「雲海橋の管理人など誰にでも務まる」と婚約破棄されましたので、三十七年分の点検記録ごと辞めさせていただきます 〜白鶴の橋は、わたくしを選びました〜
「リディア・ヴァン・クレスト。貴様との婚約を破棄する」
建国祭の夜会。王城大広間。
王太子ジェラルド・セラフィナは、わたくしの手からグラスを取り上げ、それを高く掲げて言い放ちました。
「橋守などという、ただ祈るだけの雑用係を、王妃には据えられん」
弦楽が止まりました。
三百人の貴族が、いっせいにこちらを向きます。
わたくしは礼をしました。手袋をしていない両手を、腹の前で重ねて。
(――ああ。今日も指先が冷えている)
前世の癖です。指の感覚が鈍ると、打音の返りが読めなくなる。だから冬場は懐に手を入れて温めてから橋に触れる。十二歳から七年、毎日三度。
わたくしは前世、霧島千鶴という名で、三十八年生きて死にました。橋梁点検技師。台風の夜、吊橋の主塔にぶら下がって支索の腐食を見ていて、足を滑らせて落ちた。次に目を開けたときには、この世界の赤子でした。
そして十二歳のある日、第七浮島〈鶴止まり〉の橋の欄干に素手で触れて――聴こえてしまった。
「聞いているのか、リディア」
殿下の隣には、聖女がいます。
ミレーユ・アシェット。男爵令嬢。十七歳。蜂蜜色の巻毛に、白い聖衣。鑑定石が示したステータスは【聖光魔法レベル7】。王国史上三人目の高位。
「橋の管理は、ミレーユの聖光で代替する」
殿下は誇らしげに顎を上げました。
「彼女なら一度の祈りで、七本すべてを同時に架けられる。貴様は毎日一本ずつ、三度も祈っていたそうだな? 非効率だ。無能の証だろう」
広間が笑いました。
扇の陰で、宝石の首元で、三百人が笑いました。「あの手をご覧になって」「令嬢のくせに爪が短いのよ」「胼胝ですって、胼胝」
わたくしは笑いませんでした。
(――点検頻度を効率と呼ぶ人間に、橋を任せてはいけません)
前世で、そういう現場をいくつも見ました。
予算削減。点検間隔の延伸。「今まで落ちてないんだから大丈夫でしょう」
落ちてないのではありません。
誰かが毎日触って、落ちる前に直していただけです。
「何か言うことはないのか」
わたくしは顔を上げました。
「殿下。ひとつだけ、確認をよろしいでしょうか」
◆
「なんだ。言い訳なら聞かんぞ」
「いいえ」
わたくしは首を振りました。
「解任は、書面で頂戴できますか」
殿下の眉が、わずかに動きました。
予想していた反応と違ったのでしょう。泣くか、縋るか、罵るか。夜会で断罪された令嬢がすることは、この国では大体その三つです。
ですが――わたくしは前世で学びました。
口頭の指示は、必ず消える。
「言った」「言っていない」で、現場が死ぬ。
だから紙にします。日付と署名を入れて。
「……書面だと?」
「はい。橋守は組合登録職でございます。第七浮島〈鶴止まり〉担当橋守見習い、リディア・ヴァン・クレスト。その解任には、任命権者の署名が必要です。口頭では、引き継ぎが成立いたしません」
「くだらん手続きを。泣きも縋りもせんのか、貴様は」
「くだらない手続きで、橋は架かっております」
静かに申し上げました。
怒っているときほど、わたくしの口調は丁寧になります。前世の上司にもよく言われました。霧島さん、敬語が完璧になると怖いって。
「――どうぞ、印を」
殿下は鼻で笑い、侍従に羊皮紙を持ってこさせました。その場で走り書きし、印を押す。ミレーユ様が首を傾げながら、聖女印を隣に添えました。
【橋守解任状】
受け取って、わたくしは深く礼をしました。
「確かに、拝受いたしました。では、後任の方へ引き継ぎを」
背後の扉へ合図をします。
