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ある愚かな男の話



 ある小さな街に、一人の男がいた。

 小さな街では有名な男だ。男の名をオルディックと言った。

 彼はふらりふらりと小さな街を歩き回り、ふと立ち止まっては手近な通行人にお決まりの言葉を投げかける。


「――ねぇ君、どこかでチェーニを見なかったかい?」





 身寄りのないチェーニのささやかな葬儀を機械的に終え、ふと気づくとオルディックの手には、一つの鍵と、小さな指輪だけが残されていた。

 鍵はチェーニの家のものだ。使われた分だけ細かな疵が刻まれている。飾りは一切ついておらず、簡素で味気のない鍵は、鍵であるという以外に何の印象も与えてこない。

 一方指輪は、唯一オルディックがチェーニに贈ったものだった。安物のはずのそれには疵一つ無く、つるりと磨かれ輝きを放っている。装飾としての価値は無いに等しく、鍵のように家を守るなどという役目も無いというのに、鍵よりも余程持ち主に大切にされていたのかが窺えた。

 オルディックがチェーニを雪の中から掘り出したとき、チェーニの指にそれはなかった。いつも指に填められていたはずのそれが無く、雪をかくオルディックに僅かな期待を抱かせたそれは、何のことはない、ただ指から外され、祈るように組まれた両手の中にあったのだ。

 座り込んだ姿勢のまま凍り付いたチェーニは棺に納めるため湯灌ゆかんにより身体を解された。その際に緩んだ両手の隙間から転がり出てきた、と葬送人から壊れ物を扱うように渡されて、オルディックは呆然とそれを受け取った。

 価値は無いというのに、何故葬送人までもそんなに丁寧に扱うのか。

 手のひらの上に載せられたチェーニの指輪は、随分と小さい。簡単に失せてしまいそうだった。

 チェーニは愛の軽さを表すようなこんな安物の小さな指輪を握りしめ、雪の中、いったい何を思っていたのだろうか。

 普通の神経の女であれば約束の時間から一時間もしないうち、早々に帰っていただろうに。雪が強さを増す中、オルディックは必ず来てくれる、と願でも掛けていたのだろうか。



 葬儀後、疵だらけの鍵を使い、オルディックはチェーニの家に入った。

 ここも、随分と久しぶりに訪れた気がする。一体どれくらいぶりなのかは覚えていない。

 チェーニの家は、一歩踏み込んだだけでチェーニの匂いがした。チェーニの匂いは心を安らがせる優しい香りだ。胸いっぱいに吸い込めば、肩の力がふわりと抜ける。花の香りだとか、菓子の甘い香りだとか、そんな明確な匂いでは無いのに、いつも変わらずオルディックを癒してくれる。

 今も、そんなチェーニの匂いがオルディックを包んでいる。

 だが何故だろう。チェーニの匂いを吸い込んでも、オルディックの胸は重くなるばかりだ。

 家の中は、昼間だというのに薄暗い。

 主がいないという、たったそれだけで、どうしてこうも空気は変わるものだろうか。まるで家自体、チェーニがもはや帰ることはないと知っているかのようだ。

 街全体が雪に埋もれる中、丸一日以上、主の不在だった家は冷え切っている。風は遮れらているはずなのに、空気はオルディックの肌を刺すように鋭い。

 それでも暖炉に火をくべる気にはならず、オルディックはのろのろとチェーニの家を歩き回った。

 久しぶりに訪れたはずのチェーニの家は、あまり記憶と変わっていない。不思議なことに、空気はひんやりしているのに、チェーニ好みで揃えられた小物に触れれば、それはほんのりと温もりを持っているように感じられた。

 見るともなく手近な小物を持ち上げては眺め、また元の場所に戻す。オルディックは世辞にも広いとは言えないチェーニの家の中を一通り巡り、気が済むと部屋の片隅に小ぢんまりと置かれた寝台に腰を下ろした。

 力が抜けるまま座った所為か、思いのほか勢いがついていたようで、オルディックが腰を下ろした拍子に寝台に染み込んでいたチェーニの匂いが身体を包む。

 オルディックは目を閉じた。

 不思議と涙は出ない。

 チェーニを雪の中で見つけたとき、確かに胸を突き抜けたはずの恐ろしい衝撃は、今や嘘のように鳴りを潜めている。当然ながら、表面的には傷はおろか痛みすらも残していない。

