ある愚かな男女の話
ある小さな街に、一組の男女がいた。女の名をチェーニ、男の名をオルディックと言った。
二人はかつて仲の良い恋人だった。
チェーニは一心にオルディックを愛し、オルディックもまたチェーニを愛した。
二人の間にあったのは、春の温かな日差しに育まれる新緑のような初々しい愛だった。
互いを慈しみ、支え合い、見守る周囲の目にも優しい色彩を届けるような、そんな温度のある愛だった。
――しかし。オルディックはチェーニの深い愛を長く受け続けることで、次第に慢心していく。
はじめは酒の力に押された過ちだった。だが、二度目は前後不覚になるほどには酒に飲まれていなかった。三度目からはもうほとんど酒など入っていなかった。――ただ、今にして思えば理性もまた残っているとは言い難かったのかもしれない。
やがでオルディックは当然のように浮気を繰り返すようになる。
オルディックはチェーニのことを顧みることなく、只管享楽に耽った。
それでもチェーニはオルディックの元から離れて行くことはなかった。
オルディックに渡された鍵を使い、オルディックの住まいを整え、あるいは食事を用意する。
オルディックの連れ帰った女と鉢合わせても、チェーニは通い妻のような行為をやめようとはしなかった。
けれど、チェーニの献身はついに終止符が打たれることになる。
ある冬、チェーニとオルディックは外で会う約束をした。実に数か月ぶりの約束だ。
外出の目的は冬に見られる一面銀世界の泉を見るため。待ち合わせは街の裏門を出た直ぐのところ。
それを聞き、殊の外喜んで見せたチェーニにオルディックも満足げに頷き、その夜はこちらも久々なことではあったがチェーニと温もりを分け合った。不思議なことに、その夜はオルディックに、まるで久方ぶりに温かな湯に浸かったような、安堵と温もり、そして強い充足感を与えた。
ところが数日もすると、オルディックはその夜の温かみも、約束すら忘れてしまった。
約束の当日、オルディックは午前で仕事を切り上げる予定を組んでいた理由に疑問を持つこともなく、その日声を掛けてきた何度か関係を持った女とともに午後から買い物に出かけ、早めの夕食を取って。雪がちらつき、風が強さを増した頃、オルディックは当然のようにその女と帰宅した。
家に帰りついた途端、女が仕掛けてきた激しい口付けに応え、オルディックはそのまま女と縺れるようにして寝室へと向かった。
早いうちから行為に及んだため、一度果てたときにはまだ日が沈んで間もなかった。
僅かに疲れを滲ませた身体を持て余しながら擦り寄る女を腕に抱いたまま、オルディックはふと寝台脇の小机の上が小奇麗になっていることに気づいた。
昨夜寝酒にと飲んだ酒の瓶も杯もなくなっている。寝室に脱ぎ散らかしていたはずの昨日の服もまた。
そういえば、腕の中の女と寝室に雪崩れ込んだときも寝台は奇麗に整えられていた。
もちろん、寝乱れた寝台を整えて仕事に出るほどオルディックは几帳面ではない。
そこまで思い巡らせてやっと、オルディックはチェーニの存在を思い出した。
いや、正確に言えばチェーニはずっとオルディックの心の中にいた。何をしていても、どんな人間と一緒にいようとも。
ただ、オルディックの目の前に魅力的な何かが現れると、一時的にチェーニは奥に追いやられるのだ。
チェーニはオルディックが女を連れ込み、睦み合っているその瞬間を目撃しても怒らない。嫉妬もしない。ただ驚きを浮かべ、ほんの少しの悲しみを滲ませて去って行く。
その後姿を眺め、オルディックはいつも思うのだ。
自分は本当に愛されているのだろうか?
