坂の街
横浜市青野区、渋谷から新玉都市線の急行に乗り30分、青野台駅で降りると、そこが私達のホームタウン。南口を右に曲がり国道にぶつかると左、そこからは長い坂道を上る。部活に熱心な野球少年でさえこの坂を自転車で一気に駆け上がるのは無理かもしれない。 坂というのは上りも下りも出発地点が逆なだけで一つの坂が上り坂にも下り坂にもなる。私はこの坂を毎日上ったり下ったりしてきたのだが、どういうわけかこの坂には上り坂という印象しか浮かばない。上り坂にはきつくて辛いイメージがあるが私はこの坂が大好きだ。 通っている学校もこの街にある。駅の反対側だ。なのでこのきつい坂を毎日使う。自由な校風で、テレビ番組の仕事の為、毎週月曜に私が学校を欠席する事にも理解を示してくれている。
そして歌手を目指している私は週末の夜になるとこの駅前でギターを抱え歌っている。
母曰く
「リハシンも大切な仕事だけど、本気で歌手になりたいならいつまでも人のダミーのままじゃダメ。いつか自分の歌でお母さんの作る番組に出れるようになりなさい。その為にはどんどん歌ってどんどん聴いてもらう事。リハーサルだけじゃダメよ、人前で歌えなきゃ何の意味も無い、まずはストリートからでもなんでもいい。ダミーじゃない明日葉をアピールしていきなさい。」
だそうで、もちろん私もリハシンやってりゃ歌手になれるなんて甘い妄想はもはや抱いていない。あの現場は勉強になる事はたくさんあるが、チャンスなんてものは転がっていない。
元来引っ込み思案で人見知りな私だったが、オーディションの合格、毎週の現場を経験したからか、まるで物怖じしない母のような性格に変わっていた。
この日も最終電車が通り最後の歌を歌い終え、私はギターを片付ける。すると改札からの人並みに見慣れた顔を見つけた。
「お母さん、おかえり」
「ただいま、さ、帰ろう。夜食もらってきたよ、今日の客つきはどうだった?」
「うん、学校の友達が二人と疲れ切ったサラリーマンが一人、あとは停めた車の中から窓を開けてずっと聴いててくれたカッコいいおじさまが一人、あとは少し立ち止まるだけの通行人。」
「そっか、まだ始めて間もないんだし、オリジナル曲も無いしね。地道に頑張りなさい。でもカッコいいおじさまって気になるわね(笑)」
「うーん、お母さんと同じ歳くらいかな」
「へえ、それは私がおばさまだって言ってんのよね?」
「苦情なら素直な娘に育てた母親に言って」
「ほう、餓死したいらしいな、現場から持ってきた弁当は二つとも私が頂こう。」
「ちなみにどこのお弁当?」
「とん泉の並みカツサンド。」
「私の大好物ではござらぬか、さ、母上、荷物をお持ちいたしましょう。坂道は疲れますぞ。」
「お調子者め(笑)自分で持つわよ、あんたはギターケースが重いでしょ」
坂道を上り始めて10分ほどで頂上に着く、そこで振り返り、美しい街の夜景を見るのが私の楽しみだ。頂上を越して少し下ると我が家の賃貸アパートに着く。今日も頂上で振り返る。母はまたか、と先に歩いて行く、今日は私の他にもハザードを点けた車の中から夜景を眺めている人がいた。
「あれ?あの車、さっきの人だ」
「明日葉、どうしたの?早く来なさい」
「ううん、なんでもない」
ドイツ製の高級車のウインドウを少し下げ、男はタバコに火をつけた。
「やっぱりここからの夜景はいいな。」
布施陽介40歳、大物歌手KYOHKOのマネージャーであり、彼女の個人事務所の社長、そして夫である。かつては自身も歌手として人気を博しその名を轟かせた男だ。
「久しぶりにアイツの店でも覗いてみるか」
車を出し坂道を下る。坂の中腹の信号を右に曲がり住宅街をすり抜けて行くとネオンが見えた。{BAR DRY VERMUT}。