 ただ、抗い切れない強い虚脱感が全身を覆っていた。



 チェーニがいない。

 それでもオルディックを取り巻く日常は変わらなかった。

 悴むような朝、だるい身体を無理やりに起こし、雪をかき分けて職場へ向かう。惰性で仕事をし、そして一夜の享楽を求める女に誘われる。

 そう、女たちはチェーニの死を知りながらもオルディックを一夜の相手として誘うことをやめなかった。

 オルディックの恋人はチェーニで、そのチェーニが死んだと知りながら、然程日をおかずにオルディックを一夜の相手として誘う。普通に考えて、不謹慎に過ぎる行動だ。

 だがオルディックはそんな女たちを見ても、不快に感じることはなかった。むしろ、オルディックは彼女たちの行動はある意味で当然の行動、と納得すらした。

 何故なら、女たちにとってチェーニは“見えざる者”だからだ。チェーニが生きていた時から、女たちにとってチェーニの存在は無きに等しかった。

 そして、チェーニの扱いをそうさせたのは、オルディックだ。

 オルディック自身が、チェーニをそう扱っていたのだから。

 そんなオルディックに、チェーニの死すらなかったこととして振る舞う女たちを不快に思う権利などあろうか。当然ながら、そんな権利は無いだろう。

 だが不快に思う権利はなくとも、誘いに乗る義務もまた、オルディックにはない。

 オルディックは蠱惑的に腕を絡めてくる女を無感情に引き剥がし、また冷たい雪をかき分けて帰途に着く。

 身体は温まることなどなく、冷えていくばかりだ。



 小さな街の長い冬は続く。

 掛け布を被っているのに、最近では手足が寒さに痺れて目が覚めることが常だ。そんなとき、いくらか寒さを和らげる方法をオルディックは見つけた。

 目覚めから暫く、直ぐには起き上がらず掛け布の中でゆっくりと四肢を縮める。それから胸元の鎖を通した小さな安物の指輪を握れば、じんわりと身体に血が廻るような感覚がする。

 安物の指輪に熱を発する効果などありはしないが、そうしなければ動けないほどに身体が冷えているのだ。

 指輪で暖をとり、ようやくオルディックは身体を起こす。

 最近ではすっかり慣れてしまった一連の行動をなぞり、覚醒しきれない意識を少しでもはっきりさせようと水場へ向かった。

 その、ほんの短い距離を歩いたときだ。

 オルディックは何かに蹴躓いてよろけた。感覚の鈍った足でなんとか踏みとどまれば、足元にはつくねられたオルディックの衣服が放り投げられていた。


 ああ昨日、脱いでそのままだった。


 おかしい、なんでまだこんなところに。


 唐突だった。唐突に、オルディックは混乱した。

 事実と事実を疑問に思う気持ちがマーブル状に頭を巡っている。

 何でもないことに動揺しながら視線を上げれば、視界に広がった光景にさらにオルディックは愕然とした。

 いつの間にか、オルディックの部屋は衣服が散乱し、椅子が倒れ、あるいはいくつかの空の酒瓶などが放置された、酷い有様になっていたのだ。

 知らぬ間に片づけられ、整理され、快適な空間へと変えられていた、かつての部屋は見る影もない。


 いつから。

 どうして。


 ――わかりきっている。


 上滑りしていたチェーニの不在を、実感した瞬間だった。

 衣服が散乱し、飲み食いの後が放置されている。そんなことは独り身の男の家とあれば、然程珍しいことでもない。むしろ生活感があるとすら感じられる光景かもしれない。

 だがオルディックはむしろ、そこに人の気配を感じられなくなったと思った。人――チェーニの気配が。


 このときから、オルディックは少しずつ、そうと気づかぬようにゆっくりと、おかしくなっていった。


 オルディックは自宅に帰らなくなった。

 オルディックの帰る先は、チェーニの家だ。

 チェーニの家から職場へ向かい、仕事が終わると一度自宅に“寄って”、湯を浴び着替えを持ってチェーニの家へ“帰る”のだ。


 チェーニの家で過ごす夜は温かい。

 あの日と――チェーニを見送った日と変わらず、暖炉に火はくべていないにもかかわらず、不思議とそこは寒くない。あれほど重苦しく拒絶するように冷やかだった空気は露とも感じられず、むしろ優しく、温かくオルディックを包み込んでくれるようだった。

