秘密
母は忙しい人だが、家事なども手を抜かない。いったいいつ息抜きをしているのだろうと思うのだが、月に一度くらいのペースで寄り道をして帰ってくる。行きつけの店があるらしく、ほろ酔い加減で煙草の匂いをまとわり機嫌良く帰ってくる。まるでその一日だけでストレスを吐き出しエネルギーの充電を済ませているようだ。毎回翌朝は機嫌が良く楽しそうなので、一度私も連れて行けとねだったのだが、
「子供にはまだ早い、社会のストレスや理不尽さを痛感してから連れてってやる」
と、容赦なく却下されてしまった。
この日も一ヶ月ぶりの内容のメールが母から届いた。
「今日はちょっと寄り道してから帰りまーす」
万里子は坂の中腹の路地を左に曲がると閑静な住宅街を抜けて行った。まさか帰り道の途中のこんな場所に行きつけの隠れ家があるとは明日葉は気付きもしていない。{BAR DRY VERMUT}。味のある赤い扉を開くとジャズといつもの声が迎えてくれる。
「いらっしゃいませ」
「あら、今夜もお客いないの?」
「いや、ついさっきまで満席でね外にも50メートルの行列ができてたんだ。」
「へえ。どこぞのラーメン屋みたいね。」
「ついにマスターの人気が全国区になったようだ」
「おっさん、つまんねえ冗談はいいから早く酒出せ」
「・・・はい・・・(笑)。 いつものでいいのかい?」
「うん、いつもので。」
マスターの黒川晃は酒を注いだグラスと封筒を万里子の前に置いた。
「はい、ドライベルモットと、これ今月分。」
「ねえ、毎月毎月きちんと養育費くれるのはありがたいんだけど、だいじょうぶなの?この客付きで」
「心配しなくてもいいさ、長年こんなアングラな店やってると商売が暇だろうとやっていける錬金術くらいは身につくものさ(笑) 怪しい金じゃないから安心していい。」
「別れた男に言うのもなんだけど、あなたには感謝してるわ。十七年間ずっと影から私達を支えてくれて。」
「僕にはそうすることぐらいしか出来ないからさ、それでも養育費くらいじゃ未婚のままあの子を産んだ君に償えるとも思ってはいないよ。」
「未だに不思議なのよね私・・・。」
「何がだい?」
「ひどい別れ方をしたはずなのに、全然あなたの事恨めないなんて、それどころかここに来ると愚痴でも何でも吐き出せてスッキリしちゃうの。何故かしら。」
「ここで酒を出している時は君は客で僕はただの聞き上手なマスターだからさ、それだけだ。」
「そうよね。 あれから十七年も経つのね」
「明日葉はちゃんと学校行ってるかい?」
「ええ、リハシンの仕事もキチンとこなしてるわ。」
「駅前で歌っているのをこの間見かけたよ。なかなか様になってるじゃないか(笑)」
「この前リハシンで歌ってる時にある事務所の人に誉められたの。才能あるのかしらね(笑)」
「ああ、それは間違いない」
「私たち親バカね(笑)」
「それも間違いない(笑)」
この店に来ると決まって万里子はドライベルモットを三杯と、普段は決して吸わない煙草を三本吸って帰る。今夜も三杯目を飲み干し、最後の煙草を灰皿でもみ消すと席を立つ。
「ごちそうさま。今夜も楽しく飲めたわ。やっぱり晃のお酒が一番ね」
「そう言ってくれる万里子のようなお客がいるかぎりは暇な店でも続けていかないとな(笑)
帰り大丈夫かい?酔って坂道上れないなんてことないだろうね。」
「あら、送ってくれるの?」
「焼けぼっくいに火がついたらマズいからやめとくよ(笑)タクシー呼ぼうか?」
「冗談よ。こちとら現場で屈強な男どもを顎でこき使ってるアマゾネスよ(笑)この位の酒で千鳥足になんかなってられませんよーだ」
「それならばいいけど(笑)気をつけて帰るんだよ」
「何故その優しさが十七年前に出せないんだバーカ(笑) じゃあね、おやすみ。」