従僕が、荷車を押して入ってきました。大理石の床を、車輪が鈍く鳴らしていきます。
「……なんだ、その荷車は」
積まれていたのは、分厚い革の帳面が七冊。
どん、と一冊目を床に置きました。
「点検帳でございます。祖母の代から三十七年分。点検回数、一万三千五百四十八回。七本すべての白鶴橋について、魔力繊維の振動音の濁りを五段階で記載しております」
どん。どん。どん。
七冊が積み上がります。卓の高さほどになりました。
「第一橋から第七橋まで。支索一本ごと、番号順。日付、天候、湿度、そして音の等級。――引き継ぎに必要なのは、これです」
広間が静まりました。
ジェラルド殿下は、その紙の山を一瞥して、はっきりと言いました。
「そんな紙束、いらん」
「……いらん、と仰いましたか」
「聖女の光があれば不要だ。過去の記録が何になる? 我々は未来を作るのだ」
ミレーユ様が、くすりと笑いました。
「ごめんなさい、わたし、字を読むのは苦手で……」
右頬にえくぼができました。
悪意はありません。本当に、一点もありません。
それが――いちばん、恐ろしい。
わたくしは膝をついて、七冊を一冊ずつ抱え直しました。
「さようでございますか。承知いたしました。では、これはわたくしの私物として持ち帰ります」
立ち上がり、一礼。
「どうぞ、そのままお続けくださいませ」
扉へ歩きます。
誰も止めません。背中で笑い声が再開しました。
敷居をまたぐ直前、わたくしは足を止めて、振り返らずに言いました。
「……ああ、そうでした。第四橋の北側支索。三百十二日前から、音が濁っております」
「知らんな。楽団、演奏を続けろ!」
楽団が演奏を再開しました。
「等級二から、直近で等級四。等級五は、断裂です。――聞こえる方だけ、どうぞご対処を」
誰も聞いていませんでした。
広間の隅で、厚い眼鏡の老女だけが、じっとこちらを見ていました。
◆
翌朝、父の書斎に呼ばれました。
クレスト伯爵ケイル・ヴァン・クレスト。痩せた長身。神経質に整えた口髭。爪を噛みながら、窓の外を見たまま言います。
「王家に睨まれる。お前は今日から家の者ではない。荷はまとめてある」
――既に、まとめてある。
夜会から馬車で帰る、あの四半刻のあいだに。父はもう、娘を切り捨てる算段を終えていたのです。
「……もう、まとめてあるのですね。仕事がお早い」
(前世にもいました。事故が起きた瞬間に、真っ先に責任の所在を整理する上司が。人は正しく動くのではなく、速く逃げるのです)
「お前のためを思って言っている。……みっともない手だ。最後くらい手袋をしろ」
わたくしは自分の掌を見ました。
短く切った爪。指先の胼胝。細かな古傷が七年分。
この手が、七本の橋を落とさずに保ってきました。
「お父様。では、家名の返上手続きを。書面でいただけますか」
父の手が止まりました。
「……書面?」
「はい。口頭では、後日に覆せてしまいますので。わたくしはもう、口頭の約束を信用しないことにいたしました」
「……く、そ。三枚目だ。手が、震えて……」
「ごゆっくりどうぞ。日付と、署名と、家紋の印を」
四枚目でようやく完成した紙を、わたくしは検めました。
「確かに。――長いあいだ、お世話になりました」
玄関に出ると、七冊の点検帳が縄でくくられて、雨ざらしの石段に置かれていました。「紙屑」と父が呼んだ、三十七年分です。
わたくしは膝をついて、一冊ずつ表紙を拭きました。
「濡れてないわね。よかった」
インクは水に弱い。
それが、この朝いちばん切実な心配事でした。
行く場所は決めてありました。七つの島の狭間、雲海に突き出た岩棚にある、廃屋同然の旧橋守小屋。三十年前まで祖母が使っていた場所です。
