと腰についた砂ボコリを払った。
一瞬、不快な気分になりかけたのだが、よくよく見ると俺の手にはパイの中身のジャムがついている。さっきぶつかって取り落しそうになったときに飛び出したのだろう。
ああ、そりゃ、手なんて取ろうとしないはずだ。しかも相手は見ず知らずな男。なおさらだ。俺だって、そんな手、触りたくはない。
「あははは。もうしわけない」
手についたジャムをペロペロ舐めとりながら、ぶつかってしまったことを再度詫びた。
少女はいつでも逃げ出せるだけの間合いをとり、しばらくそんな俺のことを値踏みするように眺めていたのだが、やがて一つうなずくと、
「ちょっとバカっぽいけど、そんなに悪そうなヤツじゃないみたいね。まあ、いいわ。ちょっとあなた、この街の人なんでしょ?」
「ん? ああ、そうだけど? ペロペロ……」
って、誰がバカっぽいんだよ。
「じゃあ、道教えなさいよ」
そのとき、たしか彼女は東地区のとある地名を告げたはずだ。
……ん?
……
って、あれ? 彼女が俺に訪ねた地名って、一体どこだ?
お、おかしい。地名が思い出せない。確かにこの耳で聞いたはずなのに。
ともあれ、俺はその地名の場所を知っていたので、そこへ向かう道を丁寧に彼女へ教えてあげたはずだ。
その後、彼女は『そ、ありがとう』と言って、さっさと俺が指さす東の方向へ歩み去っていった。
その背を見送り、さらに西へ二一八歩進み、市場の店の一つで母さんに頼まれていたお茶の葉っぱを買った。なのに、
「あっ……」
店を出た途端、すぐ近くで誰かが驚きの声を上げる。気になったのでそちらを見ると、そこにいたのは、さっき道を教えてあげたばかりの少女だった。
「あれ? なんで君が?」
「ちょっと、なんで、あなたがここにいるのよ?」
「えっと、確か、君、東地区へ行くつもりだったんだよね?」
「そんなの知らないわよ。東地区だか、北地区だか。初めての街だもの」
「さっき、俺、東の方指さしてあっちって教えたよね? なんで、あそこからもっと西のにあるこの場所に君が来るわけ?」
「し、知らないわよ。きっと、あなたの教え方が悪いのよ」
「え、え~と…… 東地区までさっきの場所から一本道なはずなんだけど…… 普通迷うわけないんだけど」
「はぁ~ まあ、いいわ。とにかく、もう一度、ちゃんと教えなさいよ。今度はちゃんとよ」
強気にそう言ってくるので、仕方なくさっき以上に詳しく丁寧に道を教えて分かれた。……はずなんだけど。
それから、さらに五七歩南へ行ったあたりで、また彼女に出くわしたのだ。
――はぁ~ どんだけ方向音痴なんだよ。
呆れつつも、すでに俺の方の用事はすべて済んでいたので、結局、その少女を目的地まで案内したのだっけ。たしか、市場のある中央地区から東地区まで歩いて、二,四一九歩目の場所だったはず。けど、その肝心の目的地の記憶がない。どういうことだ、一体?
記憶では、たしかにその目的地まで少女を案内したはずなのだが?
そして、次に気が付いたら、さっきのボートの中だった。
こ、これは、一体……?