しかし、チェーニの愛は疑いようがないことも知っている。
どんなに酷い仕打ちをしてもチェーニは離れてなどいかないし、いつ何時でも熱の篭もった瞳で自分を見つめてくる。
そこには確かにオルディックへの愛が見て取れた。
だからこそ、オルディックは何をしても許されるのだと思っている。
チェーニはオルディックのもので、しかしオルディックはチェーニのものではないのだ。
そんな横暴な関係が、オルディックとチェーニの間では許される。
オルディックは黙々とこの部屋を掃除したであろうチェーニのことを考えているうち、やっと街の裏門で待ち合わせをしたのが今日であったことに気づいた。
窓の外に視線をやると、外は強い吹雪に変わっている。
オルディックの小さな動きに反応してか、腕の中の女が身動ぎ、スルスルと細い手を下げていく。オルディックの胸元を撫で、ゆっくり焦らすように腹を滑っていく。官能的な動きだった。いつもであればオルディックは何を考えるでもなく応えていただろう。
しかしこのとき、オルディックは僅かに残された己の良心のため、女の手を止めた。
オルディックは「少しだけ出てくる」と言って、女を家に残したまま、吹雪の中を街の裏門まで急いだ。
門まで行くと、そこは既に閉ざされ、門番にはこれからまだ風が強くなりそうだから外出を控えるように促されたが、オルディックはほんのそこまでだからと門を開けてもらった。
だが門を出てもチェーニの姿は無い。
風に煽られながら見渡しても、そこには闇夜に浮かび上がる白い世界が広がるだけだった。
この吹雪の中だ。しかも約束の時間は昼過ぎ。しんと静まり返る青白い世界に目を眇め、流石のチェーニもとうに帰ったのだろうとオルディックは自嘲した。
いくらオルディックに盲目的なチェーニでも、悪天候の中、長時間も待つような莫迦なことはするまい。
それをチェーニならば有り得ないこともないと思い込み、少しだけ慌てていた己が滑稽に思えた。
そもそも、門を閉められる様子があれば、せめて門の内側には入っていただろうし、それを門の外まで探しにいった自分が莫迦らしいとさえ感じた。
オルディックは自分こそチェーニを過信しすぎだったと嗤い、踵を返した。
踵を返す瞬間、視界に何か微かな違和感を感じた気がしたが、無駄な労力を使ってしまったことに苛立っていたオルディックは小さな違和感になど構うことなく、裏門を後にした。
腹立ち紛れに足早に自宅に戻ると、予想外にも昼間誘いを掛けてきた女がオルディックを出迎えた。
置き去りにしたことを怒って帰ってしまったかと思ったが、彼女はオルディックの「少し出てくる」という言葉を信じ、待っていたらしい。
それに気づいたオルディックは、チェーニに齎された怒りをぶつけるように、あるいは昇華するように、また無駄に冷えた身体を手っ取り早く温めるために、女を貪るように抱いたのだった。
一そうして夜が明けた。
雪はもう降っていなかったが、空はいまだどんよりとしたまま。手足も悴むような寒い朝だ。
仕事があるため女も起こして追い立てるように家から出し、オルディックもまた外に出て、妙な圧迫感を与える重い空の下を気だるげに歩いて職場へ向かう。
途中、少しだけ遠回りをして裏門を覗いた。
昨夜はいなかったチェーニだが、もしかすると朝早く、雪が上がるのとともに裏門に立っているのではないかと思ったのだ。
しかしチェーニは居なかった。
当然と言えば当然なのに、オルディックはチェーニが待っていないというその事実が癪だった。
常に側にあり、オルディックの居心地のいいように整え、約束は決してチェーニから反故にすることはない。
それがチェーニを一夜の女としない理由だというのに、何故チェーニはオルディックとの約束を悪天候というたったそれだけ(・・・・・・・)の理由で無視しているのか。
せめて帰る前に家に寄るだとか、手紙を入れておくとかすればいいものを。
そうすればオルディックだとて、昨夜寒い中、また今だってこうしてわざわざ遠回りをしてまで裏門を訪れなくてもよかったというのに。