荷車を引いて、わたくしは橋を渡りました。
途中、第三橋の欄干に素手で触れます。一、二、三。
――澄んだ音。等級ゼロ。
「今日も、よく歌っていますね」
誰も見ていない場所で、わたくしは帳面を開いて記録しました。
解任された橋守が記録を取る意味など、ありません。
それでも書きました。
(書かないと、次の誰かが何もわからなくなるので)
◆
廃橋守小屋に着いて三刻後、扉が蹴破られそうな勢いで叩かれました。
「おい、どけ。荷車が通らん」
橋守組合第七支部の記録係、オルガ・ハウゼン。六十三歳。背が丸く、眼鏡は厚く、指はインクで真っ黒です。
彼女の後ろには、荷車いっぱいの帳面。
「……これは」
「組合の写し帳。七十二冊。五十年分だ。あんたの祖母さんの代からのな。盗んだんじゃないよ。貸出票は書いた」
わたくしは息を呑みました。
写し。
つまり――わたくしの七冊は、クレスト伯爵家の私物ではなく、組合の公的記録として、第三者が検証可能な形で複製されていた。
「オルガさん。昨夜、広間の隅にいらっしゃいましたね」
「いたよ。左耳はまだ生きとる。第四橋北側支索、三百十二日前から等級二、直近で等級四。そうだね?」
「はい」
「だから帰ってすぐ、倉庫の五十年分の写しに新しい封蝋を押しといた。日付入りでね」
封蝋。改竄されていないことの証明。
この老女は、あの場で何が起きたかを一瞬で理解していたのです。王太子が「紙屑」と呼んだものが、三百日後に何になるかを。
「お礼を申し上げます」
「感謝はいらん。次の写しを取るから、どいとくれ」
彼女は勝手に棚を組み立て始めました。埃だらけの小屋が、みるみる記録庫になっていきます。
「……あんたの祖母さんは、音の濁りを三段階でしか書かなかった。あんたは五段階にした。まあ、悪くない」
それが、この人の最大級の賛辞だと知るのに、わたくしは七年かかりました。
夕暮れ、扉の外で咳払いがしました。
「おう、音が聴こえるか」
渡し守のハラルド爺でした。七十八歳。革のような顔。白髭は雲海の湿気でいつも濡れています。
手には、湯気の立つ茶が一杯。
「茶、冷めるぞ」
「爺。わたくし、解任されたのですけれど」
「知っとる。島中が知っとる」
「では、なぜ茶を。七年も、一度も欠かさず」
爺は片耳に手を当てました。
「わしゃ左耳が聴こえんからな。右から言え」
わたくしは茶を受け取りました。
両手で包むと、指先の冷えがゆっくり溶けていきます。
湯気の向こうで、雲海が夕日に焼けていました。
白い海。その上に、七本の橋。
(――さて。仕事を探しましょう)
翌朝、わたくしは冒険者ギルド第七支部の掲示板に依頼書を貼りました。
『依頼:白鶴橋七本の定期点検。報酬:なし。依頼主、リディア・ヴァン・クレスト。受注者、リディア・ヴァン・クレスト』
自分で自分に出す依頼。
受付嬢は困った顔をしましたが、規約上、断る理由がありませんでした。
「……あの、承認者の署名欄が空欄ですが」
「埋まらないでしょうね。構いません」
そう言って、三日目。
掲示板の前に、巨大な影が立っていました。
◆
身の丈六尺半。
銀灰の鱗が頬から首筋を走り、額から後ろへ二本の角が湾曲して伸びています。瞳は琥珀色の縦瞳。外套の下には、畳まれた白銀の竜翼。
竜人の橋番将軍、シグルド・ヴェルン。
雲鯨討伐部隊の長。王国最強の武人。『雲海の氷像』。
その男が、わたくしの依頼書を指で弾いていました。
「自分で自分に出す依頼か」
「規約上、断る理由がございませんでしたので」
「聖女が七本同時に架けた。お前はもう用済みだと、王太子は言っていたが。――泣かないのか」
「泣くと、記録が滲みます」
将軍は数秒黙り、それから依頼書に向き直りました。