名残惜しそうに、それでも一度も振り返ることなく見えなくなった後姿を見届けるとマスターは扉を閉めネオンを消した。
「あれ、忘れ物、養育費置いて行っちゃったよ。ま、明日にでも取りにくるだろ。」
翌日の夜マスターの読み通り万里子がやってきた。
「いらっしゃい」
「ごめん、昨夜忘れ物しちゃった。やっぱり酔ってたのかしら(笑)」
「ちゃんと保管しときましたよ、はいこれ。」
「ありがとう、ついでに一杯頂いていくわ」
「今作るよ、いつものでいいね。」
その時店のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
「おや?今日はお客さんがいるじゃないか」
「うちの店に客がいたら不思議なのか?」
「あれ? 多木さんじゃないですか」
「あら、布施さん。 どうしてここに?」
「ここのマスターとはね中学も高校も一緒なんですよ。同級生。」
「そうなの?天下の布施陽介と幼馴染だったなんて聞いたことないわよマスター」
「あれ?言ってなかったっけ」
「聞いてるはずないですよ多木さん、俺たちは秘密の関係ですから(笑)」
「怪しいわね(笑)布施さんはよくいらっしゃるんですか?この店」
「いや、先日数年ぶりに、駅であのリハシンの子を見た日に」
「陽介、まさか、お前が言ってた気になる子って・・・。 じゃあ万里子、君が言ってた事務所の人って・・・。」
「どういう事だい? 多木さん、晃、」
「布施さん、実は・・あのリハシンの子、私の娘なの・・・。」
「ええ?」
「そして、俺の娘だ。」
「なんだって? じゃあ晃と多木さんは・・・」
「いえ、結婚はしてないの、私は未婚の母。 布施さん、晃と私のこと、あの子は知らないの。どうか言わないでいてもらえますか。」
「もちろんそれは・・・ しかし驚いたな。晃が多木さんと、しかもあんな大きな娘さんまでいたなんて。 隅に置けないな晃。」
「今さら秘密が一つや二つ増えたって俺とお前にとっちゃ驚くほどでもないだろ陽介。」
「いや、それならそれで話は早い、今日お前に会いに来たのはあの子、いや、娘さんについて晃に相談があったからなんだ。」
「晃に明日葉の相談? 布施さん、どういう事なんですかそれ?」
「多木さん、僕は娘さんをスカウトしようと思っている。あの才能は本物だ、是非うちの事務所から本格的に売り出したい」
「明日葉をですか? 娘を認めてもらえるのは親としては嬉しいですが、あの子にはまだ無理です。もっと実力をつけてからじゃないと。それにこの前話したようにあの子はまだオリジナルの曲を作れません。」
「わかってます。だから晃に会いに来たんです。」
「いったいどういう事でしょう?」
「お二人の秘密を聞かせてもらったんで、僕と晃の秘密も話しましょう。」
「秘密?」
「おい、よせよ陽介」
「もう昔の事だ、いいじゃないか晃。ただ多木さんは、かつての大スター布施陽介に幻滅するかもしれませんが・・・。」
「・・聞かせてもらえますか?」
「わかりました、飲みながら話しましょう。晃、いつものくれるかい。」
「わかったよ、二人とも同じものだね。」
ドライベルモットを二つ作りカウンターに並べると、マスターは珍しくカウンターの中で煙草に火をつけた。
「私にも一本頂戴。」
「じゃあ僕も失礼して」
三人のくゆらす煙が立ちのぼり、薄暗い明りとジャズに溶けていく。 布施陽介はゆっくりと語りだした。
「あれは高校3年の夏休みだった。僕は生徒会長で野球部のキャプテンもやっていた。目立つことや役好きでね。自分で言うのもなんだけど女子からも人気があった。最後の夏の大会は早々と負けてしまい、僕は長い夏休みを持て余していたんだ。」