赤いペンキの剥げた古めかしい木の扉を開けると中からジャズが漏れてきた。決して広くはない店だが薄暗い店内はアーリーアメリカン調にセンス良く飾られている。
「いらっしゃいませ」
「相変わらず暇そうな店だな、晃」
「・・お前みたいに金にガツガツしてないからな、俺は商売っ気が無いんだよ。 わざわざこっちまで出かけてくるとは珍しいな、陽介。」
「ああ、久しぶりに坂の上から夜景が見たくなってね。 まずはいつもの貰おうかな」
「車で来たんだろ? 大丈夫か?」
「今夜は駅前にでも泊まるよ、久しぶりだ、一緒に飲もうぜ」
「そうだな、じゃあ今夜は看板を消してじっくり飲むか。」
この店のオーナー黒川晃はグラスを二つとドライベルモットの瓶を持って陽介の隣のカウンターチェアに腰かけた。
「わざわざ夜景だけを見にきたわけじゃないんだろ? 何か用事でもあったのか?」
「いや、ちょっと最近仕事のほうも手詰まりでね、気分転換だよ。」
「順調じゃないのか? 仕事」
「KYOHKOひとりにおんぶに抱っこの経営状態だからね、そのKYOHKOももう40歳だ、大御所の域に入ってきた。そう言えば聞こえもいいが、彼女が作る歌ももう飽きられてきてる。ここ2~3年は新曲を出してもトップ10に入らなくなってきた。才能のある若手でも見つかればいいんだが」
「懐かしの街でスカウト活動か、いいのはいたか?」
「暇を見つけてはライブハウスを覗いたりストリートでやってるのを見てみたりしてるんだが、都心はもう飽和状態、良さそうなのはすでに手をつけられてる、田舎まで手を広げないとなかなかね。」
「なるほどな、そう簡単に才能のある奴なんて見つからないだろう」
「ああ、黒川晃みたいな才能のある奴はなかなかね。さっき駅でひとり面白そうな女の子を見つけたんだが、まだコピーばっかりでオリジナルをやってなかった。あの子にお前が曲を書いてくれたらと思ったよ(笑)」
「やめてくれよ、俺はしがないBARのマスターだ。もう曲なんて書けないよ。」
「印税はしっかり頂戴してるくせに(笑) なあ晃、なんで辞めちまった? あの時はそれ以上聞かなかったが、あのままやってれば俺もお前もまだ今頃・・・」
「お前はそのほうがよかっただろうが、俺にはもう秘密を抱えながら生きることが嫌になったんだ。お前が売れれば売れるほどスーパースター布施陽介のゴーストライターでいる自分に耐えられなくなったんだよ」
「確かに俺は陽の当たる道を、お前は決して陽の当らない道を生きてた、でも俺は、布施陽介というアーティストはお前と二人で作り上げているものだと思っていた。 だから今だに印税も折半じゃないか。 晃、恨んでるのか俺を?」
「そりゃ当時はずいぶん嫉妬したものさ、俺の作った歌がテレビやCDでは作詞作曲・布施陽介になっている。納得はしているつもりでも裏方に徹している自分がやりきれなかったよ。」
「しかしそれは二人で交わした秘密の契約だ」
「わかってるよ、昔の事だ、今は何とも思っちゃいないさ」
「ああ、随分昔の話さ、俺もお前も歳をとった。スーパースター布施陽介は天才ゴーストライターを失ってからヒット曲に恵まれず表舞台から姿を消し、今は大物歌手の女房のマネージャーだ、裏方だよ。明日なKYOHKOが新曲でテレビに出るんだ、ランキング10。」
「なんだ、飽きられて売れてないんじゃなかったのか」
「ランキングに入ったわけじゃない、今週の注目曲だよ、KYOHKOの知名度と腰の低いマネージャーの営業活動の賜物さ(笑)」
「そうか、いい旦那をもらったなKYOHKOちゃん(笑)」
「お前もいい加減に稼ぎのいい女房でも見つけろよ」
「その辺に落ちてないか明日から注意深く歩くようにするよ(笑)」