「――で、君は何ができる?」
身分でも、家名でも、スキルの等級でもない。
何ができるか。
わたくしは、鑑定石が七年前に吐き出した表示を思い出しました。
【共鳴聴音(レベル1)】
鑑定官は憐れむような顔をしました。攻撃力ゼロ。補助効果なし。最底辺。
ですが前世のわたくしは、それを別の名前で呼びます。
非破壊検査。
「音を聴けます。それだけです」
「音」
「素手で三秒触れれば、構造物の内部で魔力繊維がどれだけ切れているか、音の濁りでわかります。未来は視えません。何も直せません。一日七回で打ち止め。八回目からは鼓膜が鳴って、鼻血が出ます」
「……それだけか」
「それだけです。しかも――過去の記録と照らし合わせないと、何の意味もありません」
自分で言っていて笑いたくなります。
これ以上に地味なスキルを、わたくしは知りません。
将軍は、しばらくわたくしを見下ろしていました。
嘲笑も、同情もありませんでした。
「ならやってみろ」
彼は依頼書の承認欄に、太い指で署名しました。
『承認者:シグルド・ヴェルン』
「あの、報酬なしの依頼ですが」
「報酬は俺が払う」
「なぜ、そこまで」
将軍は、少しだけ視線を逸らしました。
「……俺は、橋がないと自分の島に帰れん」
「え」
「雲海の上には目印がない。島影は日によって霞む。単独行動をすると三つ島を間違える」
「……王国最強の将軍が?」
「言うな」
鱗の隙間の皮膚が、赤くなるとよくわかるのですね。
「だから俺は、この国の誰より切実に、橋が落ちないことを必要としている。橋守を雑用係と呼ぶ連中を、俺はずっと不愉快に思ってきた」
七年間。
誰も、言ってくれなかった言葉でした。
指先が、また冷えていることに気づきます。
「将軍。ひとつ、確認をよろしいでしょうか」
「なんだ」
「第四橋の北側支索を、いま一緒に見ていただけますか。――三百十二日前から、鳴いているのです」
◆
第四橋。北側、第七支索。
わたくしは素手で触れました。一、二、三。
――ぐしゃり。
濡れた紙を握り潰すような音。深いところで、繊維が束ごと切れている音です。
「等級四。断裂の一歩手前です」
将軍が鱗の手で同じ場所に触れ、眉をひそめました。
「俺には何も聞こえん」
「聞こえなくて当然です。だから記録を残すのです」
わたくしは点検帳を開きました。
「三百十二日前、等級二。百九十日前、等級三。六十日前、等級三。昨日、等級四」
「進行している。……だが欄干は輝いているぞ。聖女の光が架かっているのだろう」
「将軍。白鶴橋の魔法は、二種類ございます」
指を二本立てます。
「一つは〈架ける〉魔法。外側に膜を張り、形を保つ。派手で、速い。もう一つは〈編み直す〉魔法。内部の切れた繊維を、一本ずつ繋ぎ直す。地味で、遅い」
「……別物なのか」
「別物です。そして橋守の祈祷は、後者です。――三十七年分、一万三千五百四十八回の記録から算出した数字が一つ。一本を編み直すのに必要な魔力注入時間は、平均四百二十秒」
「七分。……聖女は七本同時に六十秒だったな」
計算が速い人です。
「一本あたり六十秒。四百二十秒の、七分の一以下」
「足りない」
「いいえ。正確に申し上げます」
わたくしは欄干の乳白色の光を撫でました。
指先が、するりと滑ります。表面が硬い。内部に届いていない。
「――一秒も編み直しておりません。あれは全部、外側の上塗りです」
将軍は長く息を吐きました。
「……では、橋の中身は」
「聖女様が認定された日から、一度も補修されておりません。三百三十二日間、空白です」
風が吹きました。雲海が下で白く沸き、橋がわずかに揺れます。
将軍の手が、無意識にわたくしの肩を支えました。熱い。竜人の体温は、人より高いのだそうです。