理不尽な怒りを抱えながら、オルディックは雪を蹴散らし、既に開かれている門から少しだけ顔を出して昨夜と変わらぬ銀世界を眺め、直ぐに興味を失って昨夜と同じように踵を返した。
何処もかしこも真っ白に塗りこめられていると思ったが、方向転換するほんの僅かの間に、昨夜と同じよう、雪の中に赤茶の何かが見えた気がした。
しかしほんの微かに覗いていた何かになど興味をそそられるはずもなく、オルディックは不貞腐れたようにそのまま職場へと足を速めた。
声を掛けられたのは午前の唯一の休憩に入ったときだった。
昨日のようにまた一夜の快楽を求める女かと振り返ったオルディックの前に現れたのは、しかし予想に反して男だった。
男は長い付き合いの友人で、オルディックの中でも数少ない気の置けない相手だ。
何の用かと問えば、男は渋い顔で苦言を呈してきた。
どうやら昨日、チェーニではない女とともに帰宅したのを見られていたらしい。
男はことあるごとにそうしたオルディックの行動を諌めてきていた。
曰く、チェーニのように可愛らしく献身的な女の子を泣かすな、とか、チェーニのような素晴らしい女は二人といないのだから蔑ろにするな、とか。
しかし、チェーニ自身が怒らないものを何故友人に怒られなければならないのか、オルディックにはわからなかった。
だから言うのだ。
「チェーニは俺の側にいられるだけで幸せなのだから、俺はしたいことをしたいときにする」と。
そしてまた友人が眉を吊り上げる。
だがいい加減そんな遣り取りも飽きていたし、何より今日はチェーニが何の音沙汰も無く約束の場を離れたことに腹を立てていたため、オルディックは友人を軽くあしらってその場を後にしようとした。
ところが、今日の友人の本当の用事はそれではなかったらしい。
呼び止められ、昨日チェーニは家に帰っていないようだが、オルディックのところにいるのか、とのことだった。
友人の家はチェーニの斜め向かいに建っている。
家の明かりや煙で在宅かどうかは容易に知れるため、何かの折に外へ出たときチェーニの家のそれらが見られなかったので気にしていたらしい。
連れ帰った尻軽女と鉢合わせ、嫌な思いをさせたんじゃないだろうな、とそれが本題のようだったが、オルディックはそれよりも何よりも急激に押し寄せてきた嫌な予感に声を出すことが出来なかった。
チェーニが昨夜、帰っていない。
オルディックの家には少なくとも夕方以降、チェーニは現れていない。夕方から他の女といかがわしいことをしていたからと言って、チェーニが訪れれば必ず気づくはずだからこれは確かだ。
では、チェーニは今、どこにいるのだ。
昨日の夕方から、どこに……。
違う。
昨日の昼からだ。
昨日の昼から、今の今まで。
その答えは、わかりすぎるくらいにわかっている。
昨夜も、そして今朝も裏門で視界の端に捉えた違和感。
それが焼け付くように鮮明に脳裏に浮かび、オルディックの背筋の産毛が総毛立つ。
赤茶の切れ端のような何か。
チェーニが愛用して随分くたびれていたロングコートがちょうどそんな色だったと思い出す。
昨夜は強い風にバタバタと、今朝は静けさを取り戻した微風にハタハタと。
同じ位置で揺れていたではないか。
一つ違ったことと言えば、その切れ端が見えている長さだった。
昨夜は女性の肘から先ほど見えていた切れ端は、今朝覗いたときには人差し指ほどしか出ていなかった。
ただの切れ端があの吹雪の中で完全に埋もれなかったことの方が奇跡と言えるが、しかしそんな奇跡など何の意味もない。
オルディックは今朝の裏門から見た白銀の世界よりもなお一層、目の前が真っ白に染まったような気がした。
喉が引き絞られ、胸が引き絞られ、顔からはザッと音が出るほどの勢いで血の気が引いていくようだ。
「おい、聞いているのか」そう問いかける友人の声など聞こえていなかった。