 ここにはチェーニがいる。

 チェーニはもういないと感じたが、それは間違いだった。 

 置かれている小物一つ一つに、チェーニの気配を感じる。時折手に取り、触れてみれば、安物の指輪と同じくまるでチェーニに触れているような温もりさえ感じられる。

 そっと寝台に横たわれば、チェーニの匂いが鼻孔をかすめる。チェーニを抱きしめたときと同じ匂いだ。まるでチェーニが腕の中にいるような気がした。

 眠気に促されるままチェーニの使っていた掛け布を頭まで被り、目を閉じる。外の空気から遮られたそこでは、チェーニの息遣いが聞こえてくるような気さえした。

 オルディックにとって、チェーニの家でチェーニの気配を一つ一つ拾っていくことは、ある意味でチェーニの居た頃よりも充実した日々だったかもしれない。

 オルディックは知らず、チェーニの家で見る優しい夢に囚われていった。


 オルディックは、決してチェーニという存在が煩わしかったわけでも、積極的に疎かにしていたわけでもない。むしろ、大切で愛しくて、離したくないと強く思っていた。

 かつてチェーニの惜しみない愛情はオルディックを有頂天にさせ、どこからともなく力を漲らせるほどの威力を確かに持っていた。チェーニだけが、オルディックに熱を抱かせたと言ってもいい。チェーニの海をも凌駕する愛は、オルディックの光であり、道であった。

 だが、どこで見失ったのか。

 気づけば自分に自信のある積極的な女に溺れていた。

 “女”を強く感じさせる彼女たちは、確かに刺激的な一瞬を与えてくれた。しかし今思うと、そんな一瞬の何が楽しかったのか、オルディックにもわからない。

 いや、そもそも楽しんでいたのかすら思い出せない。

 喉元を過ぎれば、どんな味がしたのかも忘れるくらいだ。刹那の言葉が相応しい一瞬の快楽。

 だが、何の味も残さないそれらは酷く喉に絡みついた。

 よくわからない。

 気づけば目も耳も口も鼻も、全てが塞がれていたような気さえする。

 まさに“溺れて”いたのかもしれない。息苦しくて、喘ぐように口を開ければ不快なものが無理矢理に体内に入ってくる。目を開けても何も見えはしなかった。遂には意識が混濁し、何も考えられなくなる。ものの正誤すらわからなくなるような――。


 しかし今はこんなにも静かだ。息を吸うのが容易い。

 オルディックはチェーニの寝台に身を沈め、そっと目を閉じた。

 鎖を通した小さな指輪を握り締めると、穏やかな眠りがオルディックに訪れる。

 夢の世界は、チェーニの寝台よりもさらに優しくオルディックを包み込む。

 もう、手足が寒さで痺れることはなかった。




 オルディックを優しい夢を見ながら、ゆっくりと狂っていった。


 はじめはオルディックにも自覚があった。

 仕事帰りに立ち寄った雑貨屋で、ふと気づくとチェーニの好きそうな小物を選んでいる自分。

 友人にきちんと食事をしろと説教されて食材を買い込めば、チェーニの好物、それも甘い菓子や果物ばかり袋に詰まっている。

 チェーニの家に帰りつき、ただいまと声を掛け、出迎えがないことを疑問に思う。

 夢から目覚めた直後、寝台の隣を無意識に手が何かを求めてさまよっている。

 約束通り街の小さな噴水の前に行くが待ちぼうけをくい、憤慨して帰り着いてみてチェーニが来るわけがないと気づく。


 夢と現実を混同していることに気づいていたが、オルディックにはどうすることもできなかった。

 チェーニの家へ帰ることもやめることはできない。

 そこはあまりに甘美だった。女たちの魅力的な身体よりも、比べるべくもないほどに甘く芳しく、オルディックは溺れていくことを自覚しながら、浮き上がろうとも思えず、ただ沈んでいく。チェーニの海へと。


 そうしてオルディックは夢と現実の境を失くし、チェーニのいない現実で彼女を探す。



『ねぇ君、どこかでチェーニを見なかったかい?』







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― 新着の感想 ―
[一言] 男は自業自得。だが、女はもっと違う人生を得られたのでは、と思う。が、しかしやはりこれも自らの選択によるところの自業自得ではあるのか。
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