「訴え出よう。俺が査問会を招集する」
「感情で訴えても無駄です」
わたくしは首を振りました。
「必要なのは三点。一、聖光の架橋時間の矛盾。二、音の濁りの進行記録。三、――聖女様ご自身が、一度も橋に立っていないという事実」
「……なに?」
「ミレーユ様は、極度の高所恐怖症でいらっしゃいます。王城の祭壇から遠隔で光を放つのみ。王城門衛名簿で照合できます。誰が、いつ、どの門から出たか。第三者記録です」
わたくしは点検帳を閉じました。
「わたくしの主張ではありません。記録が、そうなっているだけです」
将軍は、しばらく黙っていました。
「――君は、恐ろしいな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
◆
王国査問会が開かれたのは、それから二十日後でした。
議長席のジェラルド殿下は、開口一番こう言いました。
「――元婚約者の逆恨みだな。査問会など、茶番だ」
広間が笑いました。あの夜会と同じ笑い方で。
わたくしは一礼しました。
「殿下。ひとつだけ、確認をよろしいでしょうか」
「またそれか」
「本日わたくしが申し上げることは、すべて第三者が検証可能な記録に基づきます。一点でも誤りがあれば、その場でご指摘ください。訂正いたします」
「言ってみろ」
「第一点。架橋所要時間。四百二十秒と、六十秒。七分の一。〈架ける〉と〈編み直す〉の魔法分類は、王立魔導院既刊教本第三巻、二百十七頁に記載がございます」
殿下の指が、肘掛けを叩き始めました。
「……そんなものは、聖女の力が例外的に優れているだけだ。凡人の基準で測るな」
「では、第二点。オルガ・ハウゼン橋守組合記録係。お願いいたします」
小柄な老女が、荷車から帳面を一冊抜き出して壇に上がりました。封蝋が三つ。
彼女は眼鏡を押し上げ、読み上げました。
「第四橋、北側、第七支索。三百三十二日前、等級二。三百日前、等級二。二百八十九日前、等級二」
震える声ではありませんでした。
五十年、伝票を読み上げてきた人間の、完全に平板な事務の声。
「二百十日前、等級三。百九十日前、等級三。六十日前、等級三。二十日前、等級四」
その平板さが、広間の誰の絶叫よりも重く響きました。
「……等級五は、断裂です。以上。写しは組合倉庫に五十年分。封蝋日付入り。どなたでも閲覧できます」
殿下が立ち上がりました。
「紙にいくらでも書けるだろう! 後から書き足したかもしれん!」
「記録に残っとるかね? と聞かれたら、残っとる、と答えるのが記録係の仕事でしてね」
オルガさんは眼鏡越しに殿下を見上げました。
「日付を書け。話はそれからだ。――あんたには、その日付がない」
「では、第三点に移ります」
わたくしは静かに言いました。
「ミレーユ・アシェット様。ひとつ、確認をよろしいでしょうか」
聖女様が、びくりと肩を震わせました。
「……はい」
「あなたは、白鶴橋の上に立ったことがおありですか」
広間が、しんとしました。
「……わたし、高いところが、こわくて」
「何度ございますか」
「……いち、ども」
「一度も」
わたくしは巻物を広げました。
「王城門衛名簿の写しでございます。聖女認定の日から本日まで三百三十二日分。ミレーユ様の外門通過記録は、ゼロ件。すべて祭壇のある内宮に留まっておられます。門衛十一名の署名入り。――こちらも、わたくしの作成物ではございません」
殿下の顔から、血の気が引いていきました。
「……ミレーユ。お前、橋に行ってないのか」
「だ、だって、祭壇から光は届くって、殿下が……!」
「私は、そんな……」
わたくしは巻物を巻き戻しました。
「誤解のないように申し上げます。ミレーユ様は嘘をついておられません。あの方の聖光は本物です。七本同時に、確かに架かっております。
ただ――〈架かって〉いるだけです。中身は、三百三十二日間、誰も編み直しておりません」
「――橋は落ちておらん!」
「はい」
わたくしは顔を上げました。
「……まだ、落ちておりません」
(落ちてから直すのを、修繕と言います。落ちる前に直すのを、点検と言うのです)
「ご報告は以上です。判断は殿下がなさってください。わたくしはすでに解任されておりますので、権限がございません。――どうぞ、そのままお続けくださいませ」
査問会は、結論を出しませんでした。
『継続審議』という、いちばん便利な言葉で締められました。
帰り道、オルガさんがぽつりと言いました。
「……何日もつと思う」
「過去の事例では、等級四から五まで、平均して八日から三十日でございます」
◆
建国祭から三百四十日目。
朝の光が雲海を金に染めた、その瞬間でした。
――ぱあん。
乾いた、澄んだ音。遠くで弦が切れたような。
わたくしは小屋を飛び出しました。
第四橋。北側の支索が、根元から弾けていました。魔力の光が蛇のようにのたうち、隣の支索へ負荷が移り、次が、そのまた次が――
連鎖。
前世で何度も計算した、最悪の言葉。
橋の上には、荷馬車が二台。第五浮島へ薬を運ぶ荷です。
そして、その前方に――視察の一行。
金の髪が見えました。
「リディア! 橋の上に四十人以上いる! 避難させるには時間が――」
背後から、竜翼を広げたシグルド将軍が降りてきます。
「将軍。翼を貸してください。橋の下へ。支索の根元を、下から支えてください」
「全部は支えられん! どれだ!」
「聴きます」
橋板に膝をついて、素手を押し当てました。
一回目。第一支索――ぐしゃり。切れている。
二回目。第二支索――にごり。等級四。もたない。
三回目。第五支索――ぐしゃり。
四回目。第六支索――だめ。
五回目。第七支索――だめ。
六回目。第四支索――切れかけ。
七回目。
耳の奥で、きん、と高い音が鳴りました。限界です。
残っているのは、第三支索。
「七回だ。もうやめろ、それ以上は――」
「触れなければ、わかりません」
「リディア」
(――ああ、もう。前世でも今世でも、わたくしはいつも足場の悪いところに立つ)
手を伸ばしました。
一、二、三――
鼓膜が内側から殴られたような衝撃。鼻の奥が熱くなり、唇の上を何かが伝います。
でも。
でも、聴こえました。
――澄んだ音。
高く、細く、まっすぐな。
わたくしが七年間、毎朝いちばん好きだった音。
「……第三支索。――そこだけが、まだ歌っています」
将軍は、返事の前に一度だけ唇を噛みました。
鱗の下で。人前で泣かないための、あの癖で。
「…………わかった」
白銀の翼が開き、彼は雲海へ落ちていきました。
次の瞬間。
橋が、止まりました。
落下の途中で、傾いだまま、止まったのです。
雲海の白い底から、竜の翼が二枚、橋の腹を支えて伸び上がっていました。第三支索の根元を、鱗の腕が握りしめています。
白い翼と、白い橋。
雲海の上で、それは一羽の鶴のかたちをしていました。
――〈雲海に架かる白鶴の橋〉。
国の名の由来を、わたくしはその朝、初めて目で見ました。
「走ってください! 第三支索の側だけ! 欄干に沿って、一列で! 荷は捨てて!」
人々が走り抜けていきます。
薬箱を抱えた御者。悲鳴をあげる侍女。そして最後に――四つん這いで這ってきた、金髪の男。
「な、なぜ、助ける……! 私は、お前を、あれほど――」
「橋の上にいる方は、全員、渡る権利がおありですので」
「リディア、私は……!」
わたくしは鼻血を袖で拭いました。
「殿下。走ってください。記録によれば、あと九十秒ほどです」
殿下は走りました。
王太子の威厳など、どこにもない走り方で。
最後の一人が渡り終えた十数秒後。
第三支索が、低く、一度だけ鳴きました。
そして、第四橋は雲海に落ちました。
◆
死者はゼロでした。
負傷者十一名。薬荷の損失、三十二箱。
第五浮島は八日間孤立し、そのあいだ、シグルド将軍の部隊が翼で薬を運び続けました。
王太子ジェラルド・セラフィナは、廃嫡されました。
査問会の記録――『継続審議』と書かれたあの一行が、決定打でした。
彼は、知っていて、何もしなかった。
判決の日、彼は最後に一度だけ口を開きました。
「……父上に、ずっと言われていた。『お前は聖女一人も見つけられんのか』と。それだけだ。それだけだったのだ」
「存じております」
わたくしは答えました。
「――落ちてから直すのを修繕と言い、落ちる前に直すのを点検と言うのです。殿下は、修繕すら間に合いませんでした」
国のためではなく、父に『見つけた男』として認められたかった。
そのために聖女を祭り上げ、比較対象としてわたくしを踏んだ。
悪意ではありません。承認欲求です。
それで、橋は落ちるのです。
彼は雲海の底の資材採掘場へ送られました。
後に聞いた話では、彼はそこで初めて、白鶴橋を下から見上げたそうです。二十二年間、当然のように渡っていたものが、雲海の下から見ると髪の毛ほどの細い糸にしか見えないことを、そのとき初めて知ったと。
◆
ミレーユ様の聖女位剥奪は、静かに行われました。
「だって、誰も点検しろなんて教えてくれなかったんです……!」
「はい」
「わたし、毎日ちゃんと祈りました。七本、全部、一度も休まずに。みんな、ありがとうって言ってくれて。だから、正しいことをしてるんだって……」
右頬のえくぼが、涙で濡れていました。
「存じております。あなたは嘘をついていない。怠けてもいない。――ただ、誰も、教えなかった」
「……わたし、どうなるんですか。処刑ですか」
処刑を求める声もありました。わたくしは書面で、別の案を提出しました。
「『橋守見習い、最下位登録の申請』」
「……え? で、でも、わたし、字が読めません。高いところも……音なんて、聴こえません」
「読み書きは、これから習えます。高所は、慣れます。音は――わたくしも、最初は聴こえませんでした」
嘘です。わたくしは最初から聴こえました。
ですが、そういうことにしておきます。
「大事なのは、聴こえるかどうかではありません。触れて、日付を書くことです」
登録の日。
彼女は震える膝で、初めて自分の足で橋に立ちました。
欄干を掴む手が真っ白で、三度嘔吐しそうになって、それでも素手を伸ばしました。
「……一、二、三。……何も、聴こえません」
「それも記録です。日付。天候。触れた支索の番号。そして『聴取不能』。それだけ書いてください」
その夜、彼女はたどたどしい字で書きました。
「……書きました。今日の分、書きました」
オルガさんが眼鏡の奥で一瞥して、ぼそりと言いました。
「日付が抜けとる。書け。話はそれからだ」
ミレーユ様は泣きながら、日付を書き足しました。
それが、彼女の点検帳の一ページ目になりました。
◆
崩落から一月。
父が、廃橋守小屋まで来ました。
「リディア! 勘当の取り消しを申請した。お前は今や国の英雄だ。クレスト家に戻れ。……お前のためを思って言っている」
「お父様。お返事は、書面で差し上げました。――家名返上の手続きは、日付・署名・家紋の印をもって、正式に完了しております」
「あれは、あの時は、王家の手前……!」
「なお、クレスト家の点検帳は、祖母の代の分も含め、すでに国家記録として保管されております。――お父様が、紙屑と呼ばれたものです」
「……リディア」
「敬具。――今回は、三度も書き損じませんでした」
王家からは〈国橋管理長官〉の位を打診されました。
「お断りいたします」
宰相は目を剥きました。
「なぜです。国家最高位の技術職ですぞ」
「わたくしは、橋に触れていたいので。長官は、書類仕事でしょう?」
「……記録を重んじるあなたが、書類を嫌うと?」
「記録は、触れた人間が書くから意味があるのです。触れない人間が書いた紙は、ただの紙屑です」
代わりに受け取ったものは二つ。
橋守組合の再建許可証と、七冊の点検帳を国家記録として永久保管する権利。
保管棚の前で、オルガさんが言いました。
「感謝はいらん。次の写しを取るから、どいとくれ」
◆
第七浮島〈鶴止まり〉の縁。
ハラルド爺が、膝に孫を乗せて雲海を眺めています。
「じいちゃん、あの橋、だれがつくったの」
「橋を作った奴の名は、わしゃ知らん」
爺は白髭を撫でました。
「けどな、橋を落とさんかった奴の名なら、知っとる。――昔はな、橋守ってのは誰にでもできる仕事だと思われとった。毎日おんなじ場所を触って帰ってくるだけの、雑用係だとな。
けど、あの嬢さんが辞めた日から三百四十日でな、橋は落ちたんじゃ」
孫が目を丸くします。
「――誰にでもできる仕事なんてもんはな。誰かがずっとやっとるから、そう見えるだけなんじゃよ」
爺は湯気の立つ茶を一杯、傍らの岩に置きました。
「茶、冷めるぞ」
誰もいない方向へ、そう言って。
そのうち、足音が来ることを知っているからです。
◆
夜明け前。
第七橋の上。
雲海が白く沸いて、朝日が縁を金に染めていきます。
わたくしは素手で欄干に触れていました。一、二、三。
――澄んだ音。等級ゼロ。
帳面を開いて、記入します。
日付。天候、晴れ。湿度、中。第七橋、南側、第二支索。等級ゼロ。
一万三千五百四十八回の続き。
一万三千九百二十七回目。
背後で、重い足音がしました。
「……また君の島に着いた」
銀灰の鱗。琥珀の縦瞳。
王国最強の武人が、ひどく困った顔で立っています。
「三度目ですわ、将軍」
「橋が、こっちに繋がっているせいだ」
「第五橋と第七橋は、分岐が二十歩ほどしか離れておりませんものね」
「……そうだ」
「では、そういうことにしておきましょう。――あら。手袋を外して、どうなさいました」
「……冷えている。これでは打音の返りが読めんのだろう」
大きな鱗の掌が、わたくしの冷えた手を包みました。
熱い。
竜人の体温は、人より高いのです。
「……はい。そのとおりです。あくまで、業務上の必要として」
「音は?」
「今日は、よく歌っています。第七橋、南側、第二支索。等級ゼロ。――一万三千九百二十七回目」
将軍は頷きました。それから、ぽつりと言いました。
「……あの日、俺は下から橋を支えた」
「はい」
「だが、どこを支えればいいかは、君しか知らなかった。――翼だけでは、何も救えない」
わたくしは、彼を見上げました。
角の先に、朝日が触れています。
白銀の翼が、雲海の白と同じ色に光っていました。
十九年生きて、七年間、毎日三度触れ続けて。
誰にも見られない仕事だと思っていました。
この人だけが、一度も、それを雑用と呼びませんでした。
「将軍。ひとつだけ、確認をよろしいでしょうか」
「……また書面か」
「いいえ。これは口頭で結構です」
わたくしは、包まれた手を、そっと握り返しました。
「――では将軍。わたくしが橋で、あなたが翼ということで、よろしいですね?」
「……ならやってみろ。いや、――違うな」
彼は、一度だけ唇を噛んで。
「よろしい。いつまでも」