「チェーニちゃんを泣かすなよ」オルディックの様子を訝しみながらもそう続けた友人の、チェーニ、という単語にオルディックは弾かれたように駆け出した。
まろびながら、冷たい空気が肌と喉を刺激するのにも構わずオルディックは走った。外套を着る余裕など微塵もなく、服に隠れているはずの胸も足も痺れるようだったが、それでもオルディックは走った。
やがて手足の感覚が無くなり始めた頃、やっと裏門へと到着する。
門番は昨夜とは違う男に代わっていた。
開かれた裏門の先には、今朝には見られなかった足跡が一筋、白い世界に延びている。誰かが既に門の外を歩いたのだろう。
しかし、赤茶の切れ端を見たのは門の裏、門扉から少し離れた塀のところのはず。
門番の目も憚らずに門を飛び出したオルディックの視線は、迷わず赤茶の切れ端に吸い寄せられた。
あるいは見間違いであれば、と思ったそれは、しかし残酷にも昨夜とも今朝とも変わらずそこにあった。
白い雪を疎らにつけて、ハタリハタリと小さく揺れている。
オルディックは動けなかった。
走ったのとは別の理由で心臓が嫌な音を立てている。
まさか、と、だがおそらく、が交錯する。
どれくらい立ち尽くしていたのか、きっとそれほど長い時間ではなかったはずだ。
オルディックはのろのろとソレに向かって足を動かした。
街は動き、冬と言えども喧騒は聞こえてくるはずなのに、オルディックの耳にはキンと硬質な耳鳴りだけが木霊していた。
瞬きすらできず、時間はまるで制止しているようだ。
揺れる赤茶の切れ端の側に、オルディックは力が抜けたように膝をついた。
膝が深い雪に埋まり、冷えた身体からさらに熱が奪われていくのも構わなかった。
伸ばした指先が震えている。寒さが理由だと自分に言い聞かせ、オルディックは赤茶の切れ端の周りの雪を掻き分けた。
さくり、さくり。
初めは緩慢な動作だった。
しかし雪を掘り進めるにつれ、それは鬼気迫るものへと変わっていく。
ざっざっざっ。
初めは雪にまみれて白くぼやけた見覚えのある赤茶のコートが現れた。
次に黒いスカートが。
オルディックの頭は真っ白だった。
いっそ目の前を白く、雪以外何もないのだと思えるように白く白く染まってくれればと思った。
だが思いに反してオルディックの目はギラギラと狂ったように見開かれ、目の前の現実を鮮明に映し出していく。
悴んだ手は機械的に動き、白を取り除いていく。
だめだ、見たくない。
だが確かめなければ。
次に見えたのは色を失った白い指だった。
吹雪の中、手袋もせずに何をしているのか。
白い両の指は祈るように組まれていた。
たった一つ、オルディックが送ったことのある安い指輪が見当たらない。
それは目の前の人形がチェーニではない証に思えた。
笑おうとしたオルディックの頬は、寒さで固まり引き攣ることさえできなかった。
力を取り戻したように動き出す、真っ赤になったオルディックの指はしかし、次の瞬間に唐突に凍りついた。
雪が入り込み、重く流れる金茶の髪には見覚えがある。
血色を失った頬の色には見覚えなどない。
しかしそのなだらかな弧は幾度も撫でたことがある。
だが雪と同じ冷たさの人肌など撫でたことはない。
小さく開かれた唇の感触を自分のそれが覚えている。
満足するまで味わうと赤く熟れた果実よりも美味そうな艶を出すのだ。
だが今目に見えるそれは頬と同じくらいまで色を落としている。
息はできているのかと不安になる小さな可愛い鼻が見える。
だがそこから確かに噴出されていたはずの熱い呼気が感じられない。
長くはないが濃くびっしりと生えた睫毛が上がれば、鮮やかな翠が姿を現すはずだ。
だが睫毛はぴくりとも震えない。
「チェーニ」
その場でオルディックが口にできたのは、それだけだった――。
やがて異変に気づいた門番が衛士を呼び、周囲が騒然となってもまだ、オルディックは呆然とその場に座り込んでいることしかできなかった。
チェーニの献身が、チェーニが、永遠ではないと自覚した、取り返しのつかない過ちを犯したことを自覚した瞬